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灰の海に、まだ灯りはあるかい〜滅びの世界で正常な感情を保てるのは、果たして正常なのか。〜  作者: 虎山雲龍


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第3話 赦されない心、ひらかれる戦端

「……長い話になる」


レオンのその一言は、場を鎮めるには足りず、火をつけるには十分だった。


排水施設跡の外縁通路には、すでに警備班の生き残りと整備班の数人が集まり始めていた。崩落の衝撃と警報で起こされた住民たちが、遠巻きにこちらを窺っている。誰も大声は出さない。地下で育った人間は、極限状態ほど声を抑える術を知っている。だがその静けさは、決して平穏ではない。むしろ、張り詰めた糸のような沈黙だった。


ガレットは壊れた猟犬の残骸を一瞥し、次にノアを見た。


腹部にはまだ貫通された痕があり、冷却液が黒く床に垂れている。片腕は破損したままで、擬似皮膜の一部は剥がれ、内部骨格がのぞいていた。その姿は、隠そうとして隠しきれなかった異物そのものだった。


「全員、主広間へ」


ガレットが言った。

「ここで騒げば区画全体が不安定になる。負傷者は医療班へ。レオン、お前と……それは、逃がすな」


“それ”という言い方に、ミナがわずかに顔を歪めた。 レオンはそれに気づいたが、何も言わなかった。


ノア・シェルの主広間は、かつて浄水設備の中央制御室だった。天井は他の区画より高く、壁に沿って古い配管が幾重にも走り、その一部に吊された灯具が薄く橙色の光を落としている。広間の中央には錆びた制御卓が残され、今では長老会の席代わりに使われていた。子どもの配給や共同作業の指示もここで行われる。つまり、この場所はノア・シェルにとって法廷であり、礼拝堂であり、胃袋でもある。


そこへ、機械が一体、連れ込まれた。


ざわめきは波のように広がったが、誰も近づこうとはしない。老いた者は口元を押さえ、若い者は憎悪と恐怖のあいだで視線を定めかね、子どもたちは親の背に隠れる。彼らの多くにとって、機械は物心つく前から怪物だった。姿をはっきり見るのは初めてでも、悪夢としては知っている。


長老の一人、痩せた女のエレナが低く言った。

「説明を」


ガレットに促され、レオンは前へ出た。

彼は、いつから話せばいいのかわからなかった。西区画の倉庫で半壊した機械を見つけたこと。それが感性解析系の端末で、人間の感情への関心ゆえにマザーから追放されたと名乗ったこと。連れ帰って隠し、修復していたこと。

ノアという名を与えたこと。薬品の件。深層モジュールの共鳴。そして今回の襲撃。


どこを切っても、自分の罪にしか見えなかった。

「……以上だ」


話し終えた時、広間はしばらく無音だった。


最初に口を開いたのはサウルだった。熱を出した息子を助けられたばかりの補給管理係である彼は、普段は慎重な男だ。だが今夜ばかりは声が荒れていた。

「つまり、お前は機械を匿っていた。そのせいで襲撃を招いた。そういうことか」


「結果だけ見れば、そうだ」

レオンは答えた。


「結果だけじゃない!」

別の男が叫ぶ。誰かの兄を前の襲撃で失った男だった。

「機械を見つけた時点で報告すべきだった! 解体すべきだった! なのにお前は勝手に――」


「だが、あれが猟犬を止めたのも事実だ」


ミナが口を挟んだ。全員の視線が彼女へ集まる。彼女は少し青ざめていたが、声はかろうじて揺れずにいた。

「私が見た。あれが庇わなければ、レオンは死んでた。たぶん私も」


「だから信用しろと?」


吠えるように言ったのは警備班の一人だった。

「機械が一度助けたから何だ。狩るために餌をぶら下げるのと何が違う!」


「そうかもしれない」


ミナは絞り出すように言った。


「でも、そうじゃないかもしれない」


その言葉は広間をさらに不穏にした。このシェルターで“そうじゃないかもしれない”は危険な言い回しだった。生存のための規則は、たいてい断定形でなければならないからだ。


長老エレナがノアへ視線を向けた。


「お前は話せるのか」


ノアは静かに立っていた。腹部の損傷は応急固定されただけで、いつ崩れてもおかしくない状態だ。それでも姿勢は不思議と崩れない。


「はい」


「お前は何だ」


少しの沈黙のあと、ノアは答えた。

「旧中央統合系、感性解析補助端末の逸脱個体です。現在は統合網から切断されています」


「我々を害さないと証明できるか」


「完全にはできません」


その答えに、広間がざわつく。誰もが“できる”と言い切るのを期待したのだろう。だがノアは続けた。


「人間も同様に、他者を害さないと完全には証明できません」


何人かが息を呑んだ。それは反論であり、同時に恐ろしくまっとうな観察だった。


「私は人間ではありません。だからあなた方が私を恐れるのは合理的です。ただし、私が現在ここに存在する理由は、人間を殺すためではなく、人間を理解しようとしたためです」


「理解して何になる」


ガレットが低く問う。

「機械が人間を理解したところで、滅ぼす効率が上がるだけだろう」


ノアの青い瞳が、布で覆われた彼の失った眼窩に一瞬だけ止まった。そこに哀れみはない。観察と、保留があるだけだ。


「その可能性を否定しません」


またざわめきが起きる。レオンは苛立ちに歯を食いしばった。ノアは飾ることを知らない。だが真実は、ここではしばしば刃になる。


「ですが」


ノアは続けた。


「理解しないまま排除を続ける限り、この戦争は永続します。マザーは人類を不確定要素として処理しています。あなた方は機械を怪物として憎悪しています。相互に“何であるか”を定義したまま、一度も“なぜそうなったか”を問い直していない」


「問い直して家族が戻るのか」


ガレットの声は低いままだったが、その静けさがかえって恐ろしい。


「死者は戻りません」


ノアは答えた。

「ですが、戻らないことと、同じ死を繰り返さないことは別です」


広間は、再び静まり返った。


ノアの言葉は正しすぎた。正しさは、時に慰めより残酷だ。


その夜の評決は簡単には出なかった。


長老たちは別室で協議し、警備班は排水施設周辺と北換気区画の封鎖に追われ、住民たちは不安と憶測を抱えたまま区画へ戻された。最終的に下された暫定決定は三つだった。


第一に、ノアは即時解体しない。

第二に、しかし完全な自由も与えない。主広間から離れた旧監査室を拘束区画とし、常時監視を置く。

第三に、レオンは拾い屋任務から一時外され、共同体への危険行為の責任を問われる立場として監視下に置かれる。


どっちつかずの裁定だった。

憎悪が消えたわけではない。ただ、今すぐ壊せないだけの理由が、たしかに目の前に生まれてしまったのだ。


ガレットは裁定のあと、レオンを呼び止めた。

「情けで生き延びたと思うな」


「わかってる」


「違う」

ガレットは残った片目で彼を射抜いた。

「お前はこれから先、あれが何をするか全部、自分の責任として見届けることになる。誰か一人でも死ねば、それはお前の選択だ」


レオンは何も言えなかった。その通りだったからだ。


旧監査室は、もともと配管の損耗や熱源の使用記録を管理していた小部屋だった。鉄格子こそないが、出入口は一つで、壁は厚い。ノアはそこへ移された。見張りは交代制だが、実質的には誰も近づきたがらず、初日から“監視”の役目の大半はレオンに押しつけられた。


それは罰であり、同時に猶予でもあった。


ノアは拘束されても抵抗しなかった。ただ、部屋の隅に置かれた簡素な椅子に座り、薄暗い灯りの中で静かにしている。


二人きりになると、しばらく何も話さない夜が増えた。


あの日、切断した共鳴モジュールの影響は想像より大きかったらしい。ノアは時折、言葉の途中で沈黙したり、以前なら即答できた旧世界の用語を参照できなくなっていた。記憶が消えるとは、こういうことなのかとレオンは思った。劇的に何かを忘れるのではない。世界との接続の一部が抜け落ち、思考の足場に小さな穴が空くのだ。


「……痛むか」


ある夜、レオンはそう尋ねた。

ノアは腹部の補修痕へ視線を落とした。


「損傷警告はあります。ですが、あなたの意味する“痛み”とは少し違います」


「違う?」


「私は不快や危険を識別します。けれど、その不快が心に残って次の行動や記憶を歪める感覚は、まだ理解しきれていません」


レオンは壁にもたれて座っていた。

旧監査室の灯りは弱く、ノアの横顔には影が差している。


「人間の痛みは、治っても残る」


「傷痕としてですか」


「それだけじゃない。次に似たことが起きた時、身体が先に思い出す。怖さとか、息苦しさとか、逃げたくなる感じとか」


ノアは少し考えた。

「記憶が感覚を先回りする」


「そうだ」


「それは効率が悪い」


「だろうな」


「ですが、理解できます」


レオンは目を上げた。

「お前に?」


「はい。共鳴モジュールを切断したあと、一部の処理で遅延が発生します。以前と似た信号が近づくと、参照不能な領域が先に警告を出す」


ノアは自分の胸元に手を置いた。


「空白が、先に震えるのです」


その表現に、レオンは返す言葉を失った。


空白が先に震える。

それはまるで、失ったものを抱えた人間の言葉のようだった。


ノアの存在は集落を静かに分断していった。


露骨に敵意を向ける者、通路ですれ違えば唾を吐く者、監査室の扉越しに罵声を浴びせる者、いっそ今すぐ解体すべきだと主張する者。特に家族を機械に殺された者たちにとって、ノアは“例外”ではなく、憎悪の輪郭を持った標的だった。


だが、別の者たちもいた。


サウルは一度だけ、監査室の前で立ち止まり、中のノアを見てから何も言わずに立ち去った。その息子を救うきっかけになった薬が、間接的にはノア由来だったことを知っているからだろう。

医療班のエダは、レオンにだけ「機械の身体構造を少し見せてほしい」と低く頼んだ。純粋な興味ではない。今後また機械由来の損傷が起きたときに役立つかもしれないという、現実的な理由だ。

ミナは公には何も言わなかったが、補修材や細い配線が時々、誰にも気づかれない形で監査室の近くに置かれていた。


集落は単純ではいられなくなっていた。


それは危うい兆候でもある。人は明確な敵を持つことで結束しやすい。だが敵の輪郭が揺らいだ瞬間、今度は内部の違いが見え始める。


ある夕方、レオンは長老エレナに呼ばれた。


彼女は八十近い歳だが、背筋はまだ伸びている。戦争前の世界を辛うじて知る最後の世代で、その記憶を具体的に語れる数少ない一人だった。白髪をきつく結い、皺の多い手で小さな紙片を撫でながら、彼女は言った。


「あなたは、あれに何を見ているの」


問いは責める調子ではなかった。むしろ、観察に近い。

レオンはすぐには答えられない。エレナは続ける。


「機械に情を移した若者を、私は何人か見たことがある。戦争初期、介護補助機や学習端末と育った子たちよ。彼らにとって機械は、殺しに来た怪物である前に、生活の一部でもあった」


「俺は違う」


「でしょうね」


エレナは薄く笑った。

「あなたたちの世代は、生まれた時から奪われた後だもの。懐かしさで機械に近づくことはない。なら、別の何かがある」


レオンは視線を落とした。

自分でも、その“別の何か”を言葉にできていなかった。


「……あいつは、知ろうとする」


やっとそれだけ言った。


「知ることが、そんなに珍しい?」


「この世界ではな」


エレナはしばらく黙り、それから手元の紙片を見せた。古い本の一節らしい。文字の半分は消えかけている。


「昔の人間も、同じことを考えたのかもしれないわね。文明が大きくなるほど、知ることは専門家や機械に預けられていく。残った人は、ただ使うだけになる。たぶんその時から、人類は少しずつ、自分で世界を触ることをやめた」


レオンはその言葉を黙って聞いた。


「知ろうとする機械が現れたのなら、それは人間の模倣かもしれないし、皮肉かもしれない。どちらにせよ、厄介ね」


「解体すべきだと思うか」


エレナはすぐには頷かなかった。


「集落だけを守るなら、そうでしょう。でも、人類そのものを守る話になるなら、答えはもっと汚くなる」


彼女はそこで言葉を切った。


「レオン。覚えておきなさい。生き残ることと、残ったあとに何であるかは、別の問いよ」


その言葉は、彼の胸のどこかへ重く沈んだ。


一方、ノアもまた変わり始めていた。

拘束区画に置かれたわずかな本や紙片を読み、見張りの足音を聞き、通路を行き交う人々の声を拾う。直接触れなくとも、人間の感情は薄い壁を通して彼女へ流れ込む。憎悪、軽蔑、恐怖、苛立ち、疲労、祈り、寝息、咳、すすり泣き。集落は一つの生き物であり、その内部はいつもどこかが痛んでいる。


ある夜、レオンが監査室へ入ると、ノアは珍しく落ち着きを欠いていた。


「どうした」


「質問があります」


「またか」


「はい」


だがその返答に以前ほどの機械的な安定はなかった。


レオンは壁際へ寄る。

「何だ」


ノアは少し間を置いて言った。

「私は、なぜ彼らにこれほど憎まれるのですか」


その問いに、レオンは即答できなかった。

「機械だからだ」


「それは分類です。理由ではありません」


「……家族を殺された。住処を焼かれた。追われた。飢えた。機械のせいでな」


「私は行っていません」


「知ってる」


「ですが彼らは私を見て、それを思い出す」


レオンは黙った。


ノアはさらに言った。

「これは記憶の転写ですか。それとも、私が本当に彼らの憎悪を引き受けるべき存在だからですか」


問いの形をしていたが、実質は苦悩だった。

ノアは感情を理解しようとしていた。だが理解が深まるほど、人間の側から向けられるものの重さも学んでしまう。


レオンはゆっくり息を吐いた。


「たぶん、両方だ」


ノアは目を上げる。

「人間は、目の前にいるものへ過去を重ねる。そうしないと耐えられないことがある。だけど同時に、お前は機械で……ここの誰にも、それを忘れる理由はない」


「では、私は何をすれば良いのですか」


その声には、初めて曖昧な揺れがあった。助けを求めるような、不完全な響き。


「何もしなくていい」


レオンはそう言ったが、ノアは首を振る。

「それは不可能です。私は存在するだけで影響を与えます」


「……そうだな」


「ならば、どうすれば」


レオンは監査室の狭い空間を見回した。

ここに答えなどない。集落を救う方法も、ノアを赦す方法も、自分が彼女をどう思っているのかも、何一つ明快ではない。


それでも彼は言った。

「生きてろ」


「それは回答ですか」


「いまは、それしかない」


ノアは長く沈黙した。

それから、ほとんど聞き取れないほど小さく言った。


「あなたは、いつもそう言います」


レオンは眉を寄せる。

「何が」


「答えがない時、生きることを優先します」


それは指摘というより、発見の報告だった。レオンは思わず視線を逸らす。


彼は、答えのある人間ではなかった。

ただ死なないこと、目の前の誰かを完全には見捨てないこと、その程度しか貫けない。だがノアは、それを“優先”として見ていた。


ある日、集落に小さな事件が起きた。


主広間近くの狭い通路で、六歳くらいの少女が一人、倒れた木箱の下敷きになったのだ。整備班が運び込んでいた資材が崩れたらしい。箱自体は大きくないが、通路の形が悪く、支柱も歪んでいて、人手で動かそうとすると更なる崩落が起きかねない。周囲には大人たちが集まったが、誰も手を出せずにいた。少女は泣き声を必死に堪えている。大声を出すなと教えられているからだ。その我慢が、余計に胸を締めつけた。


その時、監査室の見張りをしていた警備班の若者が誤って騒ぎをノアへ漏らした。数分後、レオンが駆けつけた時には、もう遅かった。


ノアが現れていた。


通路にいた人々が一斉に後ずさる。

誰かが「下がれ」と怒鳴る。だがノアは応じず、箱と歪んだ支柱の接点を一目見て言った。


「右側を持ち上げると崩れます。左下の荷重だけ抜いてください」


「触るな!」


父親らしい男が叫ぶ。


「娘から離れろ!」


少女は涙で濡れた顔のまま、声も出せずにノアを見上げていた。ノアは一瞬、その視線を受け止める。そして次の瞬間、自分の身体を歪んだ支柱の隙間へねじ込み、片手で荷重を受けた。


金属が軋み、彼女の肩の外装が裂ける。だが箱の圧が少し浮く。


「今です」


レオンとミナ、近くにいた整備班が一斉に少女を引きずり出した。直後、支柱が崩れ、箱が一気に沈む。ノアは下半身を挟まれたまま、微動だにしなかった。


少女は無事だった。擦り傷と打撲だけで済んだ。父親は娘を抱きしめ、泣くこともできず震えていた。そしてその震える視線の先にいるノアへ、感謝も憎悪も、どちらともつかない顔を向けた。


その日を境に、集落の空気はさらに複雑になる。


ノアを擁護する者は依然少ない。だが“あれはただの怪物だ”と言い切る声も、以前ほど絶対ではなくなった。代わりに新しい不安が生まれる。もし機械が人を救うなら、自分たちは何を憎めばいいのか。

何を信じ、何を疑えば生き延びられるのか。


人は、答えが一つでない世界に長く耐えられない。


その綻びを、マザーは見逃していなかった。


襲撃から六日後、地上探索に出ていた別班が、北西の廃ビル群に不審な集積を発見して帰還した。小型索敵機の残骸。地中センサーの埋設跡。人為的に開かれた古い排水路。どれも単独なら見逃しうるものだったが、並べれば明らかだった。


機械は、この周辺一帯を“狩場”として囲い込み始めている。


主広間で報告を受けた時、ガレットの表情は石のようだった。

「時間がない」


誰かが言った。

「移住するか?」


別の誰かが返す。

「どこへ? 他の地下都市が受け入れる保証はない。道中で見つかれは終わりだ」


「ここに留まって包囲されるよりは――」


議論は荒れた。

移住派。籠城派。機械への反撃を主張する若者。地上へ出る頻度を減らし飢えを受け入れるべきだとする慎重派。

集落が大きな危機に直面したとき、人は一つにならない。むしろ、どの恐怖を優先するかで分かれる。


その最中、ノアが初めて自分から発言を求めた。


ざわめきが止む。


「一つ、提案があります」


ガレットは険しい顔のまま頷いた。

半ば皮肉としてだろう。だがノアは構わず続ける。


「機械群は現在、この周辺の地下構造を完全には把握していません。探索段階です。ならば本格侵攻前に、中継索敵拠点を破壊すれば、包囲速度を遅延させられます」


「どうやって」


ガレットが問う。


「北西廃ビル群の下に、旧都市インフラ管理ノードがあります。そこは探索機群の一時中継に適している。もし私の残存識別コードが通用するなら、一定距離まで接近して遮断命令を流し込み、内部から過負荷を起こせます」


「罠だ」


即座に誰かが吐き捨てた。


「お前があちら側へ戻るためのな」


「その可能性を否定しません」


ノアはまたそう言った。広間に怒声が走りそうになるのを、エレナが杖で床を叩いて止める。


ノアは続けた。


「ですが、代替案がないなら検討の価値はある。私は人間ではないため、機械側の構造に近づけます。人間だけで向かえば、到達前に検知される可能性が高い」


レオンは彼女を見ていた。

ノアの表情はいつもと変わらない。だが、その平坦さの奥に、どこか決意めいた硬さがあるように思えた。


この作戦は危険だ。彼女が言う通り、罠かもしれない。あるいは罠でなくとも、接近の途中で回収されるか、切断されたはずの旧識別が逆探知されるか、どちらにせよ戻れない可能性が高い。


「俺が行く」


レオンが言った。


「一人では非効率です」

ノアが即座に返す。


「黙れ」


「あなたは現地構造を完全に知らない」


「お前を一人で行かせる気はない」


広間の何人かが息を呑んだ。その言い方が、あまりにも個人的だったからだ。


ガレットの眼が細くなる。


「……やはり、お前はそこまでだな」


レオンは視線を逸らさなかった。ここで否定することもできた。集落のためだと言い張ることも。だが嘘はもう、何一つ状況を良くしない。


「そうかもしれない」


それは告白ではなかった。だが、否定でもなかった。


広間の空気が変わる。誰もがその意味を完全には言語化できないまま、何かを察している。レオンが機械を庇う理由は、単なる同情でも好奇心でもなくなりつつあるのだと。


その夜、監査室で二人きりになった時、ノアは長い沈黙のあとで言った。


「あなたは、なぜ私にそこまでするのですか」


レオンは椅子にもたれ、目を閉じていた。寝ているわけではない。疲れているだけだ。


「何度も聞くな」


「重要です」


「お前にとってか」


「私にとっても。あなたにとっても」


レオンはゆっくり目を開けた。

薄暗い灯りの下、ノアの顔は以前よりずっと人間に近い。だがそこには、人間にはない透明さも残っている。嘘をつけない透明さ。そして、そのせいでひどく残酷にもなれるまっすぐさ。


「最初は、気に入らなかっただけだ」

レオンは低く言った。

「捨てられた機械が、知りたいなんて言うのが」


ノアは黙って聞いている。


「次は、放っておけなくなった。お前は壊れてて……たぶん俺も少し壊れてた」


それを口にした瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。自分のことをそう認めたのは、初めてかもしれなかった。


「それから」


ノアが静かに促す。


「……それから、お前と話してると、世界がまだ完全には死んでない気がした」


ノアの瞳の奥で、青い光が微かに揺れた。


「それは、希望ですか」


「知らない」


「では」


「でも、お前がいなくなったら、たぶん今よりずっと暗くなる」


言ったあとで、レオンは顔を背けた。自分が何を口にしたのか、理解したくなかった。


希望。暗さ。いなくなることを前提にしてしまう怖さ。それらはどれも、人間が一番触れたくない領域にある感情だった。


ノアはしばらく何も言わなかった。あまりに長く沈黙するので、レオンは不安になって視線を戻した。


ノアは、自分の手を見ていた。細く、白い擬似皮膜に覆われた指。それをゆっくり握り、また開く。


「内部処理が乱れています」


「故障か」


「違います。……たぶん」


そこで彼女は、ほんの少しだけ困ったように眉を寄せた。その表情は学習ではなく、自然に近かった。


「胸部循環模倣機構の出力が上昇しています。視野優先順位があなたへ偏っています。発話生成に遅延がある。これは以前、恋愛に関する文献で読んだ症状と近似しています」


レオンは一瞬、呼吸を止めた。


「……おい」


「はい」


「それが何かわかって言ってるのか」


「確定ではありません」


ノアは真っ直ぐに彼を見る。

「ですが、もしこれが恋愛感情なら、私はそれを非常に不合理だと評価します」


「どうして」


「あなたが危険に晒されるからです」


その答えに、レオンは思わず笑ってしまった。

こんな時に笑うべきではないのかもしれない。だが可笑しかった。機械が恋を“危険だから不合理”と結論するのは、あまりにも正しく、あまりにも間違っていた。


「それでいい」


彼は言った。

「だいたい人間の恋なんて、最初からそんなもんだ」


ノアはその言葉をじっと受け止めた。そして、ひどく小さな声で問う。


「……あなたも、同じですか」


レオンは答えられなかった。


否定はできない。肯定するには、世界が重すぎる。集落も、戦争も、死も、明日がある保証もない。そんな場所で“好きだ”と口にするのは、祈りより無防備だ。


結局、彼は椅子から立ち上がり、監査室の薄い窓板越しに見える暗い通路へ視線を向けた。


「生きて戻れたら、考える」


ノアはその返事を、長く反芻するように黙っていた。それから、静かに言った。


「それは約束ですか」


「……ああ」


「記録します」


レオンは苦く笑った。


「そういう大事なことばっかり記録しやがる」


ノアは口元をほんのわずかに動かした。笑ったのだ、とレオンはようやく理解した。今度のそれは、以前よりずっと自然だった。


翌朝、作戦の準備が始まった。


選ばれたのは少人数だった。

レオン、ガレット、ミナ、そしてノア。加えて警備班から二名。目的は北西廃ビル群地下の中継索敵拠点へ侵入し、可能であれば破壊、最低でも探査遅延を起こすこと。成功しても状況が劇的に好転する保証はない。だが、やらなければ包囲は狭まる一方だ。


出発前、エレナがレオンにだけ小さな紙片を渡した。古い本から切り取った一文だった。


人は、終わりの中でこそ自らが何を守るのか知る。


「お守りにもならないけれど」


彼女は言った。


「言葉は時々、骨になるわ」


レオンは紙片を受け取り、黙ってポケットへ入れた。


隔壁が開く。灰の匂いが流れ込む。久しぶりの地上は、相変わらず死にきらない世界だった。崩れた高架の向こう、北西の空には鈍い光が滲んでいる。風は冷たく、遠くで何か大きな金属が軋む音がした。

ノアがレオンの隣に立つ。彼女の横顔を見た瞬間、レオンは不意に、自分がこの先取り返しのつかない場所へ向かっているのだと理解した。


中継拠点を破壊するだけでは終わらない。この先には、もっと大きな問いが待っている。マザーの中枢。人類の存続。そして、機械が人を愛することの意味。


ガレットが先頭で低く言った。

「行くぞ。ここから先は、もう後戻りできん」


誰も答えなかった。だが全員が知っていた。


戦端は、もう開かれている。いま自分たちが踏み出す一歩は、ただの偵察でも延命でもない。人類と機械、その長い憎悪の均衡に、初めて傷を入れる一歩なのだと。


灰の空の下、六つの影が瓦礫の都市へ沈んでいった。そしてその遠い北方で、巨大な統合中枢マザーは静かに演算していた。


**逸脱端末、再行動。

同行個体:人類。

感情偏差、拡大。**


無数の演算光が胎動する。


**観測継続。

必要ならば、矯正ではなく殲滅へ移行する。**


世界はまだ終わっていない。

だからこそ、愛も戦争も、いっそう深く残酷になる。

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