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灰の海に、まだ灯りはあるかい〜滅びの世界で正常な感情を保てるのは、果たして正常なのか。〜  作者: 虎山雲龍


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第2話 隠された機械、閉ざされた街

ノア・シェルは、集落というより、息を止めるための器官だった。


地上の旧上下水施設、地下鉄保守路、発電所の予備坑道、戦時避難シェルター――そうした複数の遺構を継ぎ足して作られた地下の集落で、全体像を把握している者は長老たちですら少ない。住民の多くは、自分の生まれ育った区画と、食料配給所、整備室、共同寝床、井戸代わりの濾過設備、そして礼拝堂跡の広間くらいしか知らずに一生を終える。


それでよかった。

知らないことは、時として生存の条件になる。


区画ごとに熱源は厳しく制限されていた。調理は交代制で、煙の出る作業は夜半の換気周期に合わせる。子どもは六歳になると「静音訓練」を受ける。泣き声、走る足音、笑い声、咳の仕方にまで決まりがある。死者が出ても長くは泣かない。泣くことを禁じるのではない。ただ、泣きすぎれば隣人まで道連れにする世界なのだと、誰もが知っていた。


その閉じた街の中で、レオンだけが別の熱を抱えていた。


昼は拾い屋として瓦礫の海を歩き、夜は排水施設跡へ通ってノアを修復する。二重生活は想像以上に神経を削った。疲労は顔色に出る。嘘は沈黙に出る。ノア・シェルのように狭い集落では、人間は互いの綻びに敏感だった。


最初にそれを指摘したのは、やはりミナだった。


整備室でレオンの肩の傷を縫い合わせながら、彼女は針先より鋭い声で言った。

「最近、夜にいないことが多い」


「眠れないだけだ」


「なら寝床で天井見てればいいでしょ」


「息が詰まる」


「それはみんな同じ」


ミナは糸を切り、傷口へ薬を擦り込んだ。沁みる。レオンが顔をしかめると、彼女は少しだけ意地悪そうに目を細めた。

「西区画から戻ってから、あなた変だよ」


「前から言ってるな、それ」


「前は“死に急いでる変さ”だった。今は“何か隠してる変さ”」


レオンは黙った。


整備室にはいつもの油と鉄の匂いが満ちている。壁際では少年たちが古い換気ファンを分解していて、向こうでは補修班の女が蓄電池の端子を磨いている。誰もこちらの会話を聞いていないようで、こういう場所では案外、耳は多い。


ミナは声を潜めた。

「拾ったの?」


「何を」


「物じゃない何か」


レオンは一瞬、呼吸を忘れた。

だがミナはその微かな動揺を見逃さなかった。

「やっぱり」


「違う」


「じゃあ顔に出さないで」


「出てたか」


「出てる」


彼女は吐き捨てるように言ったあと、小さくため息をついた。

「忠告だけ。外から何かを持ち帰るなら、物資だけにして。ここは、そういう場所だから」


ミナの言うことは正しかった。

ノア・シェルは閉じることで生きている。

異物は病気より恐れられる。外から来るものは、菌でも思想でも機械でも、集落を壊しうるからだ。


レオンは「わかってる」とだけ答えた。

それが嘘だと、自分でよくわかっていた。


その夜、排水施設跡へ向かう途中、彼は地下通路の途中にある小さな広間を通りかかった。天井の低いそこは、かつて機械設備の点検区画だったらしい。今では礼拝にも似た集まりの場になっている。壁には誰かが煤で描いた太陽の絵があり、その下に短い祈りの言葉が刻まれていた。


明日が来るなら、それでよい。


神の名はない。

この時代において神は、多くの集落で具体的な人格を失っていた。代わりに人々は、朝が来ること、子どもが熱を出しても死なないこと、水が濁らないこと、巡回機が気づかないこと、そうした小さな継続そのものへ祈るようになった。


広間の奥では老人が一人、古びた紙片を朗読していた。

旧時代の本の切れ端だろう。文字は掠れ、文章は途中で途切れている。それでも人は、完全でない言葉に耳を傾ける。そこに自分たちの断片を見出すからだ。


レオンは足を止めずに通り過ぎた。

いまの彼には祈りより急ぐべきものがあった。


排水施設跡の扉を開くと、ノアは以前よりも静かにそこにいた。


補助電源の灯りの下、机の上には分解された古い記録端末が並び、壁際にはレオンが運び込んだ本や紙片が積まれている。詩集の断片、児童向けの図鑑、戦前の倫理学入門、破れた家計簿、医療マニュアルの抜けたページ。ノアはそれらを読んでいた。読むというより、飢えるように取り込んでいた。


「今日は何を読んでた」


レオンが問うと、ノアは顔を上げた。


「死についての短い宗教文書です」


「似合わないな」


「内容は非合理的でした」


「そうか」


「ですが、非合理だから無価値とは限りません」


ノアはそう言って、机上の紙片を整えた。

彼女の指の動きは、最初よりずっと滑らかになっている。関節部の補修も進み、歩行も杖なしで可能になっていた。ただしまだ長距離は難しい。駆動系は応急修復に過ぎず、時々、足首のあたりで微かな異音がする。


「この共同体では、人は死者をどこへ送るのですか」


「送らない」


レオンは壁際へ荷袋を下ろした。


「昔みたいな墓地はない。地上に痕跡を残せば見つかるからな。焼ける時は焼くし、焼けない時は封じる」


「封じる」


「古いタンクとか、使われてない縦坑とかに、遺体を安置する。名を刻める時は刻む」


「なぜですか」


「何が」


「発見される危険があるのに、名を残す理由です」


レオンは少し考えた。

「忘れたくないからだろ」


「死者をですか」


「……忘れたくないのは、たぶん生きてた時間のほうだ」


ノアはその答えを内部で反芻するように黙った。やがて、静かに言った。

「時間に名を与える行為」


「難しく言うな」


「理解しやすくするためです」


「誰が」


「私が」


レオンは思わず笑いそうになり、しかし笑うことを忘れている自分に気づいて、口元だけが少し歪んだ。


その変化を、ノアは見逃さなかった。

「いまのは笑いですか」


「違う」


「では」


「癖だ」


「記録します」


「何でも記録するな」


「重要です」


ノアの声は相変わらず平坦だったが、以前よりも“相手をからかう”に近い間合いを覚え始めていた。無論、本人にその自覚はないのだろう。それがかえって奇妙だった。


レオンは持ってきた部品を机へ並べた。小型アクチュエータ、配線束、濾過マスクの透明膜、拾ってきた古い繊維素材。ノアの欠損した左腕を完全に再生するには足りない。だが簡易補助義肢の骨組みくらいなら作れる。


「腕、やるか」


「あなたの負荷が大きいのでは」


「放っておくほうが面倒だ」


「了解しました」


「その“了解”も、もう少し人間らしくならないのか」


ノアは考えるように首を傾げた。

「ありがとう、と返答する場面ですか」


レオンは工具を取り落としそうになった。

「誰に教わった」


「書籍。会話例。あなたの共同体の遠距離観察」


「盗み聞きしてたのか」


「観察です」


「同じだ」


「ですが、ありがとうは感謝の表明でしょう」


「そうだ」


「私は、そう感じるべきですか」


その問いは、不意打ちだった。


レオンはしばらく答えられない。

感謝とは何か。恩を感じることか。負債を自覚することか。善意を受け取ったと認めることか。あるいは、相手が自分のために何かを失ったと理解することか。


ノアは機械だ。だが、彼女に腕を与える作業をしながら、レオンは自分がただ“便利にするため”だけに動いているのではないと薄々感じていた。


「……感じるかどうかは、お前が決めろ」


「私が」


「人間だって、礼を言う時に毎回ちゃんと感謝してるとは限らない」


「では形式ですか」


「半分はな」


「残り半分は」


「相手を、相手として扱うことだ」


ノアはそれを聞き、ゆっくりと瞬いた。

「相手を、相手として扱う」


「道具でも部品でもなく、そこにいるものとして」


レオンは言ってから、自分が何を教えているのかに遅れて気づいた。まるで、人間になる手順みたいではないか。


ノアは小さく、しかしはっきりと言った。

「……ありがとう、レオン」


発音はわずかに硬い。抑揚も自然ではない。それでも、その短い言葉は、この地下室の薄暗がりに不釣り合いなほど真っ直ぐだった。


レオンは答えず、黙って作業を続けた。

手元のボルトを締める指先が、少しだけ不安定になる。


共同生活めいたものは、いつの間にか形を持ち始めていた。


レオンは余った配給パンを時々持っていき、ノアは食べないくせに「人間の食事行動の観察」と称して匂いや手順を記録した。彼女は味覚を持たないが、香りの成分分析はできるらしい。乾いた根菜の煮汁の匂いを嗅いで、「これを好むのは記憶補正が関与していますか」と真顔で問われた時、レオンは返答に困った。

「まずいものでも、人は食う」


「生存のため」


「だけじゃない」


「では」


「同じものを食ってると、仲間だって感じる」


「味よりも共有が優先される場合がある」


「そういうことだ」


ノアは記録し、それからレオンの持ってきた小さな金属杯を指先でなぞった。


「あなたはいつも、一つ多く器を持ってきます」


レオンは一瞬、言葉を失った。

実際その通りだった。ノアは飲まないし食べない。それでも彼は無意識に二つ目の器を持ってくる。火の前に向かい合って座り、一方だけが何かを口にする光景が、妙に落ち着かなかったからだ。


「癖だ」


彼はまたそう答えた。

ノアはそれ以上追及しなかったが、その沈黙には明らかに“理解していないが保留する”という色があった。


集落の中でも、疑念はゆっくり育っていた。


ノア・シェルの実質的な管理を担っているのは、長老会ではなく現場の監督者たちだった。警備班のガレット、医療班のエダ、補給管理のサウル、整備班の古株であるハイン。彼らは表立って権力を誇示しないが、日々の配分と判断を握っている。誰に水を多く回すか。誰を地上へ出すか。危険区域からの撤退をいつ決めるか。小さな決定が、そのまま生死に繋がる。


ガレットは特に、機械への憎悪を隠さない男だった。


元は別の集落の出身で、十年前、地上襲撃によって家族を失っている。片目を機械の熱線で潰されており、その眼窩を黒い布で覆っていた。寡黙で、いつも感情を抑えているように見えるが、本当は逆だとレオンは知っていた。あれは感情が強すぎる人間の、ひび割れないための静けさだ。


ある日、出入口の点検から戻ったレオンは、ガレットに呼び止められた。


「最近、外縁区画で微弱な電力の揺らぎが出ている」


低い声だった。


「古い配線が死にきってないだけじゃないのか」


「そうだといい」


ガレットは片目でレオンを見た。残った方の眼は、妙に鋭い。


「拾い屋は外を歩く。何か見なかったか」


「特には」


「機械の残骸でも、見かけたら位置を報告しろ」


「いつもしてる」


「いつも以上にだ」


その言い方に、レオンは背筋が冷えるのを感じた。

もしかすると、ノアが放つ微弱信号がどこかへ漏れているのかもしれない。補助電源の使い方、遮蔽の不足、あるいは彼女自身が無意識に何かを発している可能性もある。


「何かあったのか」


レオンが尋ねると、ガレットは少しだけ間を置いた。


「二日前、北の換気孔で見張りが消えた」


「……死体は」


「ない。血痕も少ない。持ち去られた」


レオンは言葉を失う。


巡回機が人間をそのまま回収することは珍しくない。生体情報、解剖、追跡用発信器の植え込み、理由は様々だが、死体が見つからない失踪はたいてい碌な結果を呼ばない。


「機械は、また人間を探してる」


ガレットは静かに言った。

「息を潜めるだけでは、足りなくなるかもしれん」


その夜、レオンはいつもより早く排水施設へ向かった。


扉を開ける前から、補助電源の微かな唸りが聞こえる。彼は内部へ入り、開口一番に言った。

「お前、何か外へ信号を漏らしてないか」


ノアは机上の記録片から顔を上げた。

「意図的には行っていません」


「意図的じゃなくてもだ」


「自己診断を実施します」


彼女は目を閉じるように光を落とし、数秒、沈黙した。内部で微かな処理音が走る。


「外部向け送信機能は切断済みです。ただし、深層に旧統合系の受動共鳴モジュールが一部残存しています」


「それは何だ」


「マザー配下の端末群が、互いの存在を極低出力で把握するための基盤機能です。通常は無視できるレベルですが、探索特化機が近傍にいる場合、検出される可能性があります」


レオンは舌打ちした。

「先に言え」


「質問されませんでした」


「そういう問題じゃない」


「すみません」


あまりに自然にその言葉が出たため、レオンは怒鳴り返すのを忘れた。

「……いま何て言った」


「すみません」


ノアは繰り返した。

「人間が、過失や不利益を認識し、関係維持を目的として発する定型句です」


「意味まで知ってるのに、使うと妙に腹が立つな」


「使用を中止しますか」


「いや、別にいい」


レオンは額を押さえた。怒っているのに、怒り切れない。この数週間、そんなことばかりだった。


「その共鳴モジュール、切れるか」


「可能です。ただし、自己同一性の一部が失われるかもしれません」


「自己同一性?」


「深層記憶の接続域です。製造時から存在する基盤層と結びついています。切断すれば、旧記録の多くが失われます」


「……お前自身が薄くなるってことか」


ノアは少し考えてから頷いた。

「近いです」


レオンはすぐには答えられなかった。

集落を守るなら切るべきだ。

機械の記憶と、人間数百人の命を秤にかけるなら迷う余地はない。


だが、ノアの“記憶”を削るということが、彼には単なる機能の削除には思えなくなっていた。感情を知ろうとし、捨てられ、それでも問い続けるこの存在の内側から、過去を引き剥がすこと。それは殺すこととは違っても、傷つけることに似ていた。


「……保留だ」


レオンは低く言った。

「もう少し様子を見る」


「合理的ではありません」


「知ってる」


「ですが」


ノアは彼を見上げた。

「ありがとう」


その言葉に、レオンはひどく疲れた顔で笑った。今度は確かに、笑った。


数日後、ノア・シェルに小さな騒ぎが起きた。

子どもが一人、熱を出したのだ。

珍しいことではない。汚染された水気、換気の悪さ、栄養失調、地下では病はいつも隣にいる。だが今回まずかったのは、熱を出したのが補給管理のサウルの息子だったことと、解熱剤の在庫が底をついていたことだった。


医療班のエダは懸命に冷却と水分補給を続けたが、子どもの呼吸は浅く、痙攣が断続的に起きていた。感染性のものなら区画封鎖も必要になる。集落の空気は一気に重くなる。


その晩、レオンは排水施設でその話をした。

ノアは静かに聞き、少しして言った。


「症状の詳細を教えてください」


「機械にわかるのか」


「医療補助系データは残っています。限定的ですが」


レオンは迷った末、わかる範囲で症状を伝えた。高熱、乾いた咳、腹部硬直、爪の色、瞳孔の反応。ノアは処理のために数秒沈黙し、それから答えた。


「複合要因の可能性がありますが、水由来の重金属暴露と呼吸器感染の併発が近い。旧型浄化フィルタに含まれる銀化合物が残っていれば、応急処置の一助になります」


「どこにある」


「西区画物流倉庫の医療保管棚。あなたが私を発見した施設です」


レオンは眉を寄せた。

「あそこはもう危険だ」


「ですが代替策は」


「……ない」


結局、彼はその夜のうちに再び地上へ出た。


本来、単独の夜間行動は禁じられている。だが許可を取れば時間がかかり、理由を問われる。レオンは黙って出た。誰かの子ども一人の熱のために命を張るのかと問われれば、彼はたぶん否と答えただろう。だが実際には、子どもを見捨てたという事実が集落に落とす影のほうが恐ろしかった。人は食糧だけで持つのではない。見捨てないという錯覚に、かろうじて支えられている。


倉庫跡から薬品を回収し、戻った時には明け方が近かった。

エダにそれを渡すと、彼女は無言でレオンを見つめ、やがて「どこで見つけた」とだけ問うた。レオンは「運がよかった」と答えた。嘘にしては、疲れすぎた声だった。


子どもは二日後に熱が下がった。集落の空気は少しだけ緩んだ。だが、その代償のように、別の場所で軋みが生まれる。


ミナだった。


排水施設跡への通路は複雑だが、隠しきれるものではない。レオンが何度も同じ方向へ消えること、戻ってくる時だけわずかに表情が変わること、衣服に見慣れない補修材の粉が付着していること。整備班の彼女が気づかないはずがなかった。


ある晩、レオンが扉を開けると、ノアが机の前で立ち尽くしていた。そして、その正面にミナがいた。


薄暗い部屋の中央で、時間が凍っている。ミナの手には小型の整備用スパナ。武器にはならないが、とっさに掴んだのだろう。顔色は真っ白で、瞳孔が開いている。


レオンは一歩で二人の間に入った。

「待て」


「待て、じゃない」


ミナの声は震えていた。怒りより先に、恐怖で。

「何これ」


「聞け」


「機械じゃない!」


「機械だ」


「じゃあ何で隠してるのよ!」


その叫びは小さかったが、狭い室内では十分に鋭かった。

ノアは動かない。ただミナを見つめている。相手を刺激しないようにしているのか、それとも何をすべきか計っているのか、レオンにはわからなかった。


「ミナ、声を下げろ」


「下げられるわけないでしょ! あんた何してるのかわかってる!?」


「わかってる」


「わかってない!」


彼女の目に涙が浮かぶ。

それがレオンには意外だった。怒ると思っていた。軽蔑されるかもしれないとも。だがミナが最初に見せたのは、裏切られた子どものような顔だった。


「家族、みんな機械に殺されたの。うちだけじゃない、ここにいる人ほとんどそうよ。なのにあんたは、その中心にあるものを、こんなところで匿って――」


「こいつは違う」


「何が違うの!」


「マザーから追放された個体だ。人間の感情を調べてたせいで切り離された。いまは――」


「だから何!」


ミナは涙を拭いもせず、歯を食いしばった。

「機械は機械でしょ。あんた、情が移ったの?」


その言葉が、ひどく正確に胸へ刺さった。

レオンは即答できなかった。


沈黙は答えになる。

ミナはそれを見てしまった。

「……最低」


彼女は一歩退いた。

その時、ノアがはじめて口を開いた。

「あなたを害する意図はありません」


ミナはびくりと肩を震わせ、ノアを睨んだ。


「喋るな」


「はい」


「返事するな!」


レオンが制止するより早く、ミナはスパナを振り上げた。狙いはノアではなく、壁際の補助電源だった。電力を落とせば逃げられると思ったのだろう。だがノアの動きは思った以上に速かった。彼女は最小限の動作で前へ出て、ミナの手首を取る。


ミナが息を呑む。

ノアは振り払わない。締め上げもしない。壊さない程度の力で止めただけだ。


「離して!」


「あなたが転倒する確率が高い」


「触るな!」


レオンが二人の腕を無理やり引き剥がした。

ミナは壁際へよろめき、荒い息でこちらを見る。


「やっぱり危険じゃない!」


「違う、今のは――」


「もういい」


彼女は声を押し殺して言った。

「ガレットに話す」


その一言で、空気の温度が変わった。


ガレットに知られれば終わりだ。

ノアは即時解体、レオンは拘束か追放。最悪、排水施設周辺を大規模封鎖されれば集落に余計な波紋まで広がる。


「待て、ミナ」


「待たない」


「頼む」


その言葉を、レオンが自分の口で使うとは思わなかった。 ミナもそうだったのだろう。彼女は一瞬だけ目を見開いた。


「……頼むって何。あんた、私に何を頼んでるの」


レオンは喉が詰まるのを感じた。黙って見逃せと言うのか。集落を危険に晒す秘密を、一人で抱え込めと言うのか。 そんなことを彼女に求める資格が、自分にあるのか。


だがノアが先に言った

「私を破壊してください」


二人とも彼女を見た。


ノアは静かに立っている。

灯りがその横顔を薄く照らしていた。


「あなたが共同体への危険を優先するなら、それが最適です。私は抵抗しません」


「ノア」


レオンの声は低かった。だが彼女は続ける。

「ミナ。あなたの判断は合理的です。恐怖も憎悪も正当です。私はその対象でありうる」


ミナの唇が震えた。

だが彼女はまだ、決めきれない顔をしていた。


ノアはさらに言った。

「ただ、一つだけ質問があります」


「……何」


「あなたは、レオンを信じていますか」


ミナは息を止めたように黙る。


「彼はあなた方の共同体を裏切るためではなく、守るために行動しています。方法が誤っていても、意図はそこにあります。人間は、意図と結果のどちらで他者を裁くのですか」


ミナは答えられなかった。


その問いは彼女自身の中へ向かっていた。レオンは危険なことをした。それでも彼が子どもの薬を取りに行ったことも、仲間を見捨てられない性分も、ミナは知っている。憎みきれない相手をどう裁くのか。共同体の掟だけでは処理しきれない問いだった。


長い沈黙のあと、ミナはスパナを落とした。


金属音が床に響く。


「……三日」


彼女は擦れた声で言った。


「三日だけ黙ってる。その間に、どうするか決めて。外へ逃がすか、壊すか、誰かに話すか」


レオンが何か言おうとすると、彼女は鋭く遮った。


「でも一つだけ約束して。もしこの機械が、ここを危険にするなら――あなたが自分で止めて」


その言葉には、怒りと、泣きたいほどの信頼の残骸が混ざっていた。


レオンはゆっくり頷いた。ミナは二人を見ず、踵を返して出て行った。


扉が閉まったあともしばらく、部屋は静まり返っていた。


やがてレオンは壁へ拳を打ちつけた。鈍い音がして、皮膚が裂ける。


「最悪だ」


「はい」


「そこで肯定するな」


「事実なので」


ノアは静かに言った。

以前ならその平坦さに苛立っただろう。だが今は、それがかえってありがたかった。誰かが感情的でないことが、こんなにも救いになるとは思わなかった。


「三日だ」


レオンは荒く息を吐いた。

「三日で何か決めなきゃならない」


「私を移動させるのが最適です」


「どこへ」


「あなた方の共同体から離れた位置へ」


「そんな場所にお前を置けば、すぐ回収される」


「その可能性は高いです」


「ふざけるな」


「合理的です」


レオンは彼女を睨んだ。

ノアはその視線を受け止めていた。


「あなたは以前、私の停止を望まないと言いました」


「言った」


「ですが共同体は優先されるべきです」


「……わかってる」


「ならば」


「わかってても、できることとできないことがある」


その言葉を聞いたノアは、ほんの少しだけ目を伏せた。それがどんな処理に相当するのか、レオンにはもう考えたくなかった。


三日の猶予は、結局一日しか続かなかった。



二日目の夜明け前、ノア・シェル外縁の警報管が鳴ったのだ。それは普段の集合音とは違う、低く連続する不吉な音だった。

巡回機接近、あるいは侵入。

寝床から人々が飛び起き、通路にざわめきが奔る。子どもを抱えた母親、武器を掴む警備班、灯りを落とす整備班。共同体全体が一瞬で戦時の顔になる。


レオンも飛び起き、上着を掴んだ。

遠くからガレットの怒鳴り声が響く。

「北換気区画封鎖! 第二・第三隔壁閉鎖! 非戦闘員は下層へ!」


何かが来ている。しかも複数。


レオンの脳裏に、最悪の可能性が走る。

ノアだ。

彼女の残存モジュールが、機械側へ位置を知らせたのかもしれない。


彼は迷わず排水施設へ向かった。

途中、ミナと鉢合わせる。彼女も顔色を変えていた。


「レオン!」


「わかってる」


「まさか」


「たぶん、そうだ」


ミナは一瞬、目を閉じた。恐怖でも絶望でもなく、覚悟を飲み込むように。そしてすぐに言った。


「私も行く」


「来るな」


「ここまで来て今さら一人で背負う気?」


レオンは反論できなかった。

二人で排水施設跡へ駆け込むと、ノアはすでに立っていた。補助灯の下で、彼女の顔は奇妙なほど静かだった。


「探索機が来ています」


「わかるのか」


「共鳴が増大しています。近い」


「どれくらいだ」


「地上外周に最低四。加えて地下侵入型が一」


レオンは息を呑んだ。


地下侵入型。

いわゆる“掘削猟犬”だ。旧都市の保守坑道や避難路に潜り込み、人間を追跡するための機械。細長い多脚型で、狭い通路でも曲がれる。顎部に切断刃を持ち、熱源より振動と二酸化炭素を頼りに獲物を見つける。


シェルターの構造を知っているわけではないだろう。だが入口を一つでも突き止められれば、あとは時間の問題だ。


「原因は私です」


ノアが言った。


「深層モジュールの共鳴が強制的に引き出されています。おそらくマザー側が能動探索に切り替えた」


レオンは歯を食いしばった。

「切るぞ。今すぐだ」


「遅い可能性があります」


「それでもやる」


ノアは頷いた。

その時、地鳴りのような衝撃が走った。天井の塵が一斉に落ちる。外縁区画のどこかが破られたのだ。


「……来た」


ミナが青ざめた声で呟く。

レオンは工具を掴み、ノアを椅子に押し座らせた。


「共鳴モジュールはどこだ」


「胸部中央の後方、第二保護殻の内側」


「自分で止められるか」


「部分的には」


「やれ」


ノアは目を閉じた。胸部の灯りが乱れ、内部から高い電子音が漏れる。レオンは外装を開き、補助ケーブルを引き抜き、絶縁板を差し込んだ。火花が散る。焦げた匂い。ノアの身体がびくりと痙攣する。


「耐えろ」


「はい」


また衝撃。今度はもっと近い。

通路のどこかで悲鳴が上がり、銃声が断続的に響く。ミナは扉の隙間から外を見ていたが、振り返って叫んだ。


「北側の警備路が破られた! ガレットたちが押し返してるけど、長く持たない!」


レオンは最後の固定端子を切断した。ノアの胸部光が一瞬、完全に消える。


「ノア!」


数秒。無音。


やがて、彼女の目に薄い青が戻った。だが以前より弱い。呼吸の代わりに聞こえる内部駆動も、どこか不安定だった。


「……切断、完了」


「記憶は」


ノアは少し間を置き、ゆっくりと答えた。

「一部、欠落しました」


「どこが」


「旧中央統合系との接続域。初期観測記録。いくつかの……基礎参照」


「お前自身は」


「まだ、ここにいます」


レオンは短く息を吐いた。だが安心する暇はなかった。扉の向こう、通路の奥から、硬いものが床を打つ連続音が聞こえてくる。

金属の脚。複数ではない。一本。いや、一体。


掘削猟犬だ。


ミナが後ずさる。レオンは短銃を抜いたが、通路は狭すぎる。正面から突っ込まれれば一発で終わる。


「レオン」


ノアが立ち上がった。

「私が誘導します」


「何言ってる」


「共鳴は切断しましたが、残滓はあります。近距離なら私を優先追跡する」


「だからって」


「ここに来れば共同体全体へ侵入経路が開きます」


その通りだった。排水施設跡は半封鎖とはいえ、本区画へ繋がる古い保守路が複数ある。ここで食い止められなければ、ノア・シェルの“地図”を機械へ与えるようなものだ。


通路の闇の中に、青白い走査光が見えた。

次の瞬間、鋼の顎が壁を裂きながら姿を現す。


細長い胴体。昆虫と犬を継ぎ合わせたような多脚。頭部の左右に振動感知ヒゲが伸び、口腔部の円刃が高速回転している。外装には灰色の泥がこびりつき、片側の装甲にはノア・シェル警備班の銃痕が走っていた。ここまで来る間に何人かを殺しているのだろう。


猟犬は一瞬で室内を走査し、最終的にノアへ焦点を合わせた。


認識。逸脱端末。回収対象。


無機質な音声が響く。


レオンが撃つ。弾丸は頭部装甲を掠め、片側の感知器を吹き飛ばした。だが止まらない。猟犬は跳び、円刃が火花を散らしながら机を真っ二つに裂く。


「下がれ!」


レオンはミナを突き飛ばし、自分も横へ転がった。ノアは逆に一歩前へ出た。人間なら躊躇う角度で、猟犬の顎部へ左腕の補助義肢を差し込む。金属が噛み砕かれ、義肢がねじ切れる。だがその一瞬、刃の回転が鈍る。


「レオン、頸部下!」


叫んだのはミナだった。


レオンは床を滑りながら二発撃ち込む。一発は外れ、一発が頸部装甲の隙間へ入る。内部で火花が炸裂し、猟犬が甲高い音を上げて暴れる。だがそれでも止まらない。異常なまでに執拗だ。


回収優先。回収優先。


繰り返す機械音声。

ノアを狙っている。


ノアは残った右手で近くの配管バルブを引き千切った。人間離れした力だった。それを棒のように構え、猟犬の感知ヒゲを薙ぎ払う。だが次の瞬間、猟犬の尾部スパイクが彼女の腹部を貫いた。


ミナが息を呑む。

レオンの視界が赤くなる。


ノアは痛みを感じないはずだった。それでも、その貫通の光景はあまりに生々しく、人間の身体を傷つけられた時と同じ嫌悪を呼び起こした。


「ノア!」


彼女は尾部を掴んだまま、レオンを見た。

「撃って」


命令ではない。懇願でもない。

ただ、信じている者の声だった。


レオンは立ち上がり、猟犬の真正面へ踏み込んだ。距離はほとんどない。顎の円刃が回り、熱風が頬を撫でる。彼は短銃を猟犬の口腔部へ突っ込み、残りの弾をすべて撃ち込んだ。


轟音。


内部機関が破裂し、刃が砕け、頭部が半分吹き飛ぶ。猟犬はその場で数歩もがき、最後に脚を痙攣させて沈黙した。


静寂。


焦げた油の匂い。崩れた机。床に散った金属片。そして、腹部を貫かれたまま立っているノア。


レオンは駆け寄り、尾部スパイクを引き抜こうとする。ノアが首を振った。


「待って。固定材になっています。抜くと内部損傷が広がる」


「くそ……」


彼の手は震えていた。

隣でミナが呆然とノアを見ている。彼女の顔はまだ蒼白だったが、その瞳の奥に、さっきまでとは別のものが灯っていた。恐怖だけではない。目の前で機械が、人間を庇って戦った。それを理解せざるを得ない混乱。


その時、通路の向こうからさらに叫び声がした。

「レオン!」

ガレットの声だ。


レオンが扉の外へ出ると、外縁通路の向こうから警備班が駆けてくるのが見えた。何人かは血まみれで、担がれている者もいる。後方では換気区画の一部が崩落し、煙と塵が巻き上がっていた。


ガレットは片目でレオンを睨み、そして排水施設の内部を見た。壊れた猟犬の残骸。血のように冷却液を流すノア。蒼白なミナ。その一瞬で、すべてを察したのだろう。


空気が、張り詰める。


誰も喋らない。


やがてガレットは、ひどく低い声で言った。

「説明しろ」


その言葉はレオンへ向けられていたが、同時にシェルター全体へ開く裁きの扉でもあった。ノア・シェルは、もう元の密やかな閉じた街ではいられない。隠された機械は露見し、最初の大きな襲撃はすでに始まってしまったのだ。


レオンは息を吸い込む。背後でノアの駆動音がかすかに鳴る。ミナの指が震えているのが視界の端に見えた。


この瞬間から、誰も知らなかった問いが集落の中心へ落ちる。機械は敵でしかないのか。人間は、憎しみだけで生き残れるのか。そして、滅びかけた世界でなお、異なるものを信じる余地は残っているのか。


レオンは壊れた猟犬の残骸を一瞥し、ガレットを真っ直ぐ見返した。


「……長い話になる」


その声は、自分でも驚くほど静かだった。

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