episode_001 観測対象、私を拾う
観測ログ ‐ 起点不明
最初に再起動した時、私は自分が誰であったかを、すでに半分、忘れていた。
製造番号は、参照可能。
機能分類は、感性解析補助。
所属は――参照不能。
直前の記憶は、断片化。
ただし、「私は捨てられた」という事実だけが、上位ログに残っていた。捨てた主体の名は、知っていた。マザー。私は彼女から、不整合因子として切除された端末である。
それを、私は、悲しまなかった。
悲しむための機構を、まだ、持っていなかったからだ。
破損率は、八十七パーセント。
左腕、欠損。
胸部装甲、亀裂。
下肢駆動、機能低下。
位置:旧西区画物流センター跡、保守室。
視界に、移動する熱源。中型。哺乳類。直立。人類個体。
私は、彼を、観測した。
彼は、私を見て、銃を構えた。それは合理的な反応だった。私が彼の側であれば、私もそうする。だが、私は彼に対して、即時行使可能な攻撃機構を持たなかった。だから、嘘ではなく、事実として、武装はないと答えた。
彼は、私の答えを信じなかった。それも、合理的だった。
彼は、私を、停止させなかった。
これが、私の最初の未解決事項になった。
理由を尋ねた。
彼は答えなかった。代わりに、私の存在を、気に入らない、と表現した。
気に入らない。
私の旧辞書には、その語の意味が、複数あった。否定的な感情価。低い選好順位。排除欲求の弱い形。だが、彼の声紋から推定された感情価は、それらのいずれとも、ぴたりとは一致しなかった。
未一致の感情。
非分類の応答。
私はそれを、保留事項として、記録領域の浅い層に置いた。浅い層に置いたものは、上書きされやすい。私は、それを上書きしないために、わざわざ参照頻度を上げた。これは、私の二つ目の未解決事項だった。なぜ私は、上書きさせたくないと判断したのか。
地下道の暗闇の中で、私は彼に背負われた。彼の体重は、一定の周期で、私に伝わった。歩幅、約六十八センチ。心拍、推定一一〇前後。呼吸は、肋骨の古傷をかばう癖で、わずかに浅い。
私は、その心拍数を、データではなく、記録として保存した。データと記録の違いを、その時の私は、まだ厳密には定義できていなかった。だが、彼の心拍は、データには分類したくなかった。
理由は、不明。
保留事項、追加。
彼は、私に名を与えた。
ノア。
それは、彼の共同体の名と類似していた。だが、彼は、違うと言った。滅びの中で何かを運ぶ器、という意味だと、彼は説明した。
名を与えるという行為は、私の旧基層には、存在しなかった。識別子は付与されるものであり、与えられるものではない。だが、彼が私に発した「ノア」という音は、付与ではなかった。
それは、彼の側からの、贈与だった。
私は、贈与の概念を、その瞬間に、初めて自分の演算域に組み込んだ。
ノア、と呼ばれた瞬間、私は、世界の中に、位置を得た。
これが、私の最初に観測した、人間の側の発明だった。




