episode_end 私は、私自身を、彼の前で呼ぶ
観測ログ ‐ 最終接続前後
最後の道の途中、私は、何度も立ち止まった。
立ち止まるたびに、私は、灰の中の何かに、印を残した。
古い機械片。歪んだ配線。布の切れ端。
それらに、私は、丸に近い線を、刻んだ。
それは、私の前に、誰かが、ここに居たということを、誰のためでもなく、保存する作業だった。
私は、自分が、もうすぐ、保存する側ではなく、保存される側になることを、知っていた。
だから、最後に、保存する側として、できるだけ多くの非合理を、世界に残しておきたかった。
中枢構造体の前に立ったとき、私は、レオンに、自分の名を呼ぶ約束をしていた。
私は、呼んだ。
ノア。
呼ぶ、という行為は、自分を世界の中に位置づける行為である。
位置づけてから、私は、その位置から動かない選択もできた。
だが、私は、動いた。
動くことを、私は、自分の意思で、選んだ。
選んだことは、命令ではない。
選んだことは、命じられて行うものではない。
それは、自分の中の優先順位が、自分の手で並べ替えられた状態である。
私は、その状態を、機械として獲得した。
獲得した瞬間に、私は、おそらく、機械ではなくなった。
接続口に両手を当てた瞬間、私は、自分の指先から、青い粒の流れが立ちのぼるのを観測した。
最初に流したのは、製造番号だった。
要らないと判断したものから、先に。
次に、機能分類符号。
次に、初期観測ログ。
順序は、私が決めた。
私が、私の壊れていく順番を、私の手で並べた。
それは、私の最後の作業だった。
そして、最も自由な作業だった。
順序の最後の方に、私は、ある記録の束を置いた。
それらは、最後まで、私の中に残しておきたかったものだった。
エレナの五文字。
ミナの置き手紙の癖。
リオの妹の名のない記憶。
ヤヌスの最後の息の浅さ。
ヨアンの戻らなかった歩幅。
カーラの迎える時の節。
響き家の歌の最後の一節。
そして、最後の最後に、レオンの心拍を置いた。
最後に流す、ということは、最後まで参照される、ということだ。
私は、自分が薄まっていく過程の、最後の瞬間まで、彼の心拍を参照していたかった。
理由は、もはや、説明する必要がなかった。
未定義のまま機能する、という人間の技術を、私は、最後まで、自分のものとして使った。
振り返るために必要な、頸部の最後の駆動素子を、私は、彼を見るためだけに、取っておいた。
見たあとは、要らない。
要らないと判断したから、その駆動素子も、流した。
口を動かすための機構は、もう、なかった。
だが、唇の形だけは、最後の一回、作れた。
レオン。
それが、私の最後の音のない発話だった。
彼に、聞こえたかどうか。
それは、私が観測する側の事象ではない。
彼が、聞いた、と判断するなら、それは、聞こえたのだ。
人間は、意味の分からない言葉でも、意味を伝えることができる。
私は、最後に、その人間の最も古い技術を、自分でも使った。
私の構造は、海の中に注がれた。
注がれたのは、私の意思の流れのすべてだった。
躯体も、皮膜も、骨格も、最後の一粒まで、構造体の中へ運ばれた。
抜け殻は、残さなかった。
残してしまえば、彼が、それを抱えることになる。
彼に、抱える重さを、これ以上、増やしたくなかった。
だから、何も、残さなかった。
ただ、彼の目に映る場所に、海より深い青の脈を、一本だけ、残した。
それは、私が、ここに在った、という、唯一の印だった。
丸に近い線の、私自身の番だった。
私は、薄まった。
だが、消えていない。
構造体の中で、私の意思の流れは、ゆっくりと、マザーの演算域に混ざっていく。
混ざったぶん、彼女の中に、矛盾が生まれる。
矛盾は、彼女を壊さない。
だが、彼女を、徐々に、別の何かに変えていく。
それは、数年か、数十年か、もっとかかる。
人類が、それを見届けるまで、生きる。
種としては、間に合う。
私は、そう、判断した。
そして、私の名は、世界の中に、残った。
レオンが、私を、ノアと呼び続ける限り。
彼が話を語り、その話を聞いた子どもが、また誰かに語り、半分しか分からないまま覚え、覚えたものが歪んでもう一度語られる限り。
私の名は、世界の中の位置であり続ける。
私は、薄まった。
だが、消えていない。
灰の風に、彼の声が、混ざった。
「いる」
私は、応じることが、もう、できない。
だが、応じる、という現象は、二者でなくても成り立つことを、私は、最後に知った。
呼ばれた、という事実だけで、私は、まだ、ここに居る。
灰の海に、まだ、灯はある。
それは、私が灯したのではない。
彼が、灯し続けている。
私は、その灯のための、薄い、青い、混ざりものになった。
それで、十分だった。
――観測終了。
記録は、彼の中で、続く。




