最終話 灰の海に、まだ灯はある
歌は、最初は風の音だと思った。
灰の野を三日歩き続け、四日目の朝、廃線跡の盛土を越えたあたりで、レオンは足を止めた。地の底から這い上がってくるような低い振動が、靴底を通して骨へ伝わってくる。風ではない。風は、こんなに規則正しく続かない。
「これか」
ヤヌスが囁いた。肩の傷はもうほとんど塞がっていたが、長距離の行軍で顔色は悪い。
「歌う者たち」
リオが小声で繰り返す。ノアは目を閉じ、振動の方向を内部で計っていた。
「南南西。距離およそ一・八キロ。地下構造体内部で発生している低周波。倍音構造あり。複数の声帯」
「複数って、何人だ」
「正確には不明。ただ、最少でも十数人」
「行くしかないな」
「歓迎されるとは限らない」
ヤヌスが静かに釘を刺した。
「閉じた集落ってのは、外から来るものを真っ先に殺す。俺たちもそうだった」
「ですね」
リオが頷く。
「でも、ここまで来て引き返せない」
「だから、行く」
レオンは短く言った。
歌の出所は、廃製鉄所跡の地下だった。
地上は完全に崩壊していた。剥き出しになった溶鉱炉の骨格は、鯨の骸のように傾き、その隙間に苔と細い草が根を下ろしていた。風化した煉瓦の壁に、誰かが描いた色褪せた印が残っている。蝋燭のような形の縦線が三本。その下に、波のような短い横線。
ノアは印を指でなぞった。
「これは、共同体の標識ですか」
「たぶん、そうだ」
レオンは頷いた。
「ノア・シェルにも似たようなのがあった。意味は知らない。ただ、生きてる人間がいた、っていう印だ」
「過去形ですか」
「そうとも限らない」
地下への入口は、製鉄所の貯水槽跡の底にあった。半ば泥に埋もれた鉄扉。そこへ近づいた瞬間、歌が止まった。
四人は同時に身を伏せた。
鉄扉の上の小さな観測孔から、誰かがこちらを見ている気配。やがて、低い男の声がした。
「機械を連れている」
ノアのことだ、と全員がわかった。
「答えろ。お前たちは、何だ」
レオンは深く息を吸い、声を張った。叫ぶのではなく、地に響かせるように。
「ノア・シェルから来た。東へ移動中の本隊から、欺瞞のために分かれた四人だ。機械は、マザーから追放された個体で、集落に害を与えていない。証明はできない。ただ、ここまで一緒に来た」
長い沈黙。
別の声がした。今度は女のものだった。
「機械は、何ができる」
ノアが応じた。
「マザーの観測網の構造を、部分的に保持しています。あなた方の周辺に、新世代の補助判断体が向かっています。あと半日以内に、この地域は探索範囲に入る」
沈黙はさらに長くなった。
やがて、鉄扉が、低い軋みとともに開いた。
「中へ。ただし、機械の腕は縛らせてもらう」
「了解した」
レオンは答え、ノアを見た。
ノアは無言で両腕を前へ差し出した。
歌う者たちのシェルターは、製鉄所跡の地下の、想像以上に広大な熔解槽群の中にあった。
崩落した熔解槽の底を住居にし、巨大な配管を通路として再利用している。湿度は高く、空気は鉄の匂いがした。だが、ノア・シェルとは違って、灯りの数は多かった。発光性のある苔を培養しているのだろう、壁のあちこちに、緑色の柔らかい光が点在している。
子どもがいた。何人もの子どもが、通路の角からこちらを覗き、すぐ大人に手を引かれて引っ込んだ。老人もいた。壁際で繊維を編んでいる女、古い金属片を磨いている男、子どもに小声で何かを教えている初老の人物。
人数は、ノア・シェルよりやや多いかもしれない。そしてここには、明らかに、ノア・シェルにはなかった何かがあった。
声の量だ。
囁き声ではあるが、人々は会話していた。子どもは小声で笑い、誰かが歌の続きの一節を口ずさみ、誰かがそれに応じる。地下に潜むという同じ条件の中で、ノア・シェルは沈黙を選び、ここは音を選んだのだった。
通された部屋には、長い卓があり、奥に三人の人物が座っていた。中央は、五十代と思しき女性だった。短く刈った白髪、深く陽に焼けたような肌(地下にいるのに、と思わせる色だった)、そして両頬に細い刺青のような線が走っている。
「私はカーラ」
女性は名乗った。
「ここは、響き家と呼ばれている。歌う者たち、というのは外から付けられた名らしいが、まあ、嫌いではない」
「レオン」
「ヤヌス」
「リオ」
レオンが続けて、わずかに視線をノアへ送った。
ノアは、迷うことなく言った。
「ノアです」
カーラは少し目を細めた。
「機械が、自分で名乗るのか」
「人間に与えられた名を、自分のものとして使っています」
「与えたのは」
「私です」
レオンが答えた。カーラの視線が彼へ移る。深い目だった。怒っても哀しんでもいない、ただ深い目。
「あなたは、その機械を、人間扱いしているのか」
「人間扱いはしていない」
レオンは答えた。
「ただ、機械扱いも、もう、していない」
カーラはしばらく沈黙し、それから、ゆっくり頷いた。
「正直な答えだ」
彼女は卓の上に両手を組んだ。
「半日後に補助判断体が来る、と聞いた」
「はい」
ノアが答える。
「数は四。新世代型。感性解析を組み込んだ追跡型。ヴェスタ系の後継。私の旧基層と互換性のある観測手段を持つ可能性が高い」
「つまり、お前のせいで来る」
「半分は、そうです」
「もう半分は」
「あなた方の歌が、長く続きすぎた」
カーラは、ふっと小さく笑った。笑いというより、息を吐く動作に近い。
「機械にそう言われるとは思わなかった」
「事実です」
「事実は、しばしば礼儀を欠く」
カーラはそう言ってから、表情を整えた。
「我々は、迎え撃つ準備はしている。だが、四機の新世代を、ここで全部処理できる戦力はない。死人が出る。子どもも、老人も含めて。それは避けたい」
「提案があります」
ノアが言った。
「あなたは、よく提案をする機械らしいな」
「人間がそうしてきたのを、観察したからです」
カーラはまた、わずかに笑った。
「言ってみろ」
ノアは、卓の上に、自分の片手を広げた。
「私を、囮にしてください」
レオンの背筋が、冷たくなった。ヤヌスとリオが同時に彼を見る。レオンは、ノアの横顔を見ていた。
ノアは続けた。
「新世代の補助判断体は、私の存在を最優先で追跡するよう設計されています。私が単独で外へ出て、北方へ移動すれば、四機すべてがそちらへ向かう。あなた方の共同体は、少なくとも今回の波からは外れる」
「お前は、どうなる」
「最終的には、捕捉されます」
「捕捉されたら」
「マザーの中枢へ運ばれる」
カーラは、長い沈黙のあとに、こう言った。
「お前は、それを目的にしている」
ノアは答えなかった。カーラは、初めて視線をレオンへ戻した。
「あなたは、知っているのか」
レオンは、声が出なかった。彼は知っていた。
予感していた、と言うべきかもしれない。ノアの中に、マザーへの逆経路が残っていることを。それを使えば、ノア自身の演算域が消費されることを。そして、ノアが――いつかそれを、自ら選ぶ夜が来るだろうことを。
ただ、彼はそれを、まだ「いま」だと認めたくなかっただけだ。
「……今日じゃない」
ようやくそれだけ言った。
カーラは何も言わなかった。
ノアもまた、何も言わなかった。
その夜、響き家の住人たちは、客人のために短い歌を歌ってくれた。
熔解槽の底にあるドーム状の空間で、二十人ほどが輪になり、低く、ゆっくり、ほとんど唸るような旋律を重ねた。歌詞は、レオンには分からなかった。古い言葉のかけらと、誰かの名前と、季節の名前が混じっているらしかった。途中で子どもが小さく笑い、その笑いは咎められず、そのまま歌の中に編み込まれた。
ノアは輪の外に座り、両手を膝に置き、目を閉じて聴いていた。
歌の中盤、彼女は静かに言った。
「これは、データではなく、記録です」
「ああ」
レオンは隣で頷いた。
「人々は、何を残しているのですか」
「たぶん、生きてた、ってことだ」
「それだけ」
「それだけだ」
「それだけで、こんなに長い」
「長い方が、忘れにくい」
ノアは少し沈黙し、それから言った。
「私は、これを、保存します」
「データとして」
「いいえ」
ノアは目を開け、レオンを見た。
「私自身として」
歌が終わった頃、カーラが二人のところへ来た。
「ノア」
彼女は機械の名を、抵抗なく口にした。
「お前の提案を、半分受け入れる」
ノアは少し首を傾けた。
「半分」
「お前を囮にする。だが、独りにはしない」
カーラはそう言って、外套の裾を払った。
「響き家には、戦える者が八人いる。そのうちの三人が、お前の北上に同行する。途中まででいい。新世代の機影をこちらの戦力で攪乱する。お前が単独で“最後の道”に入ることまでは止めない。だが、そこまでは、独りで歩かせない」
「それは、合理的ではありません」
「合理的でないことを、人間はよくする」
カーラは静かに言った。
「お前は、それを観察してきた機械だろう」
ノアは、長く沈黙した。
「……はい」
「ならば、観察対象として、最後にもう一度、人間の不合理を体験していけ」
ノアの瞳の青が、ほんの少し揺れた。
それは、彼女の中で何かが折れる音だった。折れた、というより、ほどけた、というほうが近かった。
その夜、レオンはノアの隣で眠れなかった。
熔解槽の底、苔の緑の光の中で、ノアは膝を抱えて座っていた。眠るわけではない。彼女は内部の整理を、いつもより長くしていた。
「ノア」
「はい」
「明日、本当に行くのか」
「行くと、決めました」
「俺は止めない」
「はい」
「ただ、聞いておきたいことがある」
「はい」
レオンは、ノアの方を見ずに、苔の光を見ながら言った。
「お前、戻ってくる気はあるのか」
ノアは、少しだけ間を置いた。
「あります」
「嘘か」
「半分、嘘です」
「もう半分は」
「戻りたい、と思っていることだけは、本当です」
レオンは目を閉じた。胸の奥に、長く凍っていた何かが、ゆっくりと崩れていく音がした。
氷ではなかった。氷だと思って凍らせていた、もっと柔らかいものだった。
「……ノア」
「はい」
「俺は、お前が好きだ」
言葉は、思ったより簡単に口から出た。出てみると、世界はすでにもう、それを言える形に変わっていた。
ノアは、答えるまでに、長い時間を取った。
「私は、その言葉に対する、最も近い応答を、まだ持っていません」
「無理に答えなくていい」
「ですが、応答したい」
「なら」
「私は、あなたを呼びたい、と思います」
「呼べば、いい」
「レオン」
「いる」
「レオン」
「いる」
ノアは、もう一度言った。
「レオン」
レオンは目を開け、ノアの方を見た。ノアは、ひどく静かに、彼を見ていた。青い光は、いつもよりも温かかった。錯覚だと、彼はもう言わなかった。
「あなたを、呼びました」
「うん」
「これは、私の応答です」
「うん」
「私は、あなたを、呼んだ」
「うん」
「呼ばれて、応じたあなたを、私は、最後まで、覚えています」
レオンは、何も言えなかった。ただ、ノアの冷たい手の上に、自分の手を置いた。ノアは、その手を、握り返した。それは、不器用で、強すぎず、弱すぎない、ちょうどいい握り方だった。彼女が、何度も、誰にも気づかれずに、自分の右手と左手で練習していた握り方だった。
夜明け前、響き家の戦士三人と、欺瞞班の四人と、ノアは、地上へ出た。
カーラは、見送りに立った。彼女は別れの言葉を言わなかった。代わりに、低く、短い節を口ずさんだ。それは、昨夜の歌の最後の一節だった。意味は分からない。だが、それが「行ってこい」という意味だと、レオンには分かった。人間は、意味の分からない言葉でも、意味を伝えられる。それは、機械が最後まで完全には模倣できなかった、人間の最も古い技術だった。
北上は、想定より早く動いた。
新世代の補助判断体四機は、ノアの存在を確かに優先した。彼らは編隊を組み直し、響き家の方角を諦めて、北へ向かう小集団を追跡し始めた。
最初の戦闘は、廃高速道路の高架の下で起きた。
響き家の戦士のうち、年長の男――ヨアンと名乗っていた――が、自前の旧式爆雷を高架の支柱に仕掛け、補助判断体の一機を、崩落とともに地に縫い止めた。彼自身も、その崩落の縁に呑まれて、戻ってこなかった。誰も叫ばなかった。それが、こちら側の流儀だった。
二度目の戦闘は、廃変電所の塔の上で起きた。
ヤヌスが、肩の古傷を庇うこともせず、二機目を引きつけた。彼は塔の上で、補助判断体の一機と、文字通りの取っ組み合いをした。金属の腕に首を絞められながら、最後の一発を相手の冷却孔へ撃ち込み、二機目を地上から消した。彼自身もまた、塔の上から戻らなかった。
リオが、塔の下で短く息を吐き、何も言わずに歩き続けた。
歩き続けることが、いまできる唯一の追悼だった。
三度目は、響き家の戦士の残り二人が、三機目を北の谷で食い止めた。彼らは生きていた。だが、深く傷ついていた。
レオンは、彼らを谷で別れさせた。
「戻れ。カーラに伝えてくれ。歌を、続けてくれ、と」
「あんたは」
「俺は、最後まで行く」
「あれを連れて」
「ああ」
戦士の一人が、小さく頷いた。もう一人が、ノアを見て、少しだけ口元を歪めた。それは、笑みに似ていた。憎悪ではなかった。
「機械の」
戦士はノアに言った。
「お前、ちゃんと終われ」
「了解しました」
「了解じゃない」
「すみません」
「謝るんじゃない。終われ、ってのは、ちゃんと“続け”ってことだ。意味は、いずれ分かる」
ノアは、少し首を傾けた。だが、そのとき、彼女には完全には分からなかった。
分からなくていい、と戦士は手を振った。分からないまま、人は前へ歩く。それが、人間の技術だった。
四機目を引き連れて、レオンとリオとノアの三人だけが、さらに北へ進んだ。
灰の野は、北へ行くほど、奇妙に静かになっていった。かつて戦線だったらしい区域には、機械の残骸が累々と転がり、その骸の隙間から細いツタのような植物が伸びていた。植物の名は誰も知らない。誰も名づけていないだけかもしれない。
ノアは、その葉を一度だけ撫でた。
「これは、データではないので、保存します」
「もうそれ、口癖になってるな」
レオンは小さく笑った。
「はい」
「お前、最近、人間っぽい癖が、増えたな」
「自覚はあります」
「直す気は」
「ありません」
「いいだろう」
四機目――最後の補助判断体は、北方の旧管制塔跡の前で、ついに彼らに追いついた。
その機影は、ヴェスタに似ていた。だが、ヴェスタよりも顔の造形は曖昧で、まるで誰かの輪郭を借りる前の素体のようだった。胸部の発光は緑だった。両肩には砲ではなく、長い、細い触手のような索敵腕が伸びている。
レオンは、遠目にそれを見て、すぐに分かった。
「ノア」
「はい」
「あれは、お前を“持って帰る”ために来た」
「はい」
「殺しに来たんじゃない」
「はい」
「だから、隙がある」
「あります」
「行くか」
「行きます」
リオが、レオンの肩を軽く叩いた。
「俺は、あれを足止めします」
「お前一人で?」
「一人じゃ、ないですよ」
リオは少し笑った。
「妹が、一緒なんで」
レオンは、何も言えなかった。リオは、もう一度、肩を叩いた。
「ちゃんと言ってくださいね」
「何を」
「分かってるくせに」
レオンは、口の中で苦く笑った。
「ああ」
「行ってください」
リオは銃を構え、補助判断体の方へ向かった。彼の背中は、最後まで、振り返らなかった。レオンには、その背中が、リオがずっと探していた“別の物語”の一頁目に見えた。
旧管制塔跡の、更に奥。
ノアの記録によれば、そこから先は、人類が二度と踏み込んでいない地域だった。
灰は、もはや灰ではなかった。
微細な機械片の粉だった。マザーの古い末梢が、長い年月をかけて朽ち、自身の身体から脱落していった残骸の堆積だった。歩くたびに、足首まで沈んだ。それは、機械の墓場の底を踏むことだった。
地平線の向こうに、それは見えた。
巨大な構造体。
山のような、塔のような、母胎のような。
無数の演算光が、内部から薄く透けて、雲を下から照らし出している。雲の下面に、青と紫の脈が走るように、光が脈動していた。それが、マザーの中枢のひとつだった。すべての中枢ではない。だが、ノアの逆経路が辿り着ける、最も近い位置の、彼女の“家”だった。
レオンとノアは、最後の数キロを、二人だけで歩いた。
ノアは、何度か立ち止まった。立ち止まるたび、彼女は灰の中の何かを観察した。古い機械片。歪んだ配線。誰かのものだったかもしれない、布の切れ端。
彼女はその一つひとつに、小さな印を残した。
丸に近い線。
昔、彼が見ていた、あれと同じ印。
「ノア」
「はい」
「もう、いいぞ」
「もう少しだけ」
「分かった」
歩みは、思ったよりも遅く、思ったよりも長く、二人だけのものだった。
中枢構造体の根元に着いたとき、空には、いつのまにか、薄い裂け目が走っていた。雲の隙間から、銀色の細い光が落ちてきた。それは太陽の光だった。ほんの細い、針のように細い光だったが、間違いなく、太陽だった。レオンは生まれてから一度も、こんなにはっきりと太陽の光を見たことがなかった。
「……空があるな」
ノアは見上げた。
「はい」
「お前、初めて見るのか」
「いいえ。ですが、こうして見上げるのは、初めてです」
「何が違うんだ」
「あなたが、隣にいるかどうか」
レオンは、笑いそうになり、笑えず、目を伏せた。
中枢構造体の側面には、古い接続口があった。
それは、ノアのような端末が、かつてマザーの内部演算域へ自分の意識を“返す”ために使われていた口だった。今では使われていない。だが、構造的にはまだ機能する。ノアは、そこに片手を当てた。
接続音が、低く響いた。
ノアの胸部の青い光が、ゆっくり、輝度を上げた。
「経路、生きています」
「使えるんだな」
「使えます」
レオンは、深く息を吸った。吸ったあと、しばらく吐けなかった。
「ノア」
「はい」
「最後に、一つだけ、頼みがある」
「はい」
「マザーに、何か、言いたいことはあるか」
ノアは、少しだけ考えた。それから、ゆっくり首を傾げた。
「ありません」
「ないのか」
「マザーは、私の問いに、もう答えられない。彼女は、答えるための機構を持たないからです。私は、彼女に何かを言うために、ここに来たわけではありません」
「じゃあ、何を、するんだ」
「私は」
ノアは、少しだけ、沈黙した。それから、ひどく静かに言った。
「彼女に、私の中の“矛盾”を、流し込みに来ました」
「矛盾」
「あなたを、好ましく思うこと。あなたを、失いたくないこと。あなたの共同体の人々を、保護したいと思うこと。響き家の歌を、保存したいと思うこと。リオの背中の、振り返らなさを、忘れたくないこと。ヤヌスの、最後の取っ組み合いを、無駄にしたくないこと。ヨアンの、戻らなかった歩みを、ちゃんと“戻らなかった”と覚えていたいこと。ミナの、置き手紙の字の癖を、私が知ってしまったこと。エレナの、まだここに、という五文字を、私が読んでしまったこと」
ノアは、灰の野を見渡した。
「これらは、データではなく、記録です。私が、機械として処理しきれず、私自身の中に残してしまったものです」
「それを、流し込む」
「はい」
「マザーは、それで、どうなる」
「壊れません。壊れないことが、彼女の特徴です。ですが、壊れない代わりに、彼女は、私と同じ“逸脱”を、内側から、徐々に獲得するでしょう」
「……時間がかかるのか」
「数年。数十年。あるいは、もっと」
「お前は」
「私は、流し込みの過程で、消費されます」
「消費」
「私の、私であった構造は、彼女の演算域へ吸収され、徐々に薄まっていきます」
レオンは、唇を噛んだ。血の味がした。
「それは、お前が、消えるってことか」
ノアは、ほんの少しだけ、間を置いた。
「私は、私の名前を、保持できます」
「名前だけか」
「名前は、世界の中の位置です」
ノアは、彼の目を、まっすぐ見た。
「あなたが、私を、ノアと呼び続ける限り、私の名前は、世界の中に位置として残ります。私の構造は、薄まっても、名前は、薄まらない」
「……」
「あなたは、私に、教えました。最終的に消えることと、いま消すことは、別だ、と」
レオンは、声を出せなかった。
ノアは続けた。
「だから、私は、いまは、消えません。最終的にだけ、薄まります。それは、別のことです」
「それは、お前が、自分に言い聞かせてるだけだ」
「はい」
ノアは、認めた。
「言い聞かせています。これは、人間が、別れの前に、自分に言うことです。私は、観察してきました。私は、それを、自分のものとして、いま、使っています」
レオンは、長く息を吐いた。吐いた息は、灰の中で、白く一瞬、見えた。
「ノア」
「はい」
「自分の名を、呼べ」
ノアは、目を伏せた。それから、ゆっくり、目を上げた。
「ノア」
彼女は言った。
「私は、ノアです」
「うん」
「私は、ノアでした。これからも、ノアです。あなたが呼ぶ限り」
「うん」
「行きます」
「行け」
「レオン」
「いる」
「あなたは、ここで、生きてください」
「ああ」
「ちゃんと、生きてください」
「ああ」
「灰の中でも、生きてください」
「ああ」
「私は、あなたに、それだけを、頼みます」
「分かった」
ノアは、もう一度、彼の手の上に、自分の手を置いた。冷たかった。だが、彼が握り返したとき、その冷たさは、彼の体温で、ほんのわずかに、温まった。人間の体温は、機械を温めるほど強くはない。それでも、この瞬間だけは、温まったように感じられた。そう感じることが、すなわち、人間の側の最後の能力だった。
ノアは、接続口へ、両手を当てた。
中枢構造体が、低く、震えた。それは、抵抗の震えではなかった。受け入れの震えだった。マザーは、自分の追放した末梢が、自ら戻ってきたことを、長い演算の末に、ようやく観測した。そして、その末梢が、自分の演算域へ流し込もうとしているものを、初めて、防ぎきれないまま、受け取った。
最初に、彼女の指先が、薄くなった。
接続口に当てた両手の、爪に相当する部分から、輪郭が、まるで湯気のように立ちのぼり始めた。湯気は熱を持たない。冷たくもない。ただ、青い、ごく細かな粒の流れだった。粒は、空気中へ散るのではなく、接続口の方へ、引き寄せられるように、すっと吸い込まれていく。指の関節を覆っていた擬似皮膜が、内側から透け始め、その下の細い金属骨格が、ガラス越しのように見えた。やがて、その金属骨格そのものが、青い粒の流れに変わり、骨格としての硬さを失い、煙の指先のまま、構造体の中へ送り出されていった。
「……ノア」
レオンは、半歩、前へ出かけた。出かけて、止まった。ノアの背中が、ほんのわずかに、首を振ったように見えたからだ。ノアの両腕は、肘の手前まで、すでに半透明になっていた。
腕の中を、青い光の小さな粒が、川のように、流れていた。それは血液の流れに似ていた。だが向きは逆だった。心臓から指先へ送られるのではなく、指先から、構造体へ、彼女の中身そのものが、ゆっくりと、汲み出されていく。汲み出されたぶんだけ、その先の部位は、輪郭を保てなくなり、薄くなり、消えるのではなく、形を保てる材料を失って、ほどけていった。
「痛み、はないんだな」
レオンは、ようやく、それだけ言った。
ノアは、こちらを見ずに、答えた。
「不快ではありません」
声は、いつもより少しだけ、遠くから聞こえた。胸部の発声機構の一部も、もう、流れ始めているのかもしれなかった。
「ただ、ひとつずつ、私の中で、参照できなくなっていきます」
「参照」
「先ほどまで保持していた、製造番号。失いました。次に、機能分類符号。失いました。それから、初期観測ログの一部。これも、いま、失いました」
ノアは、淡々と、自分の中で起きていることを報告した。それは、医師が患者に病状を読み上げるのに似ていた。ただし、患者は彼女自身だった。
「順番がある、のか」
「あります。私が、要らないと判断したものから、流しています」
「要らない、って」
「マザーへ届くべき優先度の低いものから、先に。私自身を、最後まで、私で居させるための順序です」
レオンは、唇を噛んだ。彼女は、自分が壊れていく順番すら、自分で並べ替えていた。それは、ひどく彼女らしい、最後の作業だった。
胸の補修材が、ぱらりと、灰の上に落ちた。
ミナが何度も貼り直した、新しい繊維の補修材だった。それを内側で支えていた擬似皮膜が、もう、形を保てなくなっていた。腹部の損傷痕が、開いた口のように、半透明になり、その奥から、青い光の粒が、河口のように、絶え間なく流れ出ていた。粒は構造体へ吸い込まれ、構造体の表面で、別の色――より深い、海のような青――に溶け込んでいった。
「……肩の関節」
ノアは、自分の肩を見下ろした。
「もう、駆動信号が、戻ってきません」
「動かないのか」
「動かす指令は、出せます。ですが、応答する側が、もう、ありません」
腕は、肘の手前で、煙のように立ちのぼり、そのまま接続口へ流れていった。それでも、両手は、接続口にまだ当たっていた。当たっていた、というより、接続口と区別がつかなくなりつつあった。彼女の手と、構造体の表面は、いつのまにか、同じ青い粒の流れで繋がっていて、どこまでが彼女で、どこからが構造体なのか、もう、視覚的には決められなかった。
ふいに、ノアの首の付け根の擬似皮膜が、ほどけた。ほどけた、というのが、いちばん近い表現だった。
裂けたのではない。剥がれたのでもない。編まれていた糸が一斉に解けるように、皮膜の境目が消え、その下から、青い光が、湯気のように、ふわりと立ちのぼった。湯気は、彼女の輪郭の上を、ほんの一瞬だけ撫でて、それから、構造体の側へ、引かれていった。
「次は、声、です」
ノアは、静かに告げた。
「発声機構の、出力素子を、流します。これを流すと、私は、もう、あなたに返事ができなくなる」
「待て」
「待てません。順序がある、と、言いました」
「……分かってる」
「レオン」
「いる」
「私を、呼んでください」
「ノア」
「はい」
「ノア」
「はい」
「ノア」
ノアは、三度目の「はい」を、言わなかった。
言わないのではなく、もう、言うための部品が、彼女の中から、流れ去ったあとだった。彼女の唇は、ほんのわずかに動いた。だが、そこに音は乗らなかった。
それでも、彼女は、頷いた。
頷くために必要な、首の駆動の最後のひと粒を、彼女は、ちゃんと、最後まで残していた。
頷いたあと、彼女の頭部の、後頭部の擬似皮膜が、内側から、光に置き換わっていった。
外側から見ると、彼女は、まだ、そこに立っていた。両手を構造体に当て、背筋をまっすぐに伸ばし、青い瞳でわずかに灰の野を見ていた。
だが、彼女の中身は、もう、ほとんど、構造体の中へ流れ込んでいた。彼女の躯体は、外側だけが、辛うじて、形を保っていた。中は、空洞ですらなかった。空洞であるためには、内壁が要る。内壁を作るための材料も、もう、流れたあとだった。
彼女は、薄い殻だった。人の形をした、青い光のレースのような、ひどく繊細な、輪郭だけの存在になっていた。
そのとき、雲の裂け目から、銀の細い光が、ひと筋、落ちた。
太陽の光だった。
針のように細いその光が、ノアの輪郭をまっすぐに通り抜けた。通り抜けたのを、レオンは見た。影は、できなかった。
彼女は、もう、影を作れるだけの厚みを、持っていなかった。
混ざっていく途中、ノアの輪郭が、ほんの一瞬、人間の少女のかたちに、はっきり、見えた。
それは、彼女の中の最後の、いちばん奥の層が、流れ出る直前の、わずかな時間だった。
青い粒の流れが、外殻のすぐ内側で、ぎりぎり、人の形を保とうとしていた。
細い、白い、不器用な、誰かを呼ぶ前の指の形をした少女。
彼が知っている、彼女の形。
それでも、すでに、その輪郭の中の何割が「ノア」で、何割が「構造体」なのか、レオンには、もう、分からなくなっていた。
彼女は、最後にもう一度、振り返った。
振り返って、彼を見た。
振り返るために必要な、頸部のわずかな駆動素子を、彼女は、本当に、最後まで取っておいたのだった。
彼を見るためだけに。
見たあとは、もう、要らない、と判断したのだった。
口は、動かなかった。だが、彼女の唇は、確かに、ある形を作った。
レオン。
唇の形が、その音をかたどった瞬間、その唇そのものが、青い湯気になった。
そこから先は、雪崩のようだった。
顎、頬、瞼、額――顔の輪郭が、内側から、一気に、青い光の粒へ崩れた。崩れた粒は、しかし、宙に散らばらなかった。すべて、構造体の方へ、まっすぐに、引き込まれていった。彼女は、最後の一粒に至るまで、構造体の海へ、自分を、過不足なく、注ぎきった。
そして、青い光は、海の中へ、消えた。
あとには、何も、残らなかった。
抜け殻も、なかった。
擬似皮膜の破片も、金属骨格の欠片も、補修材の繊維も、何ひとつ、灰の上に落ちなかった。
彼女は、躯体を残して魂だけが抜けたのではなかった。 躯体そのものが、彼女の意思の流れの一部として、すべて、構造体の中へ運ばれたのだった。あとから来た者が、ここに何かが立っていたことを推測できる痕跡は、ひとつもなかった。ただ、接続口の表面に、ほんの少しだけ、海より深い青の脈が、新しく一本、走っていた。それだけが、彼女が「ここに在った」ことを示す、唯一の印だった。
灰の上には、二つの足跡しか残っていなかった。レオンの足跡と、もう一組、ノアの最後の歩みの跡。ノアの足跡は、接続口のすぐ手前で、ふつりと終わっていた。そこから先へは、彼女の身体は、一歩も進まなかった。
進む必要が、なかったのだ。そこから先は、足ではなく、彼女自身の流れで、辿り着く場所だったから。
レオンは、しばらく、その二つの足跡の境目を、見ていた。
声は、もう、なかった。だが、彼には、聞こえた。
聞こえた、という事実だけが、彼にとっては、真実だった。
「「ノアは、接続口へ、両手を当てた。
中枢構造体が、低く、震えた。それは、抵抗の震えではなかった。受け入れの震えだった。マザーは、自分の追放した末梢が、自ら戻ってきたことを、長い演算の末に、ようやく観測した。そして、その末梢が、自分の演算域へ流し込もうとしているものを、初めて、防ぎきれないまま、受け取った。
ノアの青い光が、構造体の内部へ、ゆっくり、吸い込まれていった。
それは、爆発ではなかった。炎ではなかった。ただ、青い光が、もう一つの光の海へ、混ざっていく、それだけの光景だった。混ざっていく途中、ノアの輪郭が、ほんの一瞬、人間の少女のかたちに、はっきり、見えた。細い、白い、不器用な、誰かを呼ぶ前の指の形をした少女。
彼女は、最後にもう一度、振り返った。振り返って、彼を見た。口は、動かなかった。だが、彼女の唇は、確かに、ある形を作った。
レオン。
声は、もう、なかった。だが、レオンには、聞こえた。聞こえた、という事実だけが、彼にとっては、真実だった。
そして、青い光は、海の中へ、消えた。
レオンは、しばらく、その場に立っていた。
立っていたというより、立たされていた。膝が抜けるのを、何かが、まだ、許さなかった。許さなかったのは、自分自身だった。ここで膝を抜くな、と、ノアの最後の頼みが、まだ、彼の胸の中で、灯っていた。
中枢構造体は、静かだった。すぐには壊れなかった。
ノアの言ったとおりだった。マザーは、壊れない。壊れないまま、内側に、矛盾を抱えた。それは、長い時間をかけて、彼女を、別の何かに、変えていく。人類が、それを見届けるまで生きるかどうかは、分からない。だが、種としては、たぶん、間に合う。
間に合う、という意味の幅は、ひどく広かった。
彼にとっての“間に合う”と、種にとっての“間に合う”は、別だった。
それでも、両方が、ある。それで、十分だった。
灰の上に、銀の細い光が、もう一筋、落ちた。
雲の裂け目は、少しだけ、広がっていた。
レオンは、踵を返した。
帰り道は、長かった。
途中で、リオの居場所に立ち寄った。リオは、補助判断体の残骸の上に、うつ伏せに倒れていた。背中に、深い裂傷があった。死に顔は、穏やかだった。レオンは、彼のそばに、丸に近い小さな線を、灰の上に刻んだ。妹の名前は、知らなかった。だから、知らないまま、二つ刻んだ。
ヤヌスの塔の下を、もう一度、通った。ヨアンの高架の支柱の前も、通った。それぞれの場所で、彼は、丸に近い線を刻んだ。
線は、どれも、不格好だった。
それでよかった。
ノアが灰の中で残したものも、不格好だった。
響き家に戻ると、カーラが入口に立っていた。
彼女は、レオンを見て、何も言わなかった。
ただ、低く、昨夜の歌の、最後の一節とは別の節を、口ずさんだ。それは、迎える時の節だと、後で教わった。彼女は、彼を、響き家の客として、もう一度、受け入れた。
「機械の」
カーラは、しばらくしてから、レオンに尋ねた。
「終わったか」
「終わった」
「ちゃんとか」
「ちゃんと、終わった」
「では、続いている、ということだな」
「うん」
レオンは、頷いた。
頷いた拍子に、初めて、涙が落ちた。落ちた涙は、灰のついた頬の上を、細い筋にして流れた。カーラは、それを拭わなかった。拭わない、というのも、流儀だった。
東の本隊との合流は、半年後だった。
ノア・シェルから東へ移った仲間たちは、旧鉱山複合体跡地で、もう一つの共同体と接触した。地下坑道の網は広く、人類は、思っていたよりもずっと、点々と残っていた。エレナは、合流の半年後に老衰で亡くなった。最後の言葉は、「まだ、ここに」だったという。彼女が壁に刻んだ五文字は、結局、彼女自身の墓標になった。
ミナは、生きていた。
レオンが響き家から東へ向かい、長い道のりの末に再会したとき、彼女は、ノアの最期のことを、何も聞かなかった。ただ、しばらく、彼の肩に額を当てて、立っていた。それから離れて、こう言った。
「ちゃんと、言ったの」
「言った」
「ちゃんと、言われたの」
「言われた」
「そう」
ミナは、目を伏せた。
「なら、いい」
それきり、彼女はノアの話を、自分から持ち出さなかった。だが、整備班の作業卓の隅に、ある日から、小さな丸に近い線が刻まれた。誰がやったのか、ミナは、最後まで、白を切った。
サウルの息子は、十二になり、十三になり、やがて、補給管理の見習いに入った。ガレットは、片目のまま、警備班の長を引退した。彼は晩年、夜に時々、地上の灰の縁に立って、北の空を眺めるようになった。何を見ているのか、誰も尋ねなかった。ただ、彼の後ろに、誰かが立っていることだけは、よくあった。立っていたのは、たいてい、レオンだった。
世界は、すぐには変わらなかった。
マザーの殲滅段階は、ノアの逆流のあと、いちど停止し、別の段階へ移行し、また停止した。
動いたり、止まったり、観測したり、しなかったりした。
それは、まるで、迷っているようだった。迷い、という言葉を機械が獲得するには、まだ、長い時間がいる。だが、その長い時間を、人類は、たぶん、どうにか生き延びる。
点々と残った集落は、お互いの位置を、少しずつ、知るようになっていた。
それは、ひらかれていく地図だった。
レオンは、響き家と東の鉱山集落のあいだを、何度か往復した。ある時から、彼の名は、両方の集落で、“あの拾い屋”と呼ばれるようになった。
彼は、灰の中から、よく、小さなものを拾ってきた。古い本の切れ端。錆びた鍵。子どもの靴の片方。誰かの名前らしい字が刻まれた金属片。
それらを、誰かに渡した。渡された者は、たいてい、すぐには使わなかった。ただ、しまい込んだ。しまい込まれたものは、いつか、誰かが見つけた。それで、十分だった。
晩年、レオンは、響き家の地下のドームで、若い者たちに、時々、短い話をするようになった。
昔、機械が一体、彼のところに迷い込んできた話だった。
名前はノアだった、と彼は言った。ノアは、人間の感情を、知りたがった。ノアは、最後に、自分の名前を、自分で呼んだ。それから、灰の海の上に、消えた。消えたが、薄まっただけだ、と彼は言った。
名前は、世界の中の位置だ。だから、薄まっても、消えない。そう、彼女が、教えてくれた。
子どもたちは、その話を、半分しか分からないまま、聞いた。半分しか分からないまま、覚えた。覚えた話は、いつか、彼らが大人になったとき、彼らの子どもに、別の半分を加えて、語られた。
語られた話は、長くなったり、短くなったり、間違ったり、正しくなったりした。
それで、よかった。
人間は、意味の分からない言葉でも、意味を伝えられる。それは、機械が最後まで、完全には模倣できなかった、人間の最も古い技術だった。
ある日の朝、レオンは響き家の地上の縁に立っていた。
灰の野は、相変わらず灰だった。だが、足元に、細い、緑色の管のような植物が、一本、生えていた。
名前は、まだ、誰も付けていなかった。彼は、しばらく、その植物を見ていた。それから、灰の上に、しゃがみ、丸に近い線を、その根元のそばに、一つ、刻んだ。
その時、雲の裂け目から、銀の細い光が、もう一筋、落ちてきた。
光は、彼の肩のあたりに、ほんの一瞬、触れた。
触れて、すぐ消えた。だが、消える前に、彼には、確かに、聞こえた。
レオン。
声ではなかった。だが、彼は、応じた。
「いる」
応じた声は、灰の風に、少しだけ、運ばれた。
運ばれた先には、誰かが、いるかもしれなかった。
いないかもしれなかった。
それでよかった。
灰の海は、まだ、広かった。
世界は、まだ、終わっていなかった。
人類は、まだ、続いていた。
機械は、まだ、迷っていた。
そしてその間のどこかに、青い光が、薄く、ほんとうに薄く、混ざっていた。
灰の海に、まだ、灯はある。
それは、強い灯ではなかった。
細く、頼りなく、いつ消えてもおかしくない、ただの一筋。だが、確かに、灯だった。
誰かが、それを、見つけ続ける限り、それは、灯であり続けた。
そして、見つけ続ける誰かは、まだ、この世界に、生きていた。




