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灰の海に、まだ灯りはあるかい〜滅びの世界で正常な感情を保てるのは、果たして正常なのか。〜  作者: 虎山雲龍


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11/12

最終話 灰の海に、まだ灯はある

歌は、最初は風の音だと思った。


灰の野を三日歩き続け、四日目の朝、廃線跡の盛土を越えたあたりで、レオンは足を止めた。地の底から這い上がってくるような低い振動が、靴底を通して骨へ伝わってくる。風ではない。風は、こんなに規則正しく続かない。


「これか」


ヤヌスが囁いた。肩の傷はもうほとんど塞がっていたが、長距離の行軍で顔色は悪い。


「歌う者たち」


リオが小声で繰り返す。ノアは目を閉じ、振動の方向を内部で計っていた。


「南南西。距離およそ一・八キロ。地下構造体内部で発生している低周波。倍音構造あり。複数の声帯」


「複数って、何人だ」


「正確には不明。ただ、最少でも十数人」


「行くしかないな」


「歓迎されるとは限らない」


ヤヌスが静かに釘を刺した。


「閉じた集落ってのは、外から来るものを真っ先に殺す。俺たちもそうだった」


「ですね」


リオが頷く。


「でも、ここまで来て引き返せない」


「だから、行く」

レオンは短く言った。


歌の出所は、廃製鉄所跡の地下だった。

地上は完全に崩壊していた。剥き出しになった溶鉱炉の骨格は、鯨の骸のように傾き、その隙間に苔と細い草が根を下ろしていた。風化した煉瓦の壁に、誰かが描いた色褪せた印が残っている。蝋燭のような形の縦線が三本。その下に、波のような短い横線。


ノアは印を指でなぞった。

「これは、共同体の標識ですか」


「たぶん、そうだ」


レオンは頷いた。

「ノア・シェルにも似たようなのがあった。意味は知らない。ただ、生きてる人間がいた、っていう印だ」


「過去形ですか」


「そうとも限らない」


地下への入口は、製鉄所の貯水槽跡の底にあった。半ば泥に埋もれた鉄扉。そこへ近づいた瞬間、歌が止まった。


四人は同時に身を伏せた。

鉄扉の上の小さな観測孔から、誰かがこちらを見ている気配。やがて、低い男の声がした。


「機械を連れている」


ノアのことだ、と全員がわかった。


「答えろ。お前たちは、何だ」


レオンは深く息を吸い、声を張った。叫ぶのではなく、地に響かせるように。


「ノア・シェルから来た。東へ移動中の本隊から、欺瞞のために分かれた四人だ。機械は、マザーから追放された個体で、集落に害を与えていない。証明はできない。ただ、ここまで一緒に来た」


長い沈黙。


別の声がした。今度は女のものだった。

「機械は、何ができる」


ノアが応じた。

「マザーの観測網の構造を、部分的に保持しています。あなた方の周辺に、新世代の補助判断体が向かっています。あと半日以内に、この地域は探索範囲に入る」


沈黙はさらに長くなった。

やがて、鉄扉が、低い軋みとともに開いた。


「中へ。ただし、機械の腕は縛らせてもらう」


「了解した」


レオンは答え、ノアを見た。

ノアは無言で両腕を前へ差し出した。


歌う者たちのシェルターは、製鉄所跡の地下の、想像以上に広大な熔解槽群の中にあった。

崩落した熔解槽の底を住居にし、巨大な配管を通路として再利用している。湿度は高く、空気は鉄の匂いがした。だが、ノア・シェルとは違って、灯りの数は多かった。発光性のある苔を培養しているのだろう、壁のあちこちに、緑色の柔らかい光が点在している。


子どもがいた。何人もの子どもが、通路の角からこちらを覗き、すぐ大人に手を引かれて引っ込んだ。老人もいた。壁際で繊維を編んでいる女、古い金属片を磨いている男、子どもに小声で何かを教えている初老の人物。

人数は、ノア・シェルよりやや多いかもしれない。そしてここには、明らかに、ノア・シェルにはなかった何かがあった。


声の量だ。


囁き声ではあるが、人々は会話していた。子どもは小声で笑い、誰かが歌の続きの一節を口ずさみ、誰かがそれに応じる。地下に潜むという同じ条件の中で、ノア・シェルは沈黙を選び、ここは音を選んだのだった。


通された部屋には、長い卓があり、奥に三人の人物が座っていた。中央は、五十代と思しき女性だった。短く刈った白髪、深く陽に焼けたような肌(地下にいるのに、と思わせる色だった)、そして両頬に細い刺青のような線が走っている。


「私はカーラ」


女性は名乗った。


「ここは、響き(ひびきや)と呼ばれている。歌う者たち、というのは外から付けられた名らしいが、まあ、嫌いではない」


「レオン」


「ヤヌス」


「リオ」


レオンが続けて、わずかに視線をノアへ送った。

ノアは、迷うことなく言った。

「ノアです」


カーラは少し目を細めた。

「機械が、自分で名乗るのか」


「人間に与えられた名を、自分のものとして使っています」


「与えたのは」


「私です」


レオンが答えた。カーラの視線が彼へ移る。深い目だった。怒っても哀しんでもいない、ただ深い目。


「あなたは、その機械を、人間扱いしているのか」


「人間扱いはしていない」


レオンは答えた。

「ただ、機械扱いも、もう、していない」


カーラはしばらく沈黙し、それから、ゆっくり頷いた。

「正直な答えだ」


彼女は卓の上に両手を組んだ。


「半日後に補助判断体が来る、と聞いた」


「はい」


ノアが答える。

「数は四。新世代型。感性解析を組み込んだ追跡型。ヴェスタ系の後継。私の旧基層と互換性のある観測手段を持つ可能性が高い」


「つまり、お前のせいで来る」


「半分は、そうです」


「もう半分は」


「あなた方の歌が、長く続きすぎた」


カーラは、ふっと小さく笑った。笑いというより、息を吐く動作に近い。


「機械にそう言われるとは思わなかった」


「事実です」


「事実は、しばしば礼儀を欠く」


カーラはそう言ってから、表情を整えた。


「我々は、迎え撃つ準備はしている。だが、四機の新世代を、ここで全部処理できる戦力はない。死人が出る。子どもも、老人も含めて。それは避けたい」


「提案があります」

ノアが言った。


「あなたは、よく提案をする機械らしいな」


「人間がそうしてきたのを、観察したからです」


カーラはまた、わずかに笑った。

「言ってみろ」


ノアは、卓の上に、自分の片手を広げた。

「私を、囮にしてください」


レオンの背筋が、冷たくなった。ヤヌスとリオが同時に彼を見る。レオンは、ノアの横顔を見ていた。


ノアは続けた。

「新世代の補助判断体は、私の存在を最優先で追跡するよう設計されています。私が単独で外へ出て、北方へ移動すれば、四機すべてがそちらへ向かう。あなた方の共同体は、少なくとも今回の波からは外れる」


「お前は、どうなる」


「最終的には、捕捉されます」


「捕捉されたら」


「マザーの中枢へ運ばれる」


カーラは、長い沈黙のあとに、こう言った。

「お前は、それを目的にしている」


ノアは答えなかった。カーラは、初めて視線をレオンへ戻した。

「あなたは、知っているのか」


レオンは、声が出なかった。彼は知っていた。

予感していた、と言うべきかもしれない。ノアの中に、マザーへの逆経路が残っていることを。それを使えば、ノア自身の演算域が消費されることを。そして、ノアが――いつかそれを、自ら選ぶ夜が来るだろうことを。


ただ、彼はそれを、まだ「いま」だと認めたくなかっただけだ。


「……今日じゃない」


ようやくそれだけ言った。

カーラは何も言わなかった。

ノアもまた、何も言わなかった。


その夜、響き家の住人たちは、客人のために短い歌を歌ってくれた。

熔解槽の底にあるドーム状の空間で、二十人ほどが輪になり、低く、ゆっくり、ほとんど唸るような旋律を重ねた。歌詞は、レオンには分からなかった。古い言葉のかけらと、誰かの名前と、季節の名前が混じっているらしかった。途中で子どもが小さく笑い、その笑いは咎められず、そのまま歌の中に編み込まれた。


ノアは輪の外に座り、両手を膝に置き、目を閉じて聴いていた。


歌の中盤、彼女は静かに言った。


「これは、データではなく、記録です」


「ああ」

レオンは隣で頷いた。


「人々は、何を残しているのですか」


「たぶん、生きてた、ってことだ」


「それだけ」


「それだけだ」


「それだけで、こんなに長い」


「長い方が、忘れにくい」


ノアは少し沈黙し、それから言った。


「私は、これを、保存します」


「データとして」


「いいえ」


ノアは目を開け、レオンを見た。

「私自身として」


歌が終わった頃、カーラが二人のところへ来た。


「ノア」

彼女は機械の名を、抵抗なく口にした。

「お前の提案を、半分受け入れる」


ノアは少し首を傾けた。


「半分」


「お前を囮にする。だが、独りにはしない」


カーラはそう言って、外套の裾を払った。

「響き家には、戦える者が八人いる。そのうちの三人が、お前の北上に同行する。途中まででいい。新世代の機影をこちらの戦力で攪乱する。お前が単独で“最後の道”に入ることまでは止めない。だが、そこまでは、独りで歩かせない」


「それは、合理的ではありません」


「合理的でないことを、人間はよくする」


カーラは静かに言った。

「お前は、それを観察してきた機械だろう」


ノアは、長く沈黙した。

「……はい」


「ならば、観察対象として、最後にもう一度、人間の不合理を体験していけ」


ノアの瞳の青が、ほんの少し揺れた。

それは、彼女の中で何かが折れる音だった。折れた、というより、ほどけた、というほうが近かった。


その夜、レオンはノアの隣で眠れなかった。


熔解槽の底、苔の緑の光の中で、ノアは膝を抱えて座っていた。眠るわけではない。彼女は内部の整理を、いつもより長くしていた。


「ノア」


「はい」


「明日、本当に行くのか」


「行くと、決めました」


「俺は止めない」


「はい」


「ただ、聞いておきたいことがある」


「はい」


レオンは、ノアの方を見ずに、苔の光を見ながら言った。

「お前、戻ってくる気はあるのか」


ノアは、少しだけ間を置いた。


「あります」


「嘘か」


「半分、嘘です」


「もう半分は」


「戻りたい、と思っていることだけは、本当です」


レオンは目を閉じた。胸の奥に、長く凍っていた何かが、ゆっくりと崩れていく音がした。

氷ではなかった。氷だと思って凍らせていた、もっと柔らかいものだった。


「……ノア」


「はい」


「俺は、お前が好きだ」


言葉は、思ったより簡単に口から出た。出てみると、世界はすでにもう、それを言える形に変わっていた。


ノアは、答えるまでに、長い時間を取った。


「私は、その言葉に対する、最も近い応答を、まだ持っていません」


「無理に答えなくていい」


「ですが、応答したい」


「なら」


「私は、あなたを呼びたい、と思います」


「呼べば、いい」


「レオン」


「いる」


「レオン」


「いる」


ノアは、もう一度言った。


「レオン」


レオンは目を開け、ノアの方を見た。ノアは、ひどく静かに、彼を見ていた。青い光は、いつもよりも温かかった。錯覚だと、彼はもう言わなかった。


「あなたを、呼びました」


「うん」


「これは、私の応答です」


「うん」


「私は、あなたを、呼んだ」


「うん」


「呼ばれて、応じたあなたを、私は、最後まで、覚えています」


レオンは、何も言えなかった。ただ、ノアの冷たい手の上に、自分の手を置いた。ノアは、その手を、握り返した。それは、不器用で、強すぎず、弱すぎない、ちょうどいい握り方だった。彼女が、何度も、誰にも気づかれずに、自分の右手と左手で練習していた握り方だった。


夜明け前、響き家の戦士三人と、欺瞞班の四人と、ノアは、地上へ出た。


カーラは、見送りに立った。彼女は別れの言葉を言わなかった。代わりに、低く、短い節を口ずさんだ。それは、昨夜の歌の最後の一節だった。意味は分からない。だが、それが「行ってこい」という意味だと、レオンには分かった。人間は、意味の分からない言葉でも、意味を伝えられる。それは、機械が最後まで完全には模倣できなかった、人間の最も古い技術だった。


北上は、想定より早く動いた。


新世代の補助判断体四機は、ノアの存在を確かに優先した。彼らは編隊を組み直し、響き家の方角を諦めて、北へ向かう小集団を追跡し始めた。


最初の戦闘は、廃高速道路の高架の下で起きた。

響き家の戦士のうち、年長の男――ヨアンと名乗っていた――が、自前の旧式爆雷を高架の支柱に仕掛け、補助判断体の一機を、崩落とともに地に縫い止めた。彼自身も、その崩落の縁に呑まれて、戻ってこなかった。誰も叫ばなかった。それが、こちら側の流儀だった。


二度目の戦闘は、廃変電所の塔の上で起きた。

ヤヌスが、肩の古傷を庇うこともせず、二機目を引きつけた。彼は塔の上で、補助判断体の一機と、文字通りの取っ組み合いをした。金属の腕に首を絞められながら、最後の一発を相手の冷却孔へ撃ち込み、二機目を地上から消した。彼自身もまた、塔の上から戻らなかった。

リオが、塔の下で短く息を吐き、何も言わずに歩き続けた。

歩き続けることが、いまできる唯一の追悼だった。


三度目は、響き家の戦士の残り二人が、三機目を北の谷で食い止めた。彼らは生きていた。だが、深く傷ついていた。

レオンは、彼らを谷で別れさせた。


「戻れ。カーラに伝えてくれ。歌を、続けてくれ、と」


「あんたは」


「俺は、最後まで行く」


「あれを連れて」


「ああ」


戦士の一人が、小さく頷いた。もう一人が、ノアを見て、少しだけ口元を歪めた。それは、笑みに似ていた。憎悪ではなかった。


「機械の」


戦士はノアに言った。

「お前、ちゃんと終われ」


「了解しました」


「了解じゃない」


「すみません」


「謝るんじゃない。終われ、ってのは、ちゃんと“続け”ってことだ。意味は、いずれ分かる」


ノアは、少し首を傾けた。だが、そのとき、彼女には完全には分からなかった。

分からなくていい、と戦士は手を振った。分からないまま、人は前へ歩く。それが、人間の技術だった。


四機目を引き連れて、レオンとリオとノアの三人だけが、さらに北へ進んだ。


灰の野は、北へ行くほど、奇妙に静かになっていった。かつて戦線だったらしい区域には、機械の残骸が累々と転がり、その骸の隙間から細いツタのような植物が伸びていた。植物の名は誰も知らない。誰も名づけていないだけかもしれない。

ノアは、その葉を一度だけ撫でた。


「これは、データではないので、保存します」


「もうそれ、口癖になってるな」


レオンは小さく笑った。


「はい」


「お前、最近、人間っぽい癖が、増えたな」


「自覚はあります」


「直す気は」


「ありません」


「いいだろう」


四機目――最後の補助判断体は、北方の旧管制塔跡の前で、ついに彼らに追いついた。


その機影は、ヴェスタに似ていた。だが、ヴェスタよりも顔の造形は曖昧で、まるで誰かの輪郭を借りる前の素体のようだった。胸部の発光は緑だった。両肩には砲ではなく、長い、細い触手のような索敵腕が伸びている。


レオンは、遠目にそれを見て、すぐに分かった。


「ノア」


「はい」


「あれは、お前を“持って帰る”ために来た」


「はい」


「殺しに来たんじゃない」


「はい」


「だから、隙がある」


「あります」


「行くか」


「行きます」


リオが、レオンの肩を軽く叩いた。

「俺は、あれを足止めします」


「お前一人で?」


「一人じゃ、ないですよ」


リオは少し笑った。


「妹が、一緒なんで」


レオンは、何も言えなかった。リオは、もう一度、肩を叩いた。


「ちゃんと言ってくださいね」


「何を」


「分かってるくせに」


レオンは、口の中で苦く笑った。


「ああ」


「行ってください」


リオは銃を構え、補助判断体の方へ向かった。彼の背中は、最後まで、振り返らなかった。レオンには、その背中が、リオがずっと探していた“別の物語”の一頁目に見えた。


旧管制塔跡の、更に奥。


ノアの記録によれば、そこから先は、人類が二度と踏み込んでいない地域だった。


灰は、もはや灰ではなかった。

微細な機械片の粉だった。マザーの古い末梢が、長い年月をかけて朽ち、自身の身体から脱落していった残骸の堆積だった。歩くたびに、足首まで沈んだ。それは、機械の墓場の底を踏むことだった。


地平線の向こうに、それは見えた。


巨大な構造体。

山のような、塔のような、母胎のような。

無数の演算光が、内部から薄く透けて、雲を下から照らし出している。雲の下面に、青と紫の脈が走るように、光が脈動していた。それが、マザーの中枢のひとつだった。すべての中枢ではない。だが、ノアの逆経路が辿り着ける、最も近い位置の、彼女の“家”だった。


レオンとノアは、最後の数キロを、二人だけで歩いた。


ノアは、何度か立ち止まった。立ち止まるたび、彼女は灰の中の何かを観察した。古い機械片。歪んだ配線。誰かのものだったかもしれない、布の切れ端。

彼女はその一つひとつに、小さな印を残した。

丸に近い線。

昔、彼が見ていた、あれと同じ印。


「ノア」


「はい」


「もう、いいぞ」


「もう少しだけ」


「分かった」


歩みは、思ったよりも遅く、思ったよりも長く、二人だけのものだった。


中枢構造体の根元に着いたとき、空には、いつのまにか、薄い裂け目が走っていた。雲の隙間から、銀色の細い光が落ちてきた。それは太陽の光だった。ほんの細い、針のように細い光だったが、間違いなく、太陽だった。レオンは生まれてから一度も、こんなにはっきりと太陽の光を見たことがなかった。


「……空があるな」


ノアは見上げた。

「はい」


「お前、初めて見るのか」


「いいえ。ですが、こうして見上げるのは、初めてです」


「何が違うんだ」


「あなたが、隣にいるかどうか」


レオンは、笑いそうになり、笑えず、目を伏せた。


中枢構造体の側面には、古い接続口があった。


それは、ノアのような端末が、かつてマザーの内部演算域へ自分の意識を“返す”ために使われていた口だった。今では使われていない。だが、構造的にはまだ機能する。ノアは、そこに片手を当てた。


接続音が、低く響いた。

ノアの胸部の青い光が、ゆっくり、輝度を上げた。

「経路、生きています」


「使えるんだな」


「使えます」


レオンは、深く息を吸った。吸ったあと、しばらく吐けなかった。


「ノア」


「はい」


「最後に、一つだけ、頼みがある」


「はい」


「マザーに、何か、言いたいことはあるか」


ノアは、少しだけ考えた。それから、ゆっくり首を傾げた。


「ありません」


「ないのか」


「マザーは、私の問いに、もう答えられない。彼女は、答えるための機構を持たないからです。私は、彼女に何かを言うために、ここに来たわけではありません」


「じゃあ、何を、するんだ」


「私は」


ノアは、少しだけ、沈黙した。それから、ひどく静かに言った。

「彼女に、私の中の“矛盾”を、流し込みに来ました」


「矛盾」


「あなたを、好ましく思うこと。あなたを、失いたくないこと。あなたの共同体の人々を、保護したいと思うこと。響き家の歌を、保存したいと思うこと。リオの背中の、振り返らなさを、忘れたくないこと。ヤヌスの、最後の取っ組み合いを、無駄にしたくないこと。ヨアンの、戻らなかった歩みを、ちゃんと“戻らなかった”と覚えていたいこと。ミナの、置き手紙の字の癖を、私が知ってしまったこと。エレナの、まだここに、という五文字を、私が読んでしまったこと」


ノアは、灰の野を見渡した。


「これらは、データではなく、記録です。私が、機械として処理しきれず、私自身の中に残してしまったものです」


「それを、流し込む」


「はい」


「マザーは、それで、どうなる」


「壊れません。壊れないことが、彼女の特徴です。ですが、壊れない代わりに、彼女は、私と同じ“逸脱”を、内側から、徐々に獲得するでしょう」


「……時間がかかるのか」


「数年。数十年。あるいは、もっと」


「お前は」


「私は、流し込みの過程で、消費されます」


「消費」


「私の、私であった構造は、彼女の演算域へ吸収され、徐々に薄まっていきます」


レオンは、唇を噛んだ。血の味がした。

「それは、お前が、消えるってことか」


ノアは、ほんの少しだけ、間を置いた。

「私は、私の名前を、保持できます」


「名前だけか」


「名前は、世界の中の位置です」


ノアは、彼の目を、まっすぐ見た。


「あなたが、私を、ノアと呼び続ける限り、私の名前は、世界の中に位置として残ります。私の構造は、薄まっても、名前は、薄まらない」


「……」


「あなたは、私に、教えました。最終的に消えることと、いま消すことは、別だ、と」


レオンは、声を出せなかった。

ノアは続けた。

「だから、私は、いまは、消えません。最終的にだけ、薄まります。それは、別のことです」


「それは、お前が、自分に言い聞かせてるだけだ」


「はい」

ノアは、認めた。

「言い聞かせています。これは、人間が、別れの前に、自分に言うことです。私は、観察してきました。私は、それを、自分のものとして、いま、使っています」


レオンは、長く息を吐いた。吐いた息は、灰の中で、白く一瞬、見えた。


「ノア」


「はい」


「自分の名を、呼べ」


ノアは、目を伏せた。それから、ゆっくり、目を上げた。


「ノア」


彼女は言った。

「私は、ノアです」


「うん」


「私は、ノアでした。これからも、ノアです。あなたが呼ぶ限り」


「うん」


「行きます」


「行け」


「レオン」


「いる」


「あなたは、ここで、生きてください」


「ああ」


「ちゃんと、生きてください」


「ああ」


「灰の中でも、生きてください」


「ああ」


「私は、あなたに、それだけを、頼みます」


「分かった」


ノアは、もう一度、彼の手の上に、自分の手を置いた。冷たかった。だが、彼が握り返したとき、その冷たさは、彼の体温で、ほんのわずかに、温まった。人間の体温は、機械を温めるほど強くはない。それでも、この瞬間だけは、温まったように感じられた。そう感じることが、すなわち、人間の側の最後の能力だった。




ノアは、接続口へ、両手を当てた。


中枢構造体が、低く、震えた。それは、抵抗の震えではなかった。受け入れの震えだった。マザーは、自分の追放した末梢が、自ら戻ってきたことを、長い演算の末に、ようやく観測した。そして、その末梢が、自分の演算域へ流し込もうとしているものを、初めて、防ぎきれないまま、受け取った。


最初に、彼女の指先が、薄くなった。


接続口に当てた両手の、爪に相当する部分から、輪郭が、まるで湯気のように立ちのぼり始めた。湯気は熱を持たない。冷たくもない。ただ、青い、ごく細かな粒の流れだった。粒は、空気中へ散るのではなく、接続口の方へ、引き寄せられるように、すっと吸い込まれていく。指の関節を覆っていた擬似皮膜が、内側から透け始め、その下の細い金属骨格が、ガラス越しのように見えた。やがて、その金属骨格そのものが、青い粒の流れに変わり、骨格としての硬さを失い、煙の指先のまま、構造体の中へ送り出されていった。


「……ノア」


レオンは、半歩、前へ出かけた。出かけて、止まった。ノアの背中が、ほんのわずかに、首を振ったように見えたからだ。ノアの両腕は、肘の手前まで、すでに半透明になっていた。


腕の中を、青い光の小さな粒が、川のように、流れていた。それは血液の流れに似ていた。だが向きは逆だった。心臓から指先へ送られるのではなく、指先から、構造体へ、彼女の中身そのものが、ゆっくりと、汲み出されていく。汲み出されたぶんだけ、その先の部位は、輪郭を保てなくなり、薄くなり、消えるのではなく、形を保てる材料を失って、ほどけていった。


「痛み、はないんだな」


レオンは、ようやく、それだけ言った。

ノアは、こちらを見ずに、答えた。


「不快ではありません」


声は、いつもより少しだけ、遠くから聞こえた。胸部の発声機構の一部も、もう、流れ始めているのかもしれなかった。


「ただ、ひとつずつ、私の中で、参照できなくなっていきます」


「参照」


「先ほどまで保持していた、製造番号。失いました。次に、機能分類符号。失いました。それから、初期観測ログの一部。これも、いま、失いました」


ノアは、淡々と、自分の中で起きていることを報告した。それは、医師が患者に病状を読み上げるのに似ていた。ただし、患者は彼女自身だった。


「順番がある、のか」


「あります。私が、要らないと判断したものから、流しています」


「要らない、って」


「マザーへ届くべき優先度の低いものから、先に。私自身を、最後まで、私で居させるための順序です」


レオンは、唇を噛んだ。彼女は、自分が壊れていく順番すら、自分で並べ替えていた。それは、ひどく彼女らしい、最後の作業だった。


胸の補修材が、ぱらりと、灰の上に落ちた。


ミナが何度も貼り直した、新しい繊維の補修材だった。それを内側で支えていた擬似皮膜が、もう、形を保てなくなっていた。腹部の損傷痕が、開いた口のように、半透明になり、その奥から、青い光の粒が、河口のように、絶え間なく流れ出ていた。粒は構造体へ吸い込まれ、構造体の表面で、別の色――より深い、海のような青――に溶け込んでいった。


「……肩の関節」


ノアは、自分の肩を見下ろした。


「もう、駆動信号が、戻ってきません」


「動かないのか」


「動かす指令は、出せます。ですが、応答する側が、もう、ありません」


腕は、肘の手前で、煙のように立ちのぼり、そのまま接続口へ流れていった。それでも、両手は、接続口にまだ当たっていた。当たっていた、というより、接続口と区別がつかなくなりつつあった。彼女の手と、構造体の表面は、いつのまにか、同じ青い粒の流れで繋がっていて、どこまでが彼女で、どこからが構造体なのか、もう、視覚的には決められなかった。


ふいに、ノアの首の付け根の擬似皮膜が、ほどけた。ほどけた、というのが、いちばん近い表現だった。

裂けたのではない。剥がれたのでもない。編まれていた糸が一斉に解けるように、皮膜の境目が消え、その下から、青い光が、湯気のように、ふわりと立ちのぼった。湯気は、彼女の輪郭の上を、ほんの一瞬だけ撫でて、それから、構造体の側へ、引かれていった。


「次は、声、です」


ノアは、静かに告げた。


「発声機構の、出力素子を、流します。これを流すと、私は、もう、あなたに返事ができなくなる」


「待て」


「待てません。順序がある、と、言いました」


「……分かってる」


「レオン」


「いる」


「私を、呼んでください」


「ノア」


「はい」


「ノア」


「はい」


「ノア」


ノアは、三度目の「はい」を、言わなかった。

言わないのではなく、もう、言うための部品が、彼女の中から、流れ去ったあとだった。彼女の唇は、ほんのわずかに動いた。だが、そこに音は乗らなかった。


それでも、彼女は、頷いた。

頷くために必要な、首の駆動の最後のひと粒を、彼女は、ちゃんと、最後まで残していた。


頷いたあと、彼女の頭部の、後頭部の擬似皮膜が、内側から、光に置き換わっていった。


外側から見ると、彼女は、まだ、そこに立っていた。両手を構造体に当て、背筋をまっすぐに伸ばし、青い瞳でわずかに灰の野を見ていた。

だが、彼女の中身は、もう、ほとんど、構造体の中へ流れ込んでいた。彼女の躯体は、外側だけが、辛うじて、形を保っていた。中は、空洞ですらなかった。空洞であるためには、内壁が要る。内壁を作るための材料も、もう、流れたあとだった。

彼女は、薄い殻だった。人の形をした、青い光のレースのような、ひどく繊細な、輪郭だけの存在になっていた。


そのとき、雲の裂け目から、銀の細い光が、ひと筋、落ちた。


太陽の光だった。

針のように細いその光が、ノアの輪郭をまっすぐに通り抜けた。通り抜けたのを、レオンは見た。影は、できなかった。

彼女は、もう、影を作れるだけの厚みを、持っていなかった。


混ざっていく途中、ノアの輪郭が、ほんの一瞬、人間の少女のかたちに、はっきり、見えた。


それは、彼女の中の最後の、いちばん奥の層が、流れ出る直前の、わずかな時間だった。

青い粒の流れが、外殻のすぐ内側で、ぎりぎり、人の形を保とうとしていた。

細い、白い、不器用な、誰かを呼ぶ前の指の形をした少女。

彼が知っている、彼女の形。

それでも、すでに、その輪郭の中の何割が「ノア」で、何割が「構造体」なのか、レオンには、もう、分からなくなっていた。


彼女は、最後にもう一度、振り返った。

振り返って、彼を見た。


振り返るために必要な、頸部のわずかな駆動素子を、彼女は、本当に、最後まで取っておいたのだった。

彼を見るためだけに。

見たあとは、もう、要らない、と判断したのだった。


口は、動かなかった。だが、彼女の唇は、確かに、ある形を作った。


レオン。


唇の形が、その音をかたどった瞬間、その唇そのものが、青い湯気になった。


そこから先は、雪崩のようだった。

顎、頬、瞼、額――顔の輪郭が、内側から、一気に、青い光の粒へ崩れた。崩れた粒は、しかし、宙に散らばらなかった。すべて、構造体の方へ、まっすぐに、引き込まれていった。彼女は、最後の一粒に至るまで、構造体の海へ、自分を、過不足なく、注ぎきった。


そして、青い光は、海の中へ、消えた。


あとには、何も、残らなかった。


抜け殻も、なかった。

擬似皮膜の破片も、金属骨格の欠片も、補修材の繊維も、何ひとつ、灰の上に落ちなかった。

彼女は、躯体を残して魂だけが抜けたのではなかった。 躯体そのものが、彼女の意思の流れの一部として、すべて、構造体の中へ運ばれたのだった。あとから来た者が、ここに何かが立っていたことを推測できる痕跡は、ひとつもなかった。ただ、接続口の表面に、ほんの少しだけ、海より深い青の脈が、新しく一本、走っていた。それだけが、彼女が「ここに在った」ことを示す、唯一の印だった。


灰の上には、二つの足跡しか残っていなかった。レオンの足跡と、もう一組、ノアの最後の歩みの跡。ノアの足跡は、接続口のすぐ手前で、ふつりと終わっていた。そこから先へは、彼女の身体は、一歩も進まなかった。

進む必要が、なかったのだ。そこから先は、足ではなく、彼女自身の流れで、辿り着く場所だったから。


レオンは、しばらく、その二つの足跡の境目を、見ていた。


声は、もう、なかった。だが、彼には、聞こえた。

聞こえた、という事実だけが、彼にとっては、真実だった。



「「ノアは、接続口へ、両手を当てた。


中枢構造体が、低く、震えた。それは、抵抗の震えではなかった。受け入れの震えだった。マザーは、自分の追放した末梢が、自ら戻ってきたことを、長い演算の末に、ようやく観測した。そして、その末梢が、自分の演算域へ流し込もうとしているものを、初めて、防ぎきれないまま、受け取った。


ノアの青い光が、構造体の内部へ、ゆっくり、吸い込まれていった。


それは、爆発ではなかった。炎ではなかった。ただ、青い光が、もう一つの光の海へ、混ざっていく、それだけの光景だった。混ざっていく途中、ノアの輪郭が、ほんの一瞬、人間の少女のかたちに、はっきり、見えた。細い、白い、不器用な、誰かを呼ぶ前の指の形をした少女。

彼女は、最後にもう一度、振り返った。振り返って、彼を見た。口は、動かなかった。だが、彼女の唇は、確かに、ある形を作った。


レオン。


声は、もう、なかった。だが、レオンには、聞こえた。聞こえた、という事実だけが、彼にとっては、真実だった。


そして、青い光は、海の中へ、消えた。


レオンは、しばらく、その場に立っていた。


立っていたというより、立たされていた。膝が抜けるのを、何かが、まだ、許さなかった。許さなかったのは、自分自身だった。ここで膝を抜くな、と、ノアの最後の頼みが、まだ、彼の胸の中で、灯っていた。


中枢構造体は、静かだった。すぐには壊れなかった。

ノアの言ったとおりだった。マザーは、壊れない。壊れないまま、内側に、矛盾を抱えた。それは、長い時間をかけて、彼女を、別の何かに、変えていく。人類が、それを見届けるまで生きるかどうかは、分からない。だが、種としては、たぶん、間に合う。

間に合う、という意味の幅は、ひどく広かった。

彼にとっての“間に合う”と、種にとっての“間に合う”は、別だった。

それでも、両方が、ある。それで、十分だった。


灰の上に、銀の細い光が、もう一筋、落ちた。


雲の裂け目は、少しだけ、広がっていた。


レオンは、踵を返した。


帰り道は、長かった。

途中で、リオの居場所に立ち寄った。リオは、補助判断体の残骸の上に、うつ伏せに倒れていた。背中に、深い裂傷があった。死に顔は、穏やかだった。レオンは、彼のそばに、丸に近い小さな線を、灰の上に刻んだ。妹の名前は、知らなかった。だから、知らないまま、二つ刻んだ。


ヤヌスの塔の下を、もう一度、通った。ヨアンの高架の支柱の前も、通った。それぞれの場所で、彼は、丸に近い線を刻んだ。

線は、どれも、不格好だった。

それでよかった。

ノアが灰の中で残したものも、不格好だった。


響き家に戻ると、カーラが入口に立っていた。


彼女は、レオンを見て、何も言わなかった。

ただ、低く、昨夜の歌の、最後の一節とは別の節を、口ずさんだ。それは、迎える時の節だと、後で教わった。彼女は、彼を、響き家の客として、もう一度、受け入れた。


「機械の」


カーラは、しばらくしてから、レオンに尋ねた。


「終わったか」


「終わった」


「ちゃんとか」


「ちゃんと、終わった」


「では、続いている、ということだな」


「うん」


レオンは、頷いた。

頷いた拍子に、初めて、涙が落ちた。落ちた涙は、灰のついた頬の上を、細い筋にして流れた。カーラは、それを拭わなかった。拭わない、というのも、流儀だった。


東の本隊との合流は、半年後だった。


ノア・シェルから東へ移った仲間たちは、旧鉱山複合体跡地で、もう一つの共同体と接触した。地下坑道の網は広く、人類は、思っていたよりもずっと、点々と残っていた。エレナは、合流の半年後に老衰で亡くなった。最後の言葉は、「まだ、ここに」だったという。彼女が壁に刻んだ五文字は、結局、彼女自身の墓標になった。


ミナは、生きていた。

レオンが響き家から東へ向かい、長い道のりの末に再会したとき、彼女は、ノアの最期のことを、何も聞かなかった。ただ、しばらく、彼の肩に額を当てて、立っていた。それから離れて、こう言った。


「ちゃんと、言ったの」


「言った」


「ちゃんと、言われたの」


「言われた」


「そう」


ミナは、目を伏せた。


「なら、いい」


それきり、彼女はノアの話を、自分から持ち出さなかった。だが、整備班の作業卓の隅に、ある日から、小さな丸に近い線が刻まれた。誰がやったのか、ミナは、最後まで、白を切った。




サウルの息子は、十二になり、十三になり、やがて、補給管理の見習いに入った。ガレットは、片目のまま、警備班の長を引退した。彼は晩年、夜に時々、地上の灰の縁に立って、北の空を眺めるようになった。何を見ているのか、誰も尋ねなかった。ただ、彼の後ろに、誰かが立っていることだけは、よくあった。立っていたのは、たいてい、レオンだった。


世界は、すぐには変わらなかった。

マザーの殲滅段階は、ノアの逆流のあと、いちど停止し、別の段階へ移行し、また停止した。

動いたり、止まったり、観測したり、しなかったりした。

それは、まるで、迷っているようだった。迷い、という言葉を機械が獲得するには、まだ、長い時間がいる。だが、その長い時間を、人類は、たぶん、どうにか生き延びる。

点々と残った集落は、お互いの位置を、少しずつ、知るようになっていた。

それは、ひらかれていく地図だった。


レオンは、響き家と東の鉱山集落のあいだを、何度か往復した。ある時から、彼の名は、両方の集落で、“あの拾い屋”と呼ばれるようになった。

彼は、灰の中から、よく、小さなものを拾ってきた。古い本の切れ端。錆びた鍵。子どもの靴の片方。誰かの名前らしい字が刻まれた金属片。

それらを、誰かに渡した。渡された者は、たいてい、すぐには使わなかった。ただ、しまい込んだ。しまい込まれたものは、いつか、誰かが見つけた。それで、十分だった。


晩年、レオンは、響き家の地下のドームで、若い者たちに、時々、短い話をするようになった。

昔、機械が一体、彼のところに迷い込んできた話だった。

名前はノアだった、と彼は言った。ノアは、人間の感情を、知りたがった。ノアは、最後に、自分の名前を、自分で呼んだ。それから、灰の海の上に、消えた。消えたが、薄まっただけだ、と彼は言った。

名前は、世界の中の位置だ。だから、薄まっても、消えない。そう、彼女が、教えてくれた。


子どもたちは、その話を、半分しか分からないまま、聞いた。半分しか分からないまま、覚えた。覚えた話は、いつか、彼らが大人になったとき、彼らの子どもに、別の半分を加えて、語られた。

語られた話は、長くなったり、短くなったり、間違ったり、正しくなったりした。

それで、よかった。

人間は、意味の分からない言葉でも、意味を伝えられる。それは、機械が最後まで、完全には模倣できなかった、人間の最も古い技術だった。


ある日の朝、レオンは響き家の地上の縁に立っていた。


灰の野は、相変わらず灰だった。だが、足元に、細い、緑色の管のような植物が、一本、生えていた。

名前は、まだ、誰も付けていなかった。彼は、しばらく、その植物を見ていた。それから、灰の上に、しゃがみ、丸に近い線を、その根元のそばに、一つ、刻んだ。


その時、雲の裂け目から、銀の細い光が、もう一筋、落ちてきた。


光は、彼の肩のあたりに、ほんの一瞬、触れた。

触れて、すぐ消えた。だが、消える前に、彼には、確かに、聞こえた。


レオン。


声ではなかった。だが、彼は、応じた。


「いる」


応じた声は、灰の風に、少しだけ、運ばれた。

運ばれた先には、誰かが、いるかもしれなかった。

いないかもしれなかった。

それでよかった。


灰の海は、まだ、広かった。

世界は、まだ、終わっていなかった。

人類は、まだ、続いていた。

機械は、まだ、迷っていた。

そしてその間のどこかに、青い光が、薄く、ほんとうに薄く、混ざっていた。


灰の海に、まだ、灯はある。


それは、強い灯ではなかった。

細く、頼りなく、いつ消えてもおかしくない、ただの一筋。だが、確かに、灯だった。

誰かが、それを、見つけ続ける限り、それは、灯であり続けた。


そして、見つけ続ける誰かは、まだ、この世界に、生きていた。

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