第32話 ブレスレット
魔王ハオがシンとの魔力通信を切断すると、玉座の間は深い静寂に包まれた。
ハオは重厚な玉座から立ち上がり、隣で静かに控えていた妻・アズサへと視線を向ける。
「アズ。一華の安全に関わる、緊急の依頼だ。」
その声色のただならぬ響きに、アズサは瞬時に魔王ハオの意図を察した。
「ブレスレットの製作ですね。すぐに手配いたします。」
「形状は一華の希望通り、魔宝石を連ねたカジュアルなブレスレットとする。だが、単なる結界に留まらない。共鳴の魔力を任意のタイミングで遮断できる『制御機能』を必ず付与させろ。あの子の心が消耗しすぎる前に、その力を自ら手懐けるための補助具が必要なのだ。」
アズサは深く、力強く頷いた。
「承知いたしました。あの子があれほど欲しがっていたものです。最高の結界と制御機能、そして何よりも『おしゃれさ』を兼ね備えた完璧な品を、最短で仕上げてみせます。」
アズサは即座に魔力通信を開き、魔界随一の宝石職人兼魔術工学者たちを招集した。
選ばれたのは、一華のペンダントに使われていたものと同じ、極上の瑠璃石。職人たちに昼夜を問わぬ急ぎの作業が命じられたのは、言うまでもない。
◇◆◇
三日後の夜明け前。魔王城の工房で、ついにそのブレスレットが完成した。
それは細やかに研磨され、丸く成型された数十個の深い瑠璃色の魔宝石が、細い銀の鎖で一つ一つ丁寧に繋ぎ合わされた、繊細かつ堅牢な傑作だった。一見すれば人間界のハイブランドに並ぶ高級ジュエリーだが、その内側には魔王ハオの高度な魔力技術が緻密に組み込まれている。
アズサは最終調整として、慈しむように、そして誇らしげにその輝きへ語りかけた。
「これで一華を護りなさい。そして、もし制御不能な共鳴が発動しそうになった時は、彼女の意思とは無関係に、感情の波長を強制的に遮断するのです。」
彼女の言葉に応じるかのように、主たる宝石の一つがふわりと青い光を弾かせ、魔力の注入が完了したことを示唆した。
アズサは完成品を手に取ると、そのままシンへと魔力通信を繋いだ。
「シン君、ブレスレットが完成しました。今すぐそちらへ送ります。一華には内緒で、彼女が目覚める前に受け取ってください。私とハオ様の魔力は既に注入してあります。最後に、あなたの結界の魔力をそこへ重ねなさい。」
通信の向こう、シンはパジャマ姿でリビングへ急いだ。深夜の暗がりの中でも、その瞳には強い光が宿っていた。
シンは通信越しに感謝をする。
「ありがとうございます、アズサ様。」
アズサが魔力を込めて空間へと放り投げると、シンの目の前の空気が微かに歪み、青い亀裂から美しいブレスレットが、凛としたきらめきを伴って滑り落ちてきた。
シンはそれを両手で受け止め、指先に伝わる圧倒的な魔力の密度に息を呑む。これならば間違いなく、一華の安全と、自身の護衛任務を完璧に支えてくれるだろう。
シンはブレスレットを胸元に引き寄せ、通信の切れた空間に向けて静かに誓った。
「――必ず、一華を守り抜きます。」
その後、精神を深く統一したシンは、受け取ったブレスレットへ自身の結界魔力を限界まで注ぎ込み、万全を期すために短い休息へと入った。
◇◆◇
早朝。シンはアズサから託された瑠璃色のブレスレットを大切に手元に置き、一華の目覚めをリビングで待ち構えていた。
夜明けの光を浴びて静かに息づく魔宝石は、昨日よりもなお深く、神秘的な輝きを放っている。その一つ一つに、魔王ハオの技術とシンの結界が折り重なっているのだ。早くこれを一華に渡し、その不安を拭い去ってやりたい。シンはリビングの扉を見つめ続けた。
やがて、いつも通りの時間に目覚めた一華が、顔を洗い、制服に身を包んで足取り軽く現れた。
「おはよう、シン! 今日はいい天気だね!」
「おはよう、一華。」
ダイニングテーブルの脇で待ち構えていたシンが立ち上がる。いつものように朝食を待とうとした一華だったが、シンのただならぬ真剣な表情と、背後に隠された手元に気づき、首を傾げた。
「……どうしたの? また何かトラブル?」
シンは隠していた手を、すっと一華の前に差し出した。
「トラブルではない。――解決策だ。」
開かれたシンの手のひらの上で、朝の光を受けた瑠璃色のブレスレットが鮮やかに輝いていた。一華が望んだ通りの、丸く成型された魔宝石の連なり。それはペンダントよりも遥かにカジュアルで、これならば体育の授業で汗を流す時も邪魔にならないはずだった。
一華は驚愕に目を見張り、声を失う。
「嘘……! もう、出来たの……!?」
シンの硬かった表情が、ふっと柔らかくほどけた。
「あぁ。昨夜、アズサ様が転送してくださった。君が望んだ通りの形状だ。ペンダントよりずっと身軽に動けるはずだ。」
信じられない思いで、一華は両手でそのブレスレットをすくい上げた。触れた瞬間、ペンダントの時以上の、強くそして心地よい安定した魔力の波動が手のひらから全身へと伝わっていく。それは紛れもない、シンの結界の温もりだった。
「すごい……本当に、こんなに早く……。パパも、ママも、シンも……ありがとう……!」
「一華。これはただの結界ではない。叔父上とアズサ様が、共鳴の魔力を任意のタイミングで遮断するための『制御機能』も組み込んでくださった。」
一華はブレスレットを眺めながら呟く。
「制御機能……。」
「それを左手首に着けてくれ。肌に密着している方が、魔力の制御がより正確になる。」
一華はうなずき、大切にそれを左手首に巻きつける。シンがそっと留め具を留める。
白く細い手首に映える深い瑠璃色は、まるで洗練されたお気に入りのアクセサリーのようだった。
シンは一華の手首を優しく包み込むように確かめた。
「これで、君の体は常に最高強度の結界で守られる。もし共鳴が予兆を見せても、君の意志でその波長を断ち切れるはずだ。もう、眠りの中で誰かの悲鳴に怯えることも、学校で外す不安もない。」
一華は愛おしそうにブレスレットを撫で、心からの笑みを浮かべた。
「うん……これで安心だね。もう誰にも、心配かけずに済む。ありがとう、シン。」
その安らいだ横顔を見つめながら、シンは胸をなで下ろす。
「それにしても、ペンダントよりはカジュアルだけど、なんかすごくラグジュアリーっぽくない?」
「プリンセスだからな、それくらい当然だろ。」
「今はただの高校生なんだから、学校では隠しておかないと目立ちすぎだよ。体育で袖をまくったりしたら絶対バレちゃう。先生に注意されちゃうかも……。」
(――注意されたら、俺がお守りだと周囲を洗脳するか……。)
心の中で物騒な思考を巡らせつつ、シンは「とりあえず、朝食にしよう」と話を切り上げた。
魔王ハオとアズサの手によって完成した瑠璃色のブレスレットは、一華に確かな平穏をもたらした。しかし、あまりに強大な魔力を秘め、美しく輝く『魔宝石』を、人間の学校という無防備な場所にそのまま晒すわけにはいかない。
一華は自室のクローゼットを探り、制服の袖口からチラリと覗く程度なら完璧に隠せるアイテムを見つけ出した。それは、紫色の少しボリュームのあるシュシュだった。
ブレスレットの上からそれを重ねて着けてみると、繊細な輝きと魔宝石の存在は見事に覆い隠された。
「これならどう? ちょっと袖をまくっても、これがあるからブレスレットは見えないでしょ?」
一華が誇らしげに見せると、シンは深く頷いた。
「あぁ、物理的なカバーとしても理にかなっている。ブレスレットが内側から魔力を防ぎ、シュシュが外側からカモフラージュする。完璧な二重の守りだな。」
袖口を下ろせば、もう青い宝石が他人の目に触れる心配はない。
◇◆◇
その日の学校生活は、かつてないほど順調に進んでいった。
午前中の授業中、一華は左手首のシュシュの下から伝わる冷たくて心地よい感触を意識していた。それは彼女自身の魔力と共鳴し、絶えず安定した波動を送り続けている。
(これなら大丈夫。たとえ誰かの強い感情が流れ込んできても、このブレスレットが完全に遮断してくれる……。)
一華の心は、月華草茶を飲んでいた頃よりも遥かに澄み渡り、授業の予習にもしっかりと集中できた。体育の授業で腕を大きく振る際も、かつてのようにペンダントを外し、無防備になる恐怖におびえる必要はない。
休み時間、理那や真由に囲まれて他愛のない雑談に興じる中、一華の左手首で揺れる紫のシュシュは、ただの可愛いヘアアクセサリーにしか見えていなかった。
「あれ、一華、今日はそのシュシュ手首に着けてるんだ? 可愛いね。」
「うん、ちょっと手首が寂しかったから!」
満面の笑みで答える一華の内心では、(これはパパとママ特製の、世界で一番すごい『最終結界』なんだけどね!)と、秘密の優越感にそっと浸っていた。
一方シンは、終日、一華の魔力の波長を一日中監視し続けた。
(ブレスレットは完璧に機能している。共鳴の魔力を上品に抑え込みながら、一華自身の成長を一切阻害していない。叔父上とアズサ様の魔力工学はやはり驚異的だ……。)
一華が友人たちと心から笑い合い、何気ない日常を謳歌している姿は、シンにとってどんな任務の成功よりも価値のあるものだった。
ブレスレットとシュシュという『二重の結界』のおかげで、一華は再び、普通の女子高生としての穏やかな日常を取り戻すことができたのだった。




