第25話 テスト勉強
ゴールデンウィークの喧騒が遠ざかり、新緑の匂いが少しずつ初夏の気配を帯び始めた頃、高校の教室には日常の活気が戻っていた。それと同時に、廊下の掲示板に貼りだされたのは、来週から始まる中間テストの日程と範囲を告げる一枚の紙だった。
いよいよ本格的なテスト勉強へと舵を切らなければならない時期が来た。少しでも机に向かう時間を捻出するため、帰り道にテイクアウトの総菜を買い、急ぎ足で帰宅する日が続く。幸い、ゴールデンウィーク期間中からコツコツと積み重ねていた復習のおかげで、一華の学習は比較的スムーズな滑り出しを見せていた。
「ねえ、シン。今回の中間テストの範囲、思っていたより少なめで助かったよ。」
教科書をペラペラとめくりながら、一華は胸を撫で下ろす。
夕食の準備で手際よく包丁を動かしながら、シンは冷静に相槌を打った。
「基礎的な範囲だからな。ここで点数が取れなければ、内容が難化する次からはさらに厳しくなるだろう。」
「うっ……プレッシャーかけないでよ。」
小さく肩をすくめる一華。
世間では名門と呼ばれる難関受験を突破してきた彼女だが、不思議と今回の中間テストには、それまで感じたことのない異常なほどの不安が付きまとっていた。入学式直前から始まった『魔力覚醒』という怒涛の非日常に翻弄され続け、純粋に『高校生』としての勉強と向き合う余裕がなかったからに他ならない。
「そんなに身構えるな。気軽に受けてみたらどうだ?」
箸をきれいに並べながら、シンは何気ない調子で言い放つ。
「気軽って……。赤点なんてとったら挽回できないよ。高校の成績は、これからの進路にも響くんだから。」
「受験勉強を乗り越えてこの学校に合格したのだから、基礎学力はあるはずだ。日々の授業をきちんと受けているなら大丈夫だろう。一華が今感じているのは実力不足への不安ではなく、高校の『出題傾向』という未知の対象に対する、ただの警戒心ではないのか?」
その言葉に、一華はハッと目を見開いた。
「なるほど……言われてみれば、そうかもしれない。」
「なら、この時期はもっとゆったりと構えて勉強してみてはどうだ。きちんと睡眠と食事をとり、普段通りの生活を送る。それが精神の安定、ひいては魔力の安定にも繋がる。」
諭すようなシンの言葉に、一華は少しだけ頬を膨らませた。
「普段通りって……。高校に入ってから家事と訓練に追われて、まともに勉強してこなかった私にそれ言う?」
「まぁ、闇雲に机にしがみついても効率は悪い。ゴールデンウィーク中に基礎の復習はできているんだ。あとはなるようになるさ。」
「シンって、そんなに楽観的だったっけ? もっとこう、状況を冷徹に分析して完璧な戦略を練るタイプだと思ってたけど?」
「……? いや、それはお前に引っ張られたからでは?」
「私?」
「あぁ。一華は実に楽観的だと思うがね。魔界人だと告白されてもあっさり受け入れ、魔力覚醒を『パワー注入だ』と喜んで夜道を散歩する。これを楽観的と言わずして何と言うんだ。」
「無謀?」
首をかしげて問いかける一華に、シンはふっと表情を緩め、やがて「ははは!」と声を上げて笑い出した。
つられて一華の口元からも笑みがこぼれ、それまで食卓を覆っていた重い緊張感は、まるで霧のようにすっと消えていった。
穏やかな空気が戻った食卓で、シンはふと思い出したように一華の学習傾向を分析し始めた。
「一華は、論理的に筋道を立てれば解ける教科は得意だが、純粋な記憶力が試される暗記科目はどうも苦手なようだな?」
シンの的確すぎる指摘に、一華は目を丸くする。
「うん、その通り。歴史なんてただの年号と人名の羅列にしか見えないし、国語の『作者の心情を述べよ』なんて問題が出ると、『他人の考えなんて理解できるわけないでしょ』って思っちゃうんだよね。」
しかし、シンは首を傾げた。
「お前は、『共感の魔力』を使って他者の感情の核を鋭く掴み取れるのに、言語化された思想や文章は理解できないのか?」
「そうだよ。人間は口ではいくらでも嘘をつくし、本当に大事な本音は隠すもの。たとえば『大丈夫』って微笑む人でも、本当にそっとしておいてほしい場合と、強がって誰かの助けを求めている場合がある。目に見える言葉だけじゃ、本当のことは見抜けないよ。」
(共感の魔力で他者の内面を抉り出せるというのに、教科書に書かれた論理的な文学の意図はすれ違ってしまうのか……。)
シンが内心で感心し、勉強法を提案する。
「それだけ見抜けていれば十分だと思うが……国語のテストでは、その『深読み』が裏目に出るのか。とりあえず、勉強法を『記憶力で確実に点が取れるもの』に最適化してみたらどうだ?」
力なく、情けない声で一華がつぶやく。
「……その記憶の仕方が、わからないの。」
あまりの告白に、シンは絶句した。
「はっ? 難関受験を勝ち抜いてきた奴のセリフか、それは!」
「自分でも、よく合格できたなって思ってるよ。」
あきれ返りつつも、シンは腕を組み、真剣な眼差しで思考を巡らせた。
「……授業をただ聞くだけで覚えられないなら、手と脳を連動させるしかないな。テスト範囲の重要事項を歯抜けにしたノートを作り、その隣に自分で答えを書き込んでいく。音読しながら手を動かして書き写せ。マーカーを引くだけの視覚的なインプットより、書くという物理的な運動の方が、お前の脳には合っているはずだ。」
「なるほど……。やってみる!」
教わったコツに納得した一華は、さっそくテーブルを片付け、自分なりのテスト対策ノートを作り始めた。ノートの白紙に重要事項を書き連ね、要所を空欄にしていくペン先が小気味良く走る。
その真剣な横顔を見つめながら、シンは一華の魔力の波長がかつてないほど穏やかに整っていくのを肌で感じていた。彼女の成長を密かに誇らしく思いながら、シンは満足げな笑みを浮かべるのだった。
◇◆◇
そして――中間テストの最終日。
午前中ですべての試験が終了し、高校の門をくぐった生徒たちの足取りはどこか軽やかだった。午後からの解放感は何物にも代えがたく、翌日の教科を復習しなければならないというプレッシャーからも完全に解放されている。
一華は、シンが考案した『書いて覚える』勉強法のおかげで、記憶力の必要な教科もなんとか解答欄を埋めて乗り切ることができた。
自宅のリビングに戻るなり、一華はフローリングの上に大の字になって倒れこんだ。
「終わったぁぁぁ――っ!」
キッチンで昼食の片付けをしていたシンが、やれやれといった様子で振り返る。
「あぁ、本当によく頑張ったな。まあ、点数のことはいったん忘れるんだな。」
その言葉に、一華はガバッと体を起こし、ジト目を向けた。
「……それって、全然点数取れてないように聞こえるんだけど……。」
苦笑しながら、シンは首を横に振る。
「そういう意味ではない。ただ、終わった終わったと済んだテストの出来を今さら悔やんでも始まらないだろう? テストが返却されてくるまでの間は、いったん頭の中を勉強から完全に解放してやればいい。そう言いたかっただけだ。」
「うん! すっかり忘れる! 今日からは、また魔力に集中しよっと!」
その切り替えの早さに、シンは呆れ半分、心からの安堵半分といった表情で返す。
「まったく……相変わらず、一華は楽観的だな。」
「また『無謀』って言いたいんでしょ?」
「ははは。」
心地よい笑い声がリビングに響く。
学校のある夜は、二人はリビングのテーブルを挟んで向かい合い、一華はペンダントの結界を強める訓練を、シンは精神を統一して魔力を高める訓練を重ねていた。そして、週末の夜や休日の夜更けを見計らっては、静寂に包まれた夜の街へと散歩に出かける――それが、いつの間にか二人の新しい『日常』となっていた。




