第14話 書道初日
「書道」――その選択は、彼女にとってこの慌ただしい日常の中の、ひとときの休息に思えた。
魔力によって奇妙な形で叶えられた『希望の選択科目』。その授業のため、シンと一華はそれぞれの書道セットを手に、特別教室棟の書道教室へと向かっていた。午後の校舎には、どこか穏やかな静けさが満ちているが、二人の足取りにはそれぞれの理由から微かな緊張感が漂っている。
教室の扉を開けると、すでに数名のクラスメートたちの姿があった。教室内には、紙の質感と混ざり合う、微かな墨の香りが漂っている。窓から差し込む夕暮れ前の柔らかな光が、整然と並ぶ机の上の硯や文鎮を照らし出していた。
二人は護衛任務を円滑に遂行するため、一番後ろの空席に横並びで腰を下ろした。
一華は、月に関わる不穏な気配や、この世界を脅かすような本が周囲にないことに心底安堵の息を漏らす。
一方のシンは、一瞬にして教室全体の空間を把握するように、鋭い視線を周囲の生徒や窓の外へと巡らせて警戒を怠らない。魔界からの影がいつ、どこから忍び寄るか分からない以上、彼の戦闘態勢は常に解かれていなかった。
やがて、予鈴に続いてチャイムが鳴り、高校生活初日の書道選択授業が始まった。
壇上に立った担当の先生から、書道教科書の購入案内と、筆の種類や墨の濃淡についての簡単な説明が行われる。それが終わると、各自が手元の硯に向かい、静かに墨を擦り始めるよう指示が飛んだ。
(書道なら、窓の外の月を見る心配もないし……。それに、シンも隣にいる。これなら、授業中は安全だよね!)
一華は胸を撫で下ろし、心地よい緊張感とともに硯を取り出した。その隣で、シンは淡々と、しかし無駄のない流れるような動作で墨を擦り始めている。その所作はまるで一種の武術の鍛錬のようで、同じ『机に向かう作業』でありながら、纏う空気が圧倒的に異なっていた。
前方の黒板に、先生がお手本として力強い筆致の文字を磁石で貼りだした。
「本日は初日ですので、まずは現在の実力を把握するため、このお手本を参考に、好きな文字を自由に書いてみましょう。」
教室全体に、上品な墨の香りがより一層濃く漂っていく。その香りに導かれるように、自然と生徒たちの精神が統一されていくのを感じながら、シンは静かに筆を執った。
(……)
その傍らで、一華は墨汁をボトルから直接硯へと注ぎ入れながら、自身の選択を心の底から激しく後悔していた。
(あーぁ、習字なんて小学校の授業以来だもんな。絶対、字が下手なのがシンにも周囲にもバレちゃうじゃん……! 何で私、よりによってこの科目を選んだんだろ……完全に失敗したなぁ……。)
遠い目をしながら、おそるおそる筆を手に取る一華。その頼りない手つきとは対照的に、シンは筆先に全神経を集中させ、何の迷いもなく一筆目を滑らせた。その筆運びは驚くほど力強く、紡ぎ出される文字の形は見る者を圧倒するほど整っている。魔界で数々の公文書や複雑な魔術陣の記述など、書類仕事も多くこなしてきた彼にとって、漢字を美しく書くことなど造作もないことだった。
一方、久しぶりに持つ筆の独特な感触や、力の入れ加減に完全に翻弄されていた一華は、どうにかこうにか一文字を書き終えたところで、現実という名の冷徹な壁に直面した。
(ひどい……。これ、大目に見ても、小学生の時より下手になってる気がする……!)
絶望に打ち震えた一華は、現実から目を背けるようにその場で項垂れ、自分の不出来な作品を両手で必死に隠した。まるで、恐ろしい魔獣から身を守るかのような必死さだった。
その様子は、隣で静かに一度集中を解いたシンの視界に、自然と飛び込んできた。
「一華、どうした。」
「……下手すぎ。見ないで!」
見せまいとさらに両手を広げ、文鎮の代わりに自分の作品を死守しようとする一華。
シンは小さく息をつくと、彼女のその不器用な手を優しく、しかし確かな力でそっとどけ、ちらりと半紙の上の文字を覗き込んだ。
そして、堪えきれないように、ほんの少しだけ口元を緩ませた。
「ふむ。これは……練習が必要だな。」
「もう……笑わないでよ……。」
笑われたことに気づいた一華は、さらに恥ずかしさのあまり項垂れた。
(やることがどんどん増えていく! 日常の魔力の訓練に、学校の勉強、そして習字の練習! それに料理、掃除、洗濯、ゴミ捨て……! 私、全然遊べなーい!)
頭の中で悲鳴が上がり、思わず筆を放り出しそうになる衝動に駆られる。その瞬間、一華の乱れた精神状態に呼応するかのように、周囲の魔力の流れがわずかに揺らいだ。空間がピリッと緊張する。それを敏感に察知したシンは、瞬時に私語を慎む生徒から、護衛兼指導者としての鋭い顔へと切り替えた。
「まず、筆の持ち方から直そうか。その握りでは、力が入りすぎて文字が硬くなる。」
言うが早いか、シンは一華の隣へと身を寄せ、彼女の筆を持つ手の上からそっと自分の大きな手を重ねた。
「筆はこうだ。余計な力を抜いて、筆先に全ての意識を集中させる。一華の心が乱れていると、筆先もすぐに乱れる。習字はな、精神統一の訓練に最適なのだから。」
「う、うん、わかった。ちゃんとやるから……!」
シンの温もりと、あまりにも真摯な距離の近さに、(近すぎる……!)と内心ドキドキと胸を跳ねさせながらも、彼の真剣な眼差しに触れ、一華は必死に乱れた気持ちを立て直した。
その素直な反応に、シンは満足そうに小さく頷いた。
「あぁ。今日の授業の間に、集中して正しい筆の持ち方だけでも体得しろ。お前ならできる。」
◇◆◇
授業を無事に終え、書道セットを抱えて帰宅した一華とシンは、夕食の準備に取り掛かる前に、キッチンで今日の振り返りを行った。
エプロンの紐を結びながら、一華は冷蔵庫から冷えたお茶を取り出し、グラスに注ぎながらシンに話しかける。
「あーぁ、シンて本当に字が上手だよね。私もあんな風にかっこよく書けるようになるのかな……。」
グラスを差し出しつつ、一華は少し羨ましそうな、そしてどこか投げやりな溜息をついた。シンは受け取ったグラスに軽く口をつけてから、一切妥協のない、真剣そのものの眼差しで彼女に向き合った。
「一華が心を込めれば、必ず上達する。それよりも、今日の一華はすぐに集中力が途切れていたぞ。授業の後半は気が散っていた。」
「だって、やることが多すぎるんだもん! 高校生ってもっと、放課後はのんびり友達と寄り道したり、遊べる時間があると思ってたのに!」
ぷうと頬を膨らませる一華に対し、シンは一歩も引かずに言葉を重ねる。
「一華。よく聞け。今の生活は、お前が人間界で自立し、揺るぎない強い心を持つための大切な訓練だ。料理も掃除も、学校での生活も、すべてが一華を大きく成長させるための課題なのだから。」
「……うん。」
シンの真っ直ぐな言葉に、一華のなかでくすぶっていた不満の炎はすっと消えていき、代わりに妙な納得感と、不思議な温かさが広がっていく。
「そして、習字は精神統一と魔力制御、その両方に直結する訓練だ。一華の心は、油断するとすぐに制御を失いやすい。文字を整えることは、すなわち心を整えることに繋がる。乱れた文字は、乱れた精神の表れだ。」
静かに、しかし一言一言に力を込めて、シンはさらに続けた。
「だから、今日から夕食後、魔力制御訓練の直後に書道の練習時間を組み込もう。俺も一緒に付き合う。一華の生活全般の指導と、習字の指導――どちらも完璧にこなすのが、今の俺の役割だ。」
「うん、わかった。書道、頑張る! シンの字みたいにかっこよく書いてやるんだから!」
シンの真摯さに背中を押され、(なんだか、習字の練習までシンと一緒なら、案外頑張れるかも……)と、一華の胸の内に小さな決意の炎が再び力強く灯った。
「あぁ。楽しみにしている。では、まずは今夜――正しい筆の持ち方で、自分の名前を百回書くことから始めるぞ。」
満足げに頷くシンの頭の中では、(よし、これで彼女のストレスを『学習』と『競争意識』のエネルギーへと上手く昇華させられたな。)という、護衛としての静かな安堵の計画が完璧に完遂されていた。




