貴女へ贈る音楽
伊咲さんの仕分けは、思っていたより遥かに早く、効率よく終わった。ものの処分先に伊咲さんが迷うことがほとんどなかったことと、大多数に廃棄処分の判断が下されたという要因が大きい。ぬいぐるみ以外のものに対して思い出に浸るということがほとんどなく、ゴミ袋に次々と放り込んでいくこちらの方が不安になるほど未練なく、伊咲さんはものを処分していった。本も、食器類も、服も、家具も。
そして、ピアノも。
「――え、ピアノ、捨てちゃうんですか」
本気で驚いて、俺は伊咲さんを見た。以前にもそのような話は聞いたけれど、本当にこれも処分してしまうのか。うん、と伊咲さんは頷く。
「ローンはまとめて払ったし、捨てる分には問題はないよ」
「でも」
「さすがに、外国にまで持っていくことはできないよ……向こうの引っ越し先には、最初からピアノが置いてあるそうだし、学校にも当然、ある。だから、惜しいけれど……」
そう言う伊咲さんの表情は、確かに、ぬいぐるみを処分すると言ったときと同じものだった。
惜しみ、残念に思い、けれど執着しない。割り切った上での惜別。
伊咲さんの細く白い指先が、ピアノの黒い体をなぞる。
「…………」
俺は言葉を失ったまま、伊咲さんと同じようにピアノを見る。そこにはわずかな歪みを持ちながら、俺と伊咲さんが映し出されていた。
「…………」
さすがにこればかりは、全く予想だにしていなかった。だから絶句し、息を呑み、
「……あの」
迷いは、三呼吸。
それだけの間をもって、俺は口を開いた。
ん、と俺の方を見る伊咲さんに、言う。
「ピアノ……弾いても、いいですか」
え? と伊咲さんは、まるで脈絡なく言い出した俺を訝しげに見る。俺は薄く微笑しながら言った。
「実は、伊咲さんに聴いてもらいたくて、ずっと練習してたんです。内緒で……完璧じゃないんですけど、もう今しかないと思うので――いいですか」
今しかない、と思ったのだ。
ピアノの処分の前の。
伊咲さんが遠くへ行ってしまう前の。
今しか。
「そうなんだ……うん、いいよ。聴かせて」
小さく頷いた伊咲さんの了承をもって、俺は一度居間に戻り、鞄から楽譜を抜き出してピアノの前へ戻る。慣れた手つきでそれを開き、ピアノの譜面台に置く。
今日まで、一時期の空白はあったけれども、ほぼ毎日繰り返してきた動作だ。
「――『カノン』?」
楽譜の表紙に銘打たれた字を垣間見て、伊咲さんが小さく吐息するように言葉をもらす。
そう、『カノン』だ。
今、このとき、この瞬間のために、俺は練習してきた。
伊咲さんへ贈るため。
伊咲さんを送るため。
そして俺の中で、伊咲さんへの想いを繋げ、まとめ――終わらせるために。
蓋を開け、鍵盤を見る。
毎週のように見て、触れてきた鍵盤だ。黒鍵も白鍵も艶やかに、俺を照り返す。
そっと、指で触れた。
今ではよく知る手触り。
人差し指で、小さく、押す。
ハンマーがきつく張られた弦を叩き、鳴る。
ポーン、とピアノは答えてくれた。
ひとつ吐息する。
大丈夫だ、と俺は胸のうちで念じる。
伊咲さんはなにも言わない。言葉なく、ただ俺を見つめ、横に立っている。
さあ……これで、最後にしよう。
ふ、と小さく息を詰めた。
弾く。




