来客
もともと吹奏楽部である戸塚が音楽室を訪れることは、なにもおかしいことではないし、俺がここにいることより遥かに自然なことだ。けれど、今日は吹奏楽部は休みのはずだった。
忘れ物か、他に用でもあるのか、そう思ったのだが、音楽室に入ってきた戸塚はまっすぐに俺の弾くピアノの傍にまでやって来た。
驚いて見上げると、戸塚はあまり見たことのない表情をしていた。
瞳は小さく揺らいでいて、唇は横一文字に引き結ばれている。しかしそれ以外はフラットで、喜怒哀楽といった色はなにも見取れない。
ねえ、と戸塚は静かに言った。
「聴いてても、いいかな。邪魔にならないように、隅にいるから」
「え……ああ、まあ、うん」
なにを思ってそんなことを突然に言い出しているのかはわからないまま、俺は頷いて返す。別に、誰かに聴かれていても問題はない。むしろ聴いて、間違いがあれば正してくれるとなおいい。戸塚が言通りに音楽室の隅、適当に詰まれていた椅子をひとつ引き出してそれに腰掛けるのを見届けると、俺はまたピアノに向き直った。そこでふと、ピアノの黒光りする体に写った自分の顔が目にとまった。
疲れているなあ、と自分でも思う。具体的にどこがどうと言えるわけではないけれど、憔悴したような雰囲気があった。これでは確かに、俺の両親も心配するだろう。――けれど、今は、いい。
両の手指を握り、開く。筋を伸ばすように五指の腹を合わせ、押し合わせる。連日酷使しているせいか、最近になって痛みが目立つようになってきていた。特に左手の、小指から肘にかけてだ。使い慣れていない筋肉などを強引に動員しているせいで、無理が出てきているのだろう。――それも、今は、いい。
鍵盤に指を置く。
楽譜は最初の一頁。
通しで、弾く。
戸塚という聴き手をわずかに背に意識しながら、俺は深く一度呼吸を置いて、指先に力をこめた。
ポーン、とピアノが応じる。
ゆっくりと、始める『カノン』。自分でもありありとわかるほどに、わかってしまうほどに、まだまだ拙い。楽譜に書かれている指示記号が、音符に沿うことに必死になるあまり何度も何度も素通りしてしまう――けれどとにかく、弾く。
今はただ、最後まで立ち止まらないことだけを思い、進む。
いつしか時間も、場所も、戸塚のことも遠ざかり、見えるのは楽譜と、自分の手指と、モノクロの鍵盤。聴こえるのは自分の連ねる音と、呼吸、鼓動。
脳裏に思うのは、俺の大切な人。




