鳴らし続ける
翌日、学校に向かうと、戸塚が早くも話を通してくれたらしく、奇異の視線は浴びながらも吹奏楽部の間を抜け、音楽室の隅に置いてあるピアノを借りられることになった。休日や長期休暇中は、吹奏楽部はパートや楽器ごとに空いた教室に散っていて、最後に合奏練習をするまでは音楽室は思いのほか静かだった。これなら気兼ねなく練習できる。俺は楽譜を譜面台に置いた。
ピアノはグランドピアノ。伊咲さんの家に置いてあるものと、素人目だが恐らく同規格のものだ。多少の古さが目に付くものの、これなら本番と同じように弾けるだろう。
楽譜を開く。
何度となく目を通した譜面を、今までとはまるで違った覚悟をもって見る。
手指を全て、鍵盤に置く。
「――――」
弾き始めた。
指導者がいない状態で、どこまでの域で弾けるのか。間違いなく、大した演奏にはならないだろう。誰も感動させることのできない、独りよがりな音楽になるだろう。音楽と呼ぶのもおこがましいかもしれない。
けれど、それでもいいのだ。
伊咲さんへのお礼や、餞別の意味を多少含んでいるとしても……この行為は、決定的には俺自身のための、俺の自己満足に他ならないのだから。
俺の胸に空いた大きな空白を、埋めたいだけなのだから――
空虚。
暗く、黒く、深い洞のような、穴。
伊咲さんがいなくなるということを思うときに否応なく感じさせられる、空洞。
ともすればその黒に、俺の残る全ても吸い込まれてなくなってしまいそうな、そんな虚無感。
寂しさ、というにはきっと少し足りない。
絶望感、とするにはさすがに大げさすぎる。
そんな、どうしようもなさを埋め合わせたいがための、独りよがり。
きっと誰もが、大切な誰かとの別れに感じる喪失感――
大切な人。
伊咲さんは、俺にとってそれだけ大切な人。
憧れの人?
憧れとは、なんだった?
かつて抱き、そして解決したはずだった曖昧を、俺は再び胸に抱く。
伊咲さんは俺にとってただ憧れの対象であるだけなのか。
それとも――それとも?
曲調もゆっくりに、必死で俺は譜面を追う。
間違えればやり直す。何度だって、繰り返す。
ひたすら反復練習を続けるしかないのだ。
粗削りでいい。弾き切ってみせる。それだけなのだから。
両手を同時に鳴らすことはまだまだ難しい。だからまずは利き手だけで、次に左手で。それぞれができるようになったら合わせる。それもできたら次へ行く。
その繰り返し。
視線は譜面を追い、鍵盤を見据え、指先は鍵盤を叩き、鳴り連なる音を聴く。
没頭はいつしか無心となり、やがてその空白に、またあの疑念が滑り込んでくる。
伊咲さんは、俺にとってどんな人なんだ?
以前同じ思いを抱いたときに、答えをくれたのは戸塚だった。
それは、憧れなのだと。
決して――好意ではないのだと。
その言葉に俺は納得して、安心した。
落ち着いた。
けれど今、本当にそうなのだろうかという思いに囚われている。
本当に憧れなのか、それだけなのか――と。
そもそも、そういう疑念を抱くということは、俺がその答えに納得していない、ということだ。
一度は確かに呑み込めたはずなのに。
今になって、拒絶したということだ。
違う、と。
この思いは憧れではない。それだけではない、と。
けれど、ならば一体なんなのか。
その答えは、きっと――自分で見つけなければならないのだろう。
トン、と深く鍵盤を押し込む。
ハンマーが固く張られた弦を叩く。
俺は音を鳴らした。
鳴らし続けた。




