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6話 京の情勢  改

ハイペリアン乗組員


坂本リョウマ 副司令 日系アジア人 28歳 男性 中佐 戦略参謀 陸海の軍事作戦担当 


西郷たかお     日系アジア人 28歳 男性 中佐 内政参謀 内政全般担当


大久保トシオ    日系アジア人 28歳 男性 中佐 外務参謀 外交担当


勝りん太郎     日系アジア人 25歳 男性 少佐 海軍参謀 


乾タイスケ     日系アジア人 25歳 男性 少佐 陸軍参謀


福沢ゆー吉     日系アジア人 25歳 男性 少佐 財務参謀  財政全般


ヘレン ダルク   フランス人  25歳 女性 少佐 医療参謀  医療技術向上、


服部ハンゾウ    日系アジア人 25歳 男性 少佐 警察参謀 


                          公安、情報捜査、隠密捜査


杉原 ねね     日系アジア人 20歳 女性 大尉 医療副参謀 教育全般 

 1492年8月

 戦艦ハイペリアン 司令室


 作戦会議


 幸太郎は服部中佐に顔を向けて

「京の情勢はどうかな?」

 服部中佐

「はい、応仁の乱の後、明応の政変が来年起きる予定で、

 ますます幕府は弱体化し、

 守護大名の細川政元の権力が強くなるでしょう。

 朝廷も現在、第103代後土御門天皇ですが、財政は、破産状態で、

 公家も困窮極めております。」


 幸太郎

「よし、了解したよ!

 我が国は、幕府は無視して、朝廷に秘密裏に近づいて資金援助し、

 朝廷を護衛する事にしよう。

 一呼吸おいて、

 いずれは、日本を、天皇を中心とする中央集権国家に移行し、

 蝦夷国と日本を中心とし、

 地球連邦を作り、地球の平和を実現すれば、我々の目的も達成できるかな!」


 服部中佐

「は! すでに、橘屋の名で、帝の側近の公家衆には

 金銭、食料等の援助をしており、

 ほとんどの公家衆は、我が国の味方になりましたが、

 一分の敵対勢力の公家には、家族全員、記憶操作により、

 蝦夷国の教員としての新たな記憶を植え付けて、

 領民に読み書きを教える予定で、

 今は、札幌港内の教育施設で訓練中です。」


 現在の蝦夷国の人材不足は深刻で、蝦夷地、ハワイ、琉球、

 と教育水準をあげるため、人材確保が、急務になっていた。


 そして、

 当時の公家、神官、僧侶階級は、庶民に比べて、教育や、

 芸術レベルは高かった。

 そこで、敵対する公家、神官、僧侶を一網打尽に

 捕まえる計画を立てる。


 まず、

 服部中佐率いるアンドロイド情報員達に、京から地方へ

 避難していた公家達を

 調査し、敵対する可能性のある人達を捉えてハイペリオンに転送し、

 記憶操作マシーンで、教育者に記憶転向させ、蝦夷地へ配属した。

 尚、特に語学能力の高い者には、外国語を学ばせて、

 語学教師として、ハワイに配属し、

 原住民に日本語を教える事にした。


 神官達には、天皇の勅諭を持って、

 派遣の協力をしてくれた神社には、神社の修復と

 金銭の援助を行う事を伝えると、

 喜んで協力してくれた。



 服部中佐の報告を受けて、幸太郎は、

 外務参謀の大久保中佐を派遣して、天皇の側近の

 持明院じみょういん 基規もとのり

 勧修寺かじゅうじ 政顕まさあき

 甘露寺かんろじ 元長もとなが

 冷泉れいぜい 為広ためひろ

 中山なかやま 宣親のぶちか、と交渉して、

 日蝦夷通商条約を締結した。


 内容は

 ①蝦夷国及び橘屋は、免税特権を得る事、但し、

 天皇集権体制が完成するまでは、

 各港への税金を免除する旨を、天皇の勅諭とする事。


 実際には、朝廷のお墨付きとして、

 信用を得られれば良しとする。


 ②御所の建替え費用を援助と、周辺道路の整備をする。


 御所の建設には、ハイペリオンで作ったプレハブ構造の部品を、

 現地で組み立てるだけなので、アンドロイドを使って、

 3日で再建させた。

 表面は木目調の耐熱素材で骨格は強化ミスリル鉱を使用する。

 これで、戦乱に巻き込まれても大丈夫である。


 道路は、コンクリートで幅30mとして、装甲車、

 戦車が通れるものとした。

 人足の募集は、天皇の詔勅しょうちょくとして、

 米を配布する事にすると、すぐに2000人程の人々が集まった。


 栄養失調の人たちが多いため、配給は日払いにし、

 朝食と昼食を提供する事にした。

 すると、それを聞きつけた飢餓状態の人々が、

 3000人程集まってきたので、

 天皇の詔勅として、炊き出しを行った。

 同時に、5000人が暮らせる難民キャンプ用のテントを設営した。

 集まった人々は、御所に向かって、毎朝、拝むようになったのは、

 これが、きっかけであり、朝の拝礼が今後数百年続く事に

 なるのであった。


 ③御所の防衛の為、天皇直属の近衛兵を創設し、

 御所の警護をする。


 当初は、戦闘用アンドロイド30人で警護するが、

 浪人の武士を募集し、訓練させる事にする。


 敦賀港で、もがみ型護衛艦から上陸させた5輌の

 96式装輪装甲車に、50人の戦闘用アンドロイドを乗せて、

 陸路で御所まで輸送した。


挿絵(By みてみん)


 この96式装輪装甲車は、2020年 自衛隊のコピー車両である。

 装甲 強化ミスリル鋼

 主武装96式40mm自動てき弾銃、12.7mm重機関銃M2

 機動力速度100km/h

 乗員数 10名


 応募してきた武士は300人程で、忠義に熱い者を100人選抜し、

 小樽港の訓練所に送り、軍事教育を行う。

 半年後、近衛兵として、御所に配属され、名を新選組とした。

 新選組は、、兜、甲冑、刀の鞘を赤で統一されており、

 赤備えと呼ばれた。


挿絵(By みてみん)



 この条約は、足利幕府の将軍、足利あしかが 義稙よしたねと 

 権力者の守護大名、細川政元ほそかわまさもとに知られない様、

 慎重を期して行われた。

 しかし、御所の建設が始まると、

 将軍家や細川家の使者が、やって来て、

 橘屋の事を、根掘り葉掘り探って来たのである。


挿絵(By みてみん)


 クララ(アンドロイド秘書)が司令室に入ってきた。


「総司令、大久保中佐からの通信です。

 天皇陛下の側近、持明院殿より、後土御門天皇陛下が、

 閣下との謁見を望まれております」


 幸太郎はわずかに目を細め、微笑を浮かべた。


「うん、わかった。陛下にお目通り願おう。」


 数日後――


 御所の再建も完了し、京の護衛所から直接転送された幸太郎は、

 ついに後土御門天皇と対面していた。


 天皇は、穏やかな眼差しで幸太郎を迎えた。


「橘殿……そなたの先祖は、朕と同じく公家の家筋と聞いておる。

 このたびの多大な援助、心より感謝するぞ。

 御所も、かくも立派になり、都人も驚いておる」


 天皇はふと、憂いを帯びた表情に変わった。


「ただ一つ、気がかりなのは、京で広まりつつある疫病(麻疹)じゃ……

 我が子・勝人親王の健康が何よりも心配でのう」


 幸太郎は静かに膝を正し、丁重に進言した。


「陛下、もしお許し頂けるのであれば、静養を兼ね、

 陛下と親王殿下を

 蝦夷国にてお迎えしたく存じます。

 風土も清らかでございますし、見聞を広げていただくことは、

 天皇家にとっても有益と存じます。

 手配等は、我が部下・大久保中佐と、持明院殿に一任しておりますゆえ、

 どうぞご安心くださいませ」


 天皇はしばし考え、やがてふわりと笑みを浮かべた。


「そうか……そなたに任せれば、朕も安心じゃ。

 生涯最初で最後の旅、悪くないのう」


 8月下旬――御所再建完了と旅立ち

 御所の再建工事と、周辺の道路拡張も予定通り完了。

 天皇と親王の身代わりとして活動する影武者用アンドロイドが手配され、

 後土御門天皇と勝人親王は、極秘裏に都を発った。


 一行は、96式装輪装甲車にて陸路を北上し、敦賀港へ到着。

 そこで待ち受けていたのは、もがみ型護衛艦。

 現代兵器によって守られた艦隊は、静かに日本海を北上し、

 小樽港へと入港した。


 天皇と親王は、初めての地・蝦夷にて、かつて誰も

 経験したことのない「未来文化」との邂逅を楽しむことになる。


 その一方で――


 京に残された影武者の天皇は、再び政務を再開。

 次々に都へ戻ってくる公家衆との面会に追われ、

 繁忙な日々を送ることとなった。

第103代天皇は、後土御門天皇です。

1442年生まれ、1500年に亡く、応仁の乱が起き、寺社や公卿の館は焼け、

朝廷の財源は枯渇して朝廷は衰微、当時の京で流行していた,麻疹はしか

に罹った模様です。

勝人親王は、後の後柏原天皇です。

第104代天皇の後柏原天皇は、1500年に37歳で践祚せんそしましたが、

応仁の乱(1467~77年)の影響で皇室財政が困窮しており、

即位式は、22年後の1521年に本願寺第9代光兼らの献金によって実施されました。

財政難で廃絶した朝廷の儀式の復興に力を入れる反面、

戦乱や疾病に苦しむ民を思い続けたと言われている。。

仏教に帰依し、大永5年(1525年)の疱瘡大流行時には自ら筆をとって「般若心経」を延暦寺と仁和寺に奉納した。

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