断(だん)
いつの世も、月の輝きが失われることがないのだろう。万人の上で煌々と白く都を照らすのだ。誰が死のうと生きようと、喜ぼうとも泣いて喚こうとも、永遠に月は満ち欠けを繰り返す。
つまり、人は過ぎ行くだけのこと。人の感情の軋みなど、すべては海原や神さびた山々の奥深くに沈みゆくだけ。
今を凌げば何もかもが風にさらわれていくから、と誰が人に言えようか。刃で貫かれるようなこの刹那を堪え忍ぶのも、人には難しいことだというのに。
女は月が恨めしい。月のようにどの女にも優しい男が憎い。この男を手に入れられぬことを歯痒く思う己はもっと憎らしい。
女は月のごとき男に抱かれてうつらうつらと微睡んでいた。何処からか差し込む月明かりが目蓋を眩しくさせる。動けば男の腕が緩やかに女を締めつける。その暖かさに、男の広い胸に頭を擦り付けたくなった。
しかし、女はふいに寝返りをうって、男と向かい合う。静かに寝息を立てている男は、稚い子どもの顔をして、幸福に満たされているように見える。
女は男の名前をそっと囁き、その整った造作をした面に指を伸ばす。
「みや」
男の薄い唇から冷たい言霊が零れ落ちた。
女はたまらなかった。目頭が熱くなり、ぽたりぽたりと褥に玉の涙が染みていく。夜着からちらりと見えた肌に額を擦り付け、女の方からむしゃぶりつくように身を寄せた。
すべてを忘れてしまいたくて、女はただただ眠りに落ちていった。
気づけば、女は己の邸の前に立っている。天の羽衣をまとっているかのごとく、躰の重さを感じぬ。つま先が確かに地につく前に、ふわりと浮いているような心地すらする。
女は蝶であった。気ままに、美しく羽を羽ばたかせている。
誰もいない都の路を、女はそぞろ歩いた。奇妙なものだ、さすがに夜とは言えど、ここまで誰もいないものか。女はおかしくなってきて、くすくすと笑った。
ふと、女の眼前に陽炎のように知った背中が立ち現われる。愛する男のものだ。
女は彷徨うのをやめた。男の後ろを漂っていく。
男は迷いのない歩調で明らかに何処かを目指している。そして、浮き足立ってもいる。
初めは興味本位でついていく女だが、にわかに不安になってきた。
この先には、嫌なものがある。見たくもない光景がある。女の心はすでに知っていた。
男が入ったのは、小さな邸である。女は止められなかった。
気づけば、門の内に至っていた。誰もいない。男も姿を消していた。
ああ、いけない。女は呻く。知りたくないものは、ここにあった。
女の拒絶も、躰が言うことを聞かぬ。女の足先がとっ、と邸へ入る段へとかけられる。
そのままするすると急に重くなった衣を引きずりながら、内に入る。
そこには一人の女が横臥していた。烏の濡れ羽色の黒髪、白い顔、あどけなく赤い唇、整った小作りの面。なよやかな肢体は衣の下に隠されていたが、きっと抱き心地がよいのだ。女などよりも、はるかに神がかっている。これは神の血ゆえの美貌なのであろう。子々孫々と受け継がれてきたものが、この華奢な躰に詰まっている。それはきっと、どのような男でも魅了する。
「ああ、憎らしや」
女の声が怨嗟を帯びる。
「貴き者が何だという。それだけのことでなぜ獲られればならぬ」
女の髪が逆だっていく。唇も目も釣り上がり、悪鬼の如き表情を浮かべた。歯を剥き出しにして、もう一人の女に吼えるのだ。
「嫌じゃ、嫌じゃ。いっそ」
気づけば、女は馬乗りになって、その鶴のように細き首に手をかけていた。恐ろしい力できりきりと締め付けていく。
女は夢中であった。こうせねばなるまい、こうせねばなるまい、と己の耳元の声に振り回されている。
女の嫌なことは、横臥する女であったのだ。この上もなく憎らしい女。男の心を惑わす魔を持つ女だ。
人形のごとく四肢を投げ出していた眼前の女がぽっかりと目を開けている。雷のような苛烈な瞳が女を捉えている。
「去ね」
女はひゅっと息を詰まらせた。正体のわからぬ物に身を竦ませた。
面に浮かぶものを何と言い表せばよいのだろう。気の遠くなるほどの遥か昔から世の中に漂ったもの、人が畏敬を覚える大きな何かがまるごと小さく押し込められているのである。目と目が交錯した一寸に、そういったものが襲いかかってきた。女が恐れたのは、そのためであった。
相手は視線を逸らさず、言い聞かせるように、
「あれは妾の持ち物よ。一夜ならばいざ知らず、他はやれぬ。妾の退屈を埋められるのは、あの男だけなのでな」
美しい目元が緩んでいく。大輪の花が綻ぶさまを目の当たりにした女は、両手をぱたりと力なく床に下ろしていた。
溢るるは、涙ばかり。きっと女は、目の前にいるこの女よりも、かの男を想ってはいないのだろう。
たとえこのような浅ましい物の怪の姿になりても、輝くばかりの肢体から迸る、清浄な気には敵うまい。
ああ、やはり。女は内心で呻くのだ。
かの人の一の女は美しかった、と。