第1話「辺境の豪華なベッドと、寝たきり御曹司の優雅な退屈」
世界には、二種類の「動けない人間」がいる。
一つは、貧困や抑圧によって動けない者。
もう一つは、あまりにも多くを持ちすぎて動けない者。
俺は、間違いなく後者だった。
「ユメジ様、本日のご朝食でございます。アルバ山脈産の朝摘みハーブを使ったフリッタータと、エルフの森から取り寄せたブルーベリーのコンフィチュール添えのブリオッシュ、それから大陸最高峰の商会が独占販売する幻のブルーマウンテン産コーヒー……」
「マリア。毎朝思うんだけど」
「はい」
「その料理の説明、長すぎない?」
俺の言葉に、純白のエプロンドレスをぴしりと着こなした黒髪のメイド——マリア・ルーシェル、二十二歳は、微塵も表情を崩さずに答えた。
「ユメジ様のお食事は、大陸最高峰の食材のみを使用した、世界最高水準の料理でございます。その価値を正確に認識していただくためには、最低でも三十秒の説明が必要と判断しております」
「いや、美味しいのはわかってるけど……」
「ではご説明を続けます。本日のコーヒーは、昨日の夕方にアストラル商会エリダヌス支部から特急便で届いたもので、豆の選別から焙煎まで……」
「食べます。食べますから黙って」
「承りました」
マリアは、ほんのわずか……本当に、ほんの一ミリ程度……口の端を上げて、トレイを俺のベッドサイドテーブルに置いた。
俺の名前は、ユメジ・アストラル。
年齢、十四歳。
アストラル大商会:大陸の流通の三割を支配し、七つの王国すべてに取引口座を持ち、魔族領との密貿易すら合法的にこなし、「金の流れを支配する者が世界を支配する」という格言を体現した大経済帝国の末っ子御曹司である。
そして現在、俺はカルティア辺境伯領の奥地に建てられた豪華な別荘の、天蓋付きキングサイズベッドの上で、朝食のブリオッシュをもぐもぐと咀嚼しながら、窓の外の澄んだ青空を眺めていた。
「きれいだな、空」
「はい。本日のカルティア辺境は快晴、気温は二十一度、湿度は四十二パーセントです。空気の質は今年最高値を記録しており、ユメジ様のご体調にとっても理想的な環境でございます」
「よかった」
俺はそう言って、コーヒーカップを両手で包んだ。
香りが、じんわりと鼻腔をくすぐる。
本当に美味い。材料がいいのか、マリアの腕がいいのか、おそらく両方だろう。
でも。
俺はこれ以上、自分の足で何もできない。
ベッドから起き上がることはできる。短距離なら歩くこともできる。ただし——少しでも動きすぎると、体の内側から何かが爆発しそうな激痛が走る。医者には「絶対安静」と言われている。この別荘に移されて、もう三年が経った。
原因は、俺の体に宿った「星辰魔力過多症」という病気だ。
簡単に言うと、俺の体には、世界樹規模の莫大な魔力が宿っている。
常人の魔力が「コップ一杯の水」だとすれば、俺の魔力は「太平洋」くらいの規模だ。
普通、魔力が多いのはいいことだ。強力な魔法が使えるし、身体強化にも使える。でも、俺の場合は「多すぎる」。器に対して水が多すぎて、動くたびに器——つまり肉体——が内側から圧力で軋む。
だから、俺は動けない。
動けば死ぬかもしれない。少なくとも、ひどい激痛が走る。
そういう宿命を背負って、俺はこの辺境の豪華な別荘で、毎日毎日——退屈していた。
「マリア、今日の予定は?」
「午前中は父上様からのお手紙の確認、商会の週次報告書のご精読、それからエリダヌス魔道師ギルドの新規素材カタログのご確認です。午後は——」
「休憩?」
「ドワーフ職人組合との取引条件の改定案をご一読いただいた後、就寝となります」
「書類仕事しかないじゃないか」
「ユメジ様ができるお仕事は、書類仕事でございます」
論理的に正しいし、何も間違っていないのだが、こうも毎回バッサリ言わなくていいのではないかとは思う。
俺はため息をついて、コーヒーの最後の一口を飲み干した。
前世……そう、俺には前世の記憶がある。では、こんな生活とは無縁だった。
俺の前世は、現代日本のVRMMO開発会社に勤めるエンジニアだった。チーフ開発担当兼ゲームマスター(GM)。プレイヤーのクレームに対応しながら、新しいコンテンツを設計し、バグを潰し、徹夜でサーバーメンテナンスをして、また翌朝から働く——そういう生活を送っていた。
死因は、過労死だったと思う。
ある日、オフィスの椅子でモニターを眺めながら意識を失い、気づいたらこの世界の赤ちゃんになっていた。
転生。まあ、そういうこともある。
この世界では魔法も魔物も実在して、七つの王国と魔族領が複雑な政治的均衡の上に成り立っている。アストラル商会はその均衡の外側——どの国にも属さず、どの国にも必要とされる経済的中立機関——として君臨している。
俺はその末っ子に生まれた。
上には兄が三人、姉が二人いる。みんな優秀で健康で、それぞれ商会の要職や外交の場で活躍している。
末っ子の俺だけが、こうして辺境の別荘でベッドに縛り付けられている。
まあ、でも。
俺は、そこまで不満ではなかった。
贅沢な食事はある。本もある。書類仕事という名の「世界経済の現状レポート」を毎日読めるし、前世の知識を活かして商会の父に時々アドバイスを手紙で送ると、驚くほど喜ばれる。
何より夜がある。
夜になれば、俺には「遊び場」がある。
▽ ▽ ▽
その日の午後、すべての書類仕事を片付けた俺は、マリアにシーツを整えてもらいながら早めの就寝準備をした。
「ユメジ様、本日は少々お早い就寝ではないでしょうか」
「うん。なんか眠い」
「ご無理はなさらないでください」
マリアの声に、珍しく心配の色が滲んだ。
俺は軽く笑って、天蓋の内側を見上げた。
「大丈夫だよ。俺、寝るのだけは得意だから」
「そうでございますか。では、おやすみなさいませ、ユメジ様」
「おやすみ、マリア」
薄絹のカーテンが引かれ、部屋が薄暗くなった。
窓の外では、夕暮れが空を赤く染めている。
俺は目を閉じた。
呼吸を整える。
膨大な魔力が体の内側でざわめくのを感じながら、少しずつ、少しずつ、それを「夢の方向」へと流し込んでいく。
これが、俺の唯一の「運動」だ。
体を動かすことはできない。でも、魔力を夢の世界に流し込むことはできる。
それどころか、大量に流し込めば流し込むほど、夢の世界は豊かになる。
【夢幻創造、発動】
意識が、沈んでいく。
深く。
もっと深く。
そして……
▽ ▽ ▽
目を開けた。
俺はいつもの場所に立っていた。
石畳の小道。
瀟洒な木造の建物。
温かい光が窓からこぼれる、小さな喫茶店。
ドアの上には、俺が自分で作った看板が掛かっている。
『夢喫茶 アストラル』
俺は深呼吸した。
夢の中の空気は、現実とは違う。なんというか——もっと密度が高い。色が鮮やかで、音が澄んでいて、体が軽い。
そして何より……
「よし。今日は新しいメニューでも考えようか」
ここでは、俺は自由だった。




