1話
どんよりとした朝だった。
窓の外は、分厚い雲が空を覆い隠し、雨が絶え間なく降り続いている。
柊柚月は、静かにベッドから起き上がり、制服に着替えると、階段を下りた。
リビングは、重たく湿った空気に包まれている。
柚月は黙って食卓についた。
お母さんが作ってくれた朝食だけが、彩りがあって温かい。
それなのに、おばあちゃんもお父さんも俯いたままで、誰も手をつけようとしない。
お母さんが静かに尋ねた。
「食べないのですか?」
お父さんは顔を上げて、お母さんを苛立った目で睨みつけた。
「お前が朝っぱらから、しょうもない話をするから俺も母さんも食べる気がしなくなったんだ」
お父さんの言葉に、おばあちゃんがすぐに便乗する。
「そうよ。何も今、言わなくても良いじゃない。気分悪くなっちゃったわ」
お母さんの冷たい視線が、おばあちゃんを一瞥した後、次はお父さんに突き刺さった。
「そうですか? でも、貴方が浮気をしていたのは事実でしょう。しかも柚月が生まれる前から、ずっと」
柚月の箸を持つ手が止まった。
こういう時は喉が詰まって、食べ物が一切通らなくなる。
お父さんが柚月の様子に気がつき、不快そうに顔を歪めた。
「柚月の前で、そういう話するのやめろ。変な勘違いするだろ」
「勘違い? 一体、何を勘違いするというのですか? 貴方が浮気をしていたのは本当のことですよね?」
お母さんの声は妙に冷静で的確だった。
「あのな、その件はもう謝ったし済んだことだろ。彼女とはもう会っていない。いつまでもネチネチ言うなよ」
お父さんは乱暴に席を立つと、カバンを鷲掴みにして家を出ていった。
「……雅彦が可哀想だわ」
おばあちゃんがぽつりと零すと、お母さんは鼻で笑った。
「義母様、どこが可哀想なのですか? 私と柚月を十二年も裏切っておいて、口先だけでの謝罪で許されると思っているのですか?」
お母さんからの問い詰めに、おばあちゃんはめんどくさそうにため息をついて、自室へと引きこもってしまった。
いつも、こんな感じだ。
柚月は何とか朝食を飲み込むと、傘を手に学校へ向かった。
私立、星乃小学校。
柚月は傘を差しながら、校門をくぐった。
六年二組の教室へ入り、窓際の席につく。
カバンからタブレットを取り出していると、軽やかな足音が近づいてきた。
近藤 茜は、薄紅色のツインテールを弾ませながら、柚月の席の前に来た。
「柚月ちゃん、おはよ!」
茜の笑顔は、雨雲の間から差し込む光のように眩しかった。
「……おはよう」
柚月が小さく返すと、茜は視線を泳がせ、何か話題を探した。
やがて、柚月のカバンに吊り下がっている黒猫のぬいぐるみに目が止まる。
「あ! それすごくかわいい! 柚月ちゃん、猫好きなの? 私も大好き!」
柚月はカバンに下がる黒猫を指で軽く押さえた。
「うん。……お母さんが作ってくれたの」
「へぇー、すごい! 良いなぁ! じゃあ、猫飼ってるの?」
茜の問いに、柚月は首を横に振った。
「ううん。お父さんが猫アレルギーだから」
「あー……それはしょうがないよねぇ」
茜は残念そうに眉を下げて、肩を落とした。
嘘だった。
本当は、猫を飼っていた。
名前はノア。
このぬいぐるみにそっくりの、小さくて人懐っこい黒猫だった。
でも、大人になる前に死んでしまった。
そのことを訊かれるのが嫌で、柚月はどうしても言えなかった。
チャイムが鳴って、先生が入ってくる。
茜は「またね」と明るく言って、席に戻っていった。
昨日が始業式だったので、今日の授業は午後二時に終わった。
柚月は家に帰る準備をしていると、茜がカバンを持って近寄ってきた。
「柚月ちゃん! よかったら一緒に帰らない?」
柚月はわずかに眉を寄せた。
茜が自分に話しかけてくるようになったのは、昨日の始業式の時からだ。
これまでお父さんの仕事の都合で転校を繰り返してきた柚月にとって、こんな風に誘ってくれる人は初めてだった。
こういう時、どう接すれば良いのかわからない。
柚月は言葉に詰まり、ただ頷いた。




