ワンスアイヤー 2012
Yes-Yes-Yes: 君が思うよりきっと僕は君が好きで でもいつも君はそんな顔して
私のソウル生活も3年めを迎えた。最初はほとんど知り合いができなかったが、昨年から韓国政府が運営する外国人向けの語学教室に通い始めたところ、同じ駐在員の日本人妻と何人か知り合いになった。
そこからは早かった。その友人を通じて新たな友人と知り合い、その輪がどんどん広がっていく。今では私の家に仲間を集めてヨガ教室を開くまでになった。
また細々と続けていたブログが韓国の観光協会から「パワーブロガー」に認定され、無料の旅行やイベントに招待されるようになる。感想をブログやFacebookに載せ、口コミ効果を狙っているのだ。ここでも活動の輪が広がり、大勢の日本人と知り合いになった。こうなるとソウル生活が俄然楽しくなってくる。
日本には引き続きひと月かひと月半に一度の割合で帰国し、彼に会ってはいた。しかし正直な話し、彼への対応が少しおざなりになっていたのは否めない。その間に彼は着々と自分の目標に向かって努力を続けていた。
まずTOEICのスコアを目標を上回る930点に到達させたのだ。当初の予定よりも半年ほど遅れたとは言え、相当集中して勉強したと思われる。
そしてもう一つの偉業は、大学院に合格したことだ。こちらも当初の予定よりも1年遅れ、そして横浜国立大学ではなく、首都大学東京に合格した。彼はもともと高校卒業後しばらく社会人として働いた後に大学に入りなおした努力の人だ。それが40歳を過ぎて、目標であった大学院に進学したのだ。
去年、もし9月までにTOEICの点数が900を超え、横浜国立大学に受かったら結婚してと、不思議な提案をした彼だが、本来の約束よりもタイミングがずれたことは、私にとっては都合が良かった。充実したソウル生活が止めずに続けていられる。彼のことももちろん大切だったが、この頃には私はソウルでの刺激的な生活や、ブログの更新に1日の大半を費やしていた。
せっかく目的を達成したのに、申し訳ないな・・・と思いつつ、やはりすべてを捨てて、今の生活を変えることができなかった。その代わりに引き続き彼のためになることは何でもやろうと都合よく思っていた。
彼は今も奥さんと別居婚が続いていた。夏には両親と一緒にカナダ旅行に行った私が帰国する日に、1年ぶりに奥さんに会いに行く彼が日程を合わせてくれて、一緒に空港から彼の家にバスで戻ってくることもできた。久しぶりに会い、リムジンバスの中という特殊な状況下で、ほかの乗客に見られないよう、一番後ろの席を陣取り、キスをし、手を固くつなぎながら横浜に移動したのも良い思い出だ。
彼は仕事の方も順調のようだった。転職した会社ではこれまでとは全く違う業種ながら、すでに成績を残し、セミナーなども任されていた。そして去年のクリスマスには全社員が参加する忘年会のプロジェクトの責任者になり、大きなパーティーを仕切ったそうだ。プロジェクトメンバーと一緒に余興で「マル・マル・モリ・モリ」を踊っている写真を見せてもらった。普段はこういうことを絶対しないタイプなのに、一生懸命踊っている姿を見て、新しい環境で頑張っている彼が不憫のような、かわいいような、不思議な気持ちにさせられた。
彼のアパートにもすっかり慣れた。駅から徒歩1分という立地で、帰国した時には我が家と彼の家を行ったり来たりしている。ソウルの家がメインで、帰国すれば自分のマンション、そして時々彼の家・・・という浮草のような状態だった。時折目覚めると自分がどこにいるのかわからなくなることもあるほどだ。
そんなある日、彼のアパートで泊まった日の早朝にインターホンが鳴った。時間は朝の5時。モニターに映っていたのは長い髪の女性だった。何が起こったかわからなかった。彼は熟睡している。
「どうしよう・・・」と思った瞬間、2度目のインターホンが鳴る。心臓が止まるかと思った。
彼を揺り起こし、だれか来ているよと告げると、一気に目覚めた彼が脱兎のごとく、飛び出していった。彼の部屋がある4階から、1階のエントランスまで行ったのだろう。しばらく彼は戻って来なかった。
私はこういう時、どうしたらいいのか?怒ればいいのか?それとも何事もなかったかのようにふるまえばいいのか?
彼が彼女を連れて戻ってくることを想定し、布団を片付け、散らかっていた部屋を軽く整理して、ほぼ裸だったのでとりあえずTシャツを着た。
ところが彼は一人で戻ってきた。手にはコンビニエンスストアの袋を携えている。そして開口一番「ちゃうねん!」と絞り出すように叫んだ。
なにが「ちゃうねん」なのかわからないが、私はここで彼を抱きしめ「いいんだよ」と言った。なにが「いいんだよ」なのかもわからないが・・・。
彼女は同じ忘年会プロジェクトの仲間で、マンションの入り口で対応し、帰ってもらったらしい。手に持っていたコンビニの袋は彼女が持ってきたもので、中にはパンとヨーグルトが二人分入っていた。
彼は明らかに彼女に対して怒っていた。なぜよりによって今日、それも私がいる時にやって来るのかと。
私は不思議と落ち着いていた。彼が過去に彼女と何かあったとは、彼の様子を見ると考えられなかったからだ。彼はこんなことで嘘をつくような人ではないのは、長い付き合いで誰よりも知っている自信もある。
それより私は申し訳なかった。私が今日ここにいなかったら、彼は新しい恋を見つけることができたかもしれない。少なくとも独身で、彼のことだけを思い、同じ職場で、彼の近くにいてあげられる人だったことは確かだ。それなのに私がいたがばっかりに、彼は貴重なチャンスを失ってしまったのだ。
すっかり目が覚めてしまった私は、彼女が持ってきてくれたパンとヨーグルトを平らげた。それは私がよく買うパンだった。そんな私を彼は訝しげに見ていた。
私は半分面白がっていたのだ。こんなドラマのようなことが自分に起こるとは・・・。この日の出来事を多分私は一生忘れないと思う。そしてこんな風に余裕でいられるのは、彼が「私を選んでくれた」という事実があるからだ。これまで何年も彼の奥さんや、空手の稽古などを優先してきた彼が、この時は明確に私を最優先にしてくれた。私が思っているよりもずっと彼が私のことを思っていてくれたことを実感できた。
朝から悪夢のような経験をしたと、すっかりしょげている彼を元気づけながら、モニターに映し出された彼女の顔を思い出していた。長い髪がまるで貞子のようだった。
彼女は私だ。
彼のことを思い、たまらなくなって会いに来たのだ。実際一緒にプロジェクトを遂行したのは半年以上前の事なのに、彼女はそれからずっと彼のことを慕っていたのだろう。そう思うと心から申し訳なく思う。彼女が買ってきたパンは私の大好きなもので、自分でもよく買うものだった。きっと男性の好みも一緒なのだろう。何人もいる同僚の中で、彼の良さを見つけ出し、そして半年以上も思ってくれていた彼女のことを、私は親しい友人のように感じ始めていた。
彼のことが好きだ。誰にも渡したくない。でも彼に幸せになってほしい。自分では彼を幸せにできないのに、彼女の邪魔を結果的にしてしまった私。彼にも申し訳ないと思うと同時に、彼女にも私がいてごめんなさいと心の中で謝った。




