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とりあえず、明日から

 千倉はしばし呆然としてその扉を眺めていた。やがて、深呼吸すると、黒須を担いでとりあえず歩き出した。歩きながら、何故だか涙がこぼれた。どうしてだろう? 思いながら、黒須を支えてるからそれを拭く事もできずに、ただそれを垂れ流して歩いていた。

 「……千倉、何で濡れてんの?」

 不意に耳元で声が聞こえて、千倉は黒須が目を醒ました事を知った。ず、と鼻を吸い上げて、なんとか普通の声を出す。少し鼻声になってしまったけど。

 「黒須君を助け出すために炎に飛び込むから、まず先に池に飛び込んだんだよ」

 「マジ? すっげ。カッコイイ」

 「池の鯉が驚いてたよ」

 「可哀相に」

 ぱちぱちと、炎が燃える音は塀沿いを歩いているから聞こえてくる。きっと黒須にも炎は見えるだろう。

 「千倉、俺の事担いであそこから出てきたの?」

 「うん。炎の中に飛び込むのとか、初体験」

 「勇敢だなあ。助けられた立場じゃなかったら怒ってたよ。危ない事すんなって」

 「またまたそんな女の子扱いしないくせに」

 「女っていうか、人として……」

 「自分だってあの炎の中で決闘してたくせに」

 「それを言われると返す言葉はないんですが」

 「ところで黒須君、そんだけ喋れるなら自分で歩きませんか? 重いんですけど」

 「まあまあ。トレーニングトレーニング」

 「えー……」

 でも、喋っている割に黒須の手や足は本当に力なくだらんとしていて、力が入らないのは事実かもしれないと思って千倉はおとなしくそのまま担ぎ続ける。

 「……千倉、ごめんな」

 唐突に黒須が言うので、千倉は「何を?」と素で聞き返す。

 「恐い思いしたろ」

 「したけど。殊勝な黒須君気持ち悪い」

 「なんと!」

 だって、と千倉は言う。

 「黒須君は私の何倍も恐い思いをして、何倍も辛い思いをしたんでしょ? 痛み分け」

 「意味違くね?」

 「そうなの?」

 「千倉はとうとう国語まで」

 「黒須君、今黒須君の安否は私にかかっていると言う事をお忘れなく」

 「うわ。すいません千倉様」

 「よろしい」

 黒須の口調はいつもと同じように聞こえる。でも、どこか違和感があった。無理矢理そうしようと、演技しているように千倉には聞こえた。黒須にとっては、あの人は兄なのだ。思うところはきっと色々あるはず。それでも、黒須は千倉にそれを悟らせないように、いつものように話すから、千倉はそれに合わせたのだけど。

 少し黙って歩いていたら、無意識にだろう、はあ、と黒須が息を吐いたのが千倉の首筋にかかった。それに悪意はもちろんなかったのだろうけれど、千倉は背筋がぞぞ、として思わず首をすくめる。

 「うひゃあ。やめてよちょっと。くすぐったい」

 「え? あ、ごめん。無意識」

 黒須もちょっと焦ったような声を出す。

 「もう黒須君邪魔だから寝てれば? 重いし余計な事するし」

 「なんか扱い酷くなってきた」

 黒須は情けなさそうに言う。

 「血さえ吸えば回復すんだけどなあ」

 「え? そうなの?」

 「そうだよ。単に失血で動けないだけだから」

 「じゃあ、とりあえず私の血、飲めばいいのに」

 千倉の言葉に黒須は動揺する。

 「え? いやそれは」

 「不味そうすぎて嫌?」

 「いやいや滅相もない。……や、でも、いいの?」

 「吸い殺されるとかじゃなきゃいいよ。別に。減るもんじゃないし」

 「いや、減るよ。普通に血量が」

 「それで自分で歩いてくれるならそっちの方が楽だし」

 あっさりとした千倉の言い方に、黒須は拍子抜けする。

 (じゃあ前のあの俺の葛藤はなんだったんだ……)

 複雑な思いはあるけれど、とりあえずそれよりも今は目の前のに提示されたご提案についてだ。

 「え。じゃあ。遠慮なく」

 「どーぞー」

 牙を首筋に当てると、僅かに千倉の体が硬直しているのがわかった。

 (なんだ、やっぱり緊張してんじゃん)

 ちょっと微笑ましく思って、本当は止めてあげるのが紳士なのだろうけど、ここまで来て止めれるほど意志が強い自分ではなく、しかも今は確実に空腹時でこの誘惑に抗うのは無理だ、と好意に甘えて「いただきます」と血を吸おうとした瞬間。

 「陣衛門発見」

 冷静な声が前方から聞こえた。ぴたりと動きを止めて、目だけ動かしてちょっとした殺意を覚える。道の真ん中に立ってこちらに向かってくるさくらはにやにやと意地の悪い笑みを浮かべながら手に持った献血の血の袋を掲げて見せる。

 「助けに来てやったぞ。ありがたく思え」

 「先生! 無事だったんですね」

 千倉が声をあげて、思わずと言ったように黒須の両手を支えていた手を緩める。黒須の体がずるりと地面に崩れ落ちた。

 「あ。ごめん」

 「いいえぇ」

 にやにやと近づいてきたさくらが黒須の口にストローを差し込んで献血袋の中にストローの片側を突っ込んだので、黒須はおとなしくそれを吸い込んだ。

 「千倉も大儀だったな。あのお嬢さんもなんとか確保したし、お詫びに高級車で送ってくれるそうだ。帰るぞ」

 言い終わらないうちに、誰かがこちらに向けて駆けてくるのが見えた。スーツ姿の男性に見えるけれど、千倉はその顔に見覚えがあった。

 相手は地面に倒れている黒須を見て仰天したようだった。

 「陣!!……やられたのか?」

 「や。あと3分もすれば歩けるようになる」

 黒須の返事にちょっと安心した顔をした春樹は、そこでようやく傍らの千倉に気付いて硬直した。

 千倉も呆然と春樹を見つめる。

 「白雪姫……?」

 地面の黒須が面白そうに笑って、何かを言おうとしたのを、春樹はひと睨みして制止して、にっこりと営業スマイルを浮かべる。

 「妹の学校の方ですか? よく間違われるのですが、雪姫の双子の兄の春樹と言います」

 「あ。お兄さんですか」

 「はい。双子の」

 「そっくりですねー」

 「よく言われます」

 白々しい会話を交わす春樹と、すっかり騙されている千倉を呆れた顔で黒須は見る。

 (何やってんだか)

 まあ、本人がばらされたくないというのならば尊重するけれども。

 「じゃ、僕はこれで失礼します。妹をこれからもよろしくお願いしますね」

 「え。あ、はい。こちらこそ」

 爽やかに去って行く春樹を、さくらと、春樹とともに現れていた寛二は笑いを噛み殺して見送る。

 「じゃあ、送って行きますので。乗ってください」

 寛二の言葉に、車が音もなく傍まで来ていた事に千倉はようやく気がついた。真っ黒の、細長い高級車。こんなのに乗る機会、もう一生ないかもしれない。

 「ご協力のお陰で、積年の敵であった虎岩組を壊滅させる事ができました。ありがとうございます」

 車に乗り込む時、寛二にそう、深々と頭を下げられた。この手の人にこんなに頭を下げられるのも、もう一生ないだろう。あっても困る。


 

 「千倉、今日は遅いから泊ってけ。家には連絡済みだ」

 さくらの命令で、千倉はその夜黒須家に一泊する事となった。

 「明日の朝飯は楽しみだな」

 「先生……?」

 果たして泊めてくれるのは千倉の為か、自分の為か。

 「さて、客間の準備をして来よう」

 さくらが行ってしまって、黒須と二人居間に残される。

 (お兄さんの、最後の時の話は、まだしない方がいいよね)

 黒須は元気になったように見えて、まだ表情が浮かない。千倉自身も混乱しているから頭を整理したい。数日して落ち着いたら話したいとは思うけど、今はそんな気持ちになれなかった。

 (あれ? でも、黒須君、転校するんだっけ?)

 気づいてハッとなる。だとすると会える日も限られてくるというわけだ。

 「黒須君、転校っていつから?」 

 「は? 何? 転校?」

 「え? するって言ってたじゃん」

 「ああ。あれ、嘘だわ」

 「は!?」

 「俺が死んだら千倉、悲しむかなと思って」

 「え。死ぬ気だったの?」

 「万が一万が一」

 黒須は軽く笑って言う。

 でも、死ぬ気だったのかもしれない。結構本気で。そうなっていたかもしれない。そう思うとぞっとする。

 千倉は力が抜けたようにソファに座りこむ。

 「どうした千倉」

 「や。なんか安心したら」

 「大活躍だったもんな」

 ありがとな、と黒須は千倉を見下ろして微笑んで言って、それからソファの千倉の隣にどさりと座る。

 「あのガッツでこれからもダイエットを頑張ろう」

 「……そう言えばすっかり」

 「俺も協力するし」

 「でもさー、私思ったんだけど」

 「ん?」

 「痩せても別に可愛くなるとは限らないよね。逆にがっかりな感じになるかも」

 「そうなったら俺がそうさせてしまった責任をとって引き取ってやるから大丈夫だ」

 「は!? ……じゃあ、もし可愛くなったら?」

 ちらりと横目で右隣に座る黒須を見たら、黒須はにやりと笑って千倉を見返した。

 「むしろ俺が引き取ってやるよ」

 「!!」

 千倉が答えに窮してしまうと、黒須は何故かはははは、と笑った。

 「覚悟しとけよ、千倉」

 よいしょ、と立ち上がって千倉を見下ろして。ついでにちょっとかがんだと思ったら、千倉の唇にその唇が軽く触れた。

 何が起こったのか。千倉が混乱した頭でなんとか事態を把握した頃には、黒須はひょいひょいと歩いてリビングを出て行ってしまう所だった。

 (え!? えー!?)

 いいのかな? いいの? こんな展開。都合良く解釈していいの?

 真っ赤になってソファで混乱を極めている千倉の脳内が最後に行き着いた先は。

 「とりあえず、明日から即ダイエットを頑張ろう」

 だった。

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