44.終わりは始まり
「今までのすべてが、このために……? どういう事、なの……?」
あの日のすべてに絶望し憎悪へと反転する直前の己を眺めながら、サヤは問うた。
彼女は確かに特別な生まれであったと言えよう。
大きな力へと繋がる“穴”を守る一族同士の母と父の婚姻によってとても強い力を持って生まれた。
それにより聖女として称えられる程の力を持ち、その死により彼女はそこからより完全な“同類”となるために秘跡をこなしてきた。
ルールに従うことこそがより魔力を強める手順であるのだから。
だがダリアとレイのどこか様子の違う言葉は、それだけではないように思えた。
「ああ、混乱するよな。というかまあワタシもオレと私が一つになって人を捨て、完全な“同類”になったときに初めて知ったんだし。人の部分が残るサヤに知る術は、こうして最後にネタバラシされないと無かったワケだ」
深紫の空の下に広がる木々も生えぬ井戸の広場に、ダリアは急にその姿を現した。
サヤの横でポケットに手を入れながら語る彼女の表情はどこか妖しく企むような微笑みで、それに惑うサヤは最初に出会った頃とはまるで正反対だった。
「ネタバラシ……? それって、まるで……」
「ええ、お察しの通りですわ。サヤ、あなたがこうして人を捨てるまでに至ったこれまでの道のりは、必ずしも不運からの運命だけではなかったのです。あなたとダリア、それにわたくしとの邂逅に関しては偶然ではありましたが……でも、こうしてあなたが秘跡を終えようとしている事そのものは、望まれた天命として宿命によって舗装された道でしたのよ」
いつものように、突如としてレイが現れて言った。
ダリアの肩に乗り言い放たれた彼女の言葉に、サヤはさすがに驚きを隠せなかった。
彼女からはこれまでずっと保っていた余裕を持った態度が消え、困惑が滲み出ている。
「……つまり、私が絶望の中で死に、こうして憎悪によって“呪い”と化したのは、意図されたものだと……そういう、こと……?」
「ええ、そういう事になりますわね」
そっけなくレイが言った。
誰が、とサヤは聞かなかった。
なぜならそれを既にサヤは知っているのだから。その邪な企てをして実行した存在に“誰が”という言葉は相応しくないのだから。
「さすが、まだ人らしさが残ってたのにあんなに強く……えっと“やまのうみ”と繋がってただけあって、察しがいい。……てか、人相手じゃないし呼び方に拘る必要もないか」
「それはそうでしょう、まったく変に律儀ですわねあなたは」
「んー、人ではなくなったけど商人時代のノウハウは焼き付いててねー。そういうところでは確かに変な話なのはそうだな」
「ですわね、反省なさい」
「へいへい」
レイの前で普段のように会話する二人。
だからこそ、サヤには彼女らは彼女らであることを確認する。
今まで一緒にいた彼女らが――とりわけ、元からそういった存在であったレイが、そうでありながらもすべてを知っていたという事でもあった。
「えっとまあともかく、サヤはね、望まれてたんだよ。ワタシ達“同類”……人がその心というものを得てからずっと“穴”に捨てられてきた、誰かの幸福の裏で捨てられてきたいろんな不幸による憎悪の堆積からね」
人が“八魔之膿”と今呼んでいるものは、その時代によって時折名前を変えていた。
それは人々がその本質を忘れ去り、人の世から遠ざけるための世代を越えた魔術の儀式であった。
リーガンやレナのような力の強い者はそれの本質がずっと積み重なってきた人の負の念であることは理解しながらも、あえてはぐらかした名前で呼ぶ事により、この世界へ湧き出てくる事を防いでいたのである。
故に、サヤの被害者達が現世でその名を口にするのが精一杯で、その大きな力の本質自体は世に簡単に湧き出す事ができなかったのだ。
サヤは、その事を死して今の状況になってから少しして理解していた。
……理解していた、つもりだった。
だが、実際はそれだけはなかったのだ。
「長い歴史で積もりに積もり、淀み、濃くなっていた負の念はもはやそれ自体が強烈な意志そのもの、かつそれぞれの怒り、憎しみ、悲しみを抱えた明確な個でもありますの。それぞれの理由から、絶対的な人の世そのものへの復讐心という一つの心でもある“恨みを抱く同類”達……その意志に巡ったチャンスがあなただったのですわ、サヤ」
「……チャンスって……どうし……て……」
彼女の頭の中で、理由は見つかった。
それは彼女が聖女たる力を持つ所以と一緒なのだ。
負の念の“捨て穴”である守護者同士の両親が結ばれ生まれた自分。それが禁忌とされていた理由こそが、それだったのだ。
「まあ、サヤが気にする事じゃないさ。それだけにサヤの両親は愛し合ってたってわけだし、なんならまず知らなかったわけだし。それで“同類”みんなにおけるチャンスのサヤが生まれたんだからまあ愛の奇跡って事にしとこうよ。ハハハッ」
軽い口調で笑うダリア。
やはり彼女もまた今や完全な“同類”なのであるとサヤは再認識する。
初めて出会った頃の世界の理不尽に心を殺されかけていた少女の姿は、もはやどこにもなかった。
それこそが、“同類”になるという事……悪意そのものになるという事なのだ。
「あなたが生まれたときに、あなたがこの道を歩けるようにまず父親の命を奪いました。両親によって幸せな家族愛などを与えられては元も子もありませんし」
レイが語る。
サヤが今ここにいるに至ってどういう意志が働いたのかと。
彼女の人生が、いかに悪しき謀の手の平の上だったのかと。
「そのあとは、サヤのお母さんを殺したみたいだな。それで死者を蘇らせようとしてくれればって感じだったらしいけれど……まさか一欠片もそんな事思わないどころか、世のため人のためって方向に決意を固めるとか、凄いなぁサヤは。到底できる事じゃないな」
ダリアも続く。
彼女達は明確な一つの個であるが、同時に巨大な悪意の総体の一部でもある。故に個人の心と全体として統一された記憶両方を持っている。
だからこそ、そのようにダリアはサヤに語れるのである。
やはりここでも、サヤは立場の逆転を感じた。
「それで本当に善行に勤しんでその身を捧げるような行いをも苦と思わないなんて……まったく、マジで聖女様だったわけだ。ま、だからこそこうなるまで人としてのサヤもまたこびりついて秘跡をしなきゃって事な訳か。普通、人らしさなんてあっという間に消えるっていうのに」
ダリアの言葉は称賛半分、そして嫌味半分といった感じだとサヤには思えた。
彼女自身の稀有な人間性を称え、かつそれと同時にそのせいで人の悪意に気づけなかった、そんな彼女を両方向に評価していた。
「でも、そこでわたくし達にとってのもう一つの好機が生まれましたの。第一王子、リクリー・エドキンズのあなたへの求婚です」
「…………ぅ、あ」
サヤは、またも気付いた。
彼女の口ぶり、そしてこれまでの記憶からもリクリーとの出会いとその日々の果てに彼と心から交わした婚約は意図されたものではないのが分かる。
だけれども、それ以外……つまりは、彼らが彼女を断罪したあの夜へと至る心の翳り――魔が差したのは、そういう事なのであると。
「言い忘れてたけど、サヤの生まれ的にお前と深く絡めば絡むほど、こっちも手出しがしやすくなったみたいでさ。まあだからと言って派手な事はなーんもできない訳だけれど、暗い感情をくすぐる事ぐらいはできたみたいだね。それに、そこまで深くなくとも悪夢で恐怖を煽ったりはできるっていうね……うん、それはあの女王様に随分と刺さったみたいだ」
「ああいう頭はいいけど一人で全部抱え込み誰かに頼ろうとはしない女なんて、わたくし達からすればこれ以上ない獲物ですからね。彼女、そのことに道路のシミになるまでどこかで気づくかもと思いましたが……ちょっと状況が特異すぎたのか考える余裕もなかったようで。本来はもっと賢かったのでしょうに、可哀想で哀れで面白かったですわね」
よくよく考えてみれば、おかしな話だったのだ。
王国を世界で最も繁栄した国家にまで育て上げた女傑が、下らない恐怖心から人々を救い人望を集めていた聖女であるサヤを排除するだろうか?
いくら嫉妬を抱えていようと、それであの残酷な冤罪による断罪劇に、共に過ごした友人達が、未来を誓い合った想い人がそれを容認するだろうか?
答えは、否だったはずなのだ。
そこの分別をできたからこその彼女ら、彼らだったはずなのである。
だが、穴の向こうに捨てられた負の念はまさにそういった穢れた感情として人々が見て見ぬ振りをし臭いものとして蓋をされてきたもの。
そういった人の心でありながら否定され続けたものがサヤを媒介にして干渉した結果、彼らは足を掬われたのだ。
「じゃあ……私のせいで、リクリー達は、みんな……」
両親の死。女王の乱心。婚約者と友人達のトラウマともなった冷酷な行い。それによって死したサヤであるが、そのすべてはサヤ自身によってもたらされたのだ。
死して呪いと化したサヤはダリアを運び手として王国に広まっていったが、その実、生前は彼女が小さな呪いの運び手でもあったのだ。
彼女自身にその意図はまったくなかったのにも関わらず、生前と死後で同じ事の繰り返しをしていたのだ。
「ん? 気にしてるか? いやまーでも結局お前を殺す選択をしたのは本人の意志だしさ、別に洗脳ってレベルで操ってたわけじゃないしあいつらが悪いよあいつらが」
「あら責任転嫁なんてやはりまだまだ若輩ですわねダリア。わたくし達のようなものが圧倒的な数のための幸福のために排除されたように、あちらもこちらの強い邪念に一人一人が飲み込まれた。そういう力比べで勝った負けたでいいじゃないですの。なので利用された彼らが悪いのです」
「同じ結論なのになんでこういうときだけ脳筋になるんだよお前は……」
「楽しいですから」
「そっかー……ならしゃーないかー……」
またも楽しげな様子で交わされる、彼女らの会話。
明確に人の心がない悪魔達の語らいである。
本来ならば、憤り、叫び、立ち向かう意志を見せるべきなのだろう。
「……なるほど、そういう事だったの」
だが、それに対しサヤの心は不思議と凪いでいた。
理由は簡単だった。
もう彼女は、後戻り出来ないほどに人ではなくなっていたからだ。
五人の友人達を人としての『未練』を断つために供犠として捧げ、限りなく続く苦しみへと堕とす、人から“同類”へと成る秘跡。
結局はただの儀礼だったこれを真面目にここまで成し遂げてきた彼女は、邪なる恩寵を与えられてダリア達と同じ全てでありながら一つの個である“同類”へとなっていた。
だが、そこまで来ても未だに残っていたのだ。
目の前で絶望に打ちひしがれる、人としての自分が。
「まったく、リクリーの事を言えないわね……私も勘違いしてたわ。コレは、あのときの私ではない。今現在もなお残ってこの事実に絶望している、僅かに残った人としての心、なのね……」
目の前のもう一人のサヤ――最後の誰よりも清く気高かった人間性の残り香は、声も上げずに泣いていた。
誕生そのものが間違いであり、そのせいで国そのものを滅ぼした、己自身の存在への後悔で。
「……もう、いいよ」
すると、ふと目の前のもう一人のサヤの口から、言葉が漏れた。
それにサヤだけでなく、ダリアもレイも驚いた。
「おいおい、マジか……」
「さすがにこれはわたくしからしても驚愕ですわね。ただの残滓でありながら、言葉を口にできる程の意志があるなんて……本当に人であったときのあなたは、聖女と呼ばれるに相応しい特別さを持っていたのね」
「…………」
サヤは、静かにかつての自分に歩み寄る。
その手にはいつしか、戦鎚が握られていた。あの夜、一度自分を終わらせた、あの戦鎚である。
「……いいのね、私」
「え、え……だって、もう、私には、何もないもの……みんな私が自分で、奪ったんだ、もの……お父さんも、お母さんも……アリアも、サムさんも、カー君も、イゴール君も……そして、リクリーも……ああ……私なんて、生まれなかったら、良かったのに……」
そこには、あのときすべてを憎しみ恨みすべての人々に死を望んだときのような力すら残っていなかった。
ただ目の前の残酷な事実に膝を折り屈する、哀れな少女の残骸でしかないのだ。
「だから、終わらせてよ……何もかも、嫌だから、全部……せめて私を、私自身の手で……消して……」
人が生きることすら諦めて何もかも逃げ出したいときに選ぶ究極の手段が自殺である。
そこに訪れる虚無が、生きる事で感じられる何よりも甘美に見えてしまうのだ。
今サヤの残滓が言っているのは、それと何も変わらない。
ただ下手人としてもう一人自分がそこにいる、それだけの違いでしかない。
「……ええ、分かったわ。でも、これは終わりじゃない」
サヤは、大きく片手の戦鎚を振り上げる。
その背後の深紫の空には、いつしか異様な光景が広がっていた。
血痕の塊のような汚れた赤の月が浮かび、そこから八本の柱が囲むように浮かんでいた。
正確にはそれはただの柱ではない。悲しみに、悪意に塗れた、かつて人であった負の念がそのまま人の形のままで柱のように塊となって伸びているのだ。
サヤはそれを背にしていた。
黒く汚れた汚泥の大地に、闇の中で黒く影となった木々と山に挟まれ、そしてその八本の人柱が伸びる月を背負った彼女の戦鎚は、ついに高らかと掲げられるような形になっていた。
「これこそが、始まりよ」
そして、戦鎚はそのまま、最後の供犠へと振り下ろされた。
◇◆◇◆◇
最初に異変に気付いたのは、隣国でありかつて王国との戦争に敗れた国、オーバードルック共和国の商人だった。
国を越えての商売を許されていたその商人はいつものように国境を越えようと検問となっている門へと馬車を進めた。
だが不思議な事に、その日は誰も衛兵がいなかったのだ。
詰所となっている砦に大声で叫んでも誰も出てくる様子はない。
不気味に思った彼は、その日は国境を越えるのを止めて国に戻り報告した。
共和国を統治する元老院は訝しく思い、もしやなにか王国の罠なのではないか、あの女王ならそういう悪辣な手も取る、いや本当に何かあったのかもしれない、もう戦争は過去なのだから、などと議論を繰り広げた末に密偵を旅人に変装させて潜り込ませる事にした。
純粋な情報収集である。もしものときは、その密偵も見捨てるという算段であった。
そういった経緯から密偵である彼女は旅人として首都のブレアプロに辿り着いていた。
だがそこに広がっていたのは、無人の首都だった。
「……何よ、これ」
まるで戦場の跡地のようだった。
多くの建物が廃墟となっており、道には捨てられた馬車が転がり、チラシや新聞が乾いた風で舞い魔法灯は割れたり折れたりしている。
だが戦場であるならば死体や血の跡ぐらいは残っているはずなのに、何も無い。
人のいた痕跡そのものが存在していないのだ。
まるでそういったものが、すべてどこかに消えたような、そんな想像すらしてしまうような光景だった。
「バカな……そんなこと、あるわけ……」
目の前に広げる現実だと言うのに、あまりにも非現実的な光景過ぎてそれを否定しようとする密偵の娘。
と、そのときだった。
少し前にある店と店の間にある狭い路地から、ガサリ……と物音がしたのだ。瓦礫をどかしたときの音だった。
「っ! 誰!?」
密偵の娘は咄嗟にナイフを構えながら叫ぶ。
すると、その路地から出てきたのは美しい女性だった。
汚れだらけの黒いドレスを身にまとった銀髪セミロングに灰色の目の女性で、娘よりも少しだけ年上だという印象を受けた。
「あなた、は……」
「……ああ! 良かった! 人が……人が来てくれたんですね……!」
その女性は彼女を見るや否や疲れた様子でそこから体力を振り絞るように走ってきて娘にしがみついてきた。
自分よりも少し背の大きい女性に抱きつかれるのは、妙な気分だった。
「だ、大丈夫ですか!? あなたは一体……ここで何が……!?」
「……すいません、今は、とても疲れていて……良ければどこか休める場所に……いえ、いっそのこと、あなたの国へと連れて行ってくださいませんか? 私、とにかくここを離れて安心したいんです……」
「……えっと、どうして私が別の国の……って……」
「何もおかしなところはありません。私の願いを、聞いて下さい」
「……分かり、ました」
耳元でそう囁かれた彼女は、その言葉を聞いてその通りにしてあげたいと、なぜだかそう思った。
きっとこの人はどこかのご令嬢なのだろう。それが何かがこの国にあって、彼女はここに一人残っていた。
そんな風に不思議と密偵の頭の中で物語ができていた。
普段は証拠もなしに憶測を立てないというのに、なぜだかそんな事なのだろうという気がしたのだ。
「じゃあ、あちらに私が乗ってきた馬があるので、もし大丈夫なら後ろに――」
――別の女が、そこにいた。
白い髪で黒い服の女が、遠くに立ってじっとこちらを見つめていた。
顔は、笑っているように見えた。遠くなのに、それははっきり分かった、そんな気がした。
「誰もいませんよ」
「……え?」
抱きついたままの令嬢が、急に言ってきた。
「ここには、私一人だけですよ」
「……あ……えと……あなた一人、だけ……」
「はい。私一人だけです。あなたは、他には何も見ませんでした」
「……うん」
きっとそうなんだと、密偵の娘は思った。
それよりも今はともかくこのご令嬢を国につれて帰らねば、と娘は思った。
それが自分の役目だとさえ考えたのである。
「では、早く帰りましょう……途中で宿も見つけないと……もう夏も終わって、秋ですから……」
「ええ、そうですね……もはや、暖かな日差しは届きません。昇った日は、やがて沈むのですから」
令嬢の言葉はどこか密偵の娘には不思議な言い回しに思えた。
だが、それ以上はなぜだか考える事ができずに、彼女はその令嬢を連れて首都の外へと出ていく。
手を引かれる令嬢は、そんな娘の背中を見て、静かにほくそ笑んだ。
人類の日没は、始まったばかりだ。




