令嬢、神様に呼びかける
「…ねえ」
馬車に乗って、私は隣の彼に声をかけた。説教。説教をするのである。こっちを向きなさい。
「へへーんだ」
しかし彼は私と反対方向を向いたまま。ちょっと。何なのその態度。
「あのー」
「つーん」
つーん。て、何。そもそも、え? 何で? 私、そんなことされる筋合いありませんけど?
「すいません。ちよっと…」
「…」
ぐぬぬ。完っ全に無視してる。何でそっちがそんな態度なの!?
「ちょっと! ねえってば!」
「俺はねえって名前じゃございません」
熟年夫婦の奥さんみたいな事を言いおる。もおぉー!
「アオ!」
「何?」
その言葉にアイオライトは満足そうに振り向いた。馬車に乗って二人きりになったら更に本性がだだ漏れ。こんなの誰にも見せられない。
「あなた、何であんな顔するの?」
あんな顔というのはソフィア様を鼻で笑ったゲスい顔の事である。この人、たまにあの顔をする。こっちはヒヤヒヤなんですけど!?
「だって面白…可哀想じゃん。お前に愛称で呼んで欲しいって必死にお願いしているのに呼んでもらえなくて」
「可哀想な人を見る目じゃなかったわ」
本音も漏れちゃってるし。
「いやいや。本当に可哀想だとは思ってるよ。俺は呼んでもらえるのにねー」
と、何故かどや顔でアオは言う。そう。私はこの人の事を二人きりの時には「アオ」と呼ぶ。彼の身分も理解していない幼い頃に長い名前を言えなくて「アオで良いよ」と彼が言ったからそれに甘えたらこんな事に。侯爵令嬢よりも身分の高い公爵令息の事を愛称で呼び捨てにしているなんて絶対にバレてはいかんのである。
もう少し補足すると実はこの人、対外的には品行方正で通っている優等生なのだ。それだけではなく、この年齢のくせに没落寸前だった公爵家を立て直したという武勇伝の持ち主でもある。頭の中がどうなっているのか分からないけれど、割と幼い頃に「この家ヤバい」と気付いたらしく、それから経営や会計を自主的に学んで見事立て直したらしい。そんな彼は当然の如く学校で一目置かれているし、彼もそれに相応しい対応をしている。…今日みたいな時を除いて。
そう。彼は時々素が出てしまうのである。それが何というか、周知されるとどん引かれる類のものなので見ているこっちはひやひやする。何で私の前でああいう危ないことをするのかなぁ。私をからかっているのかしら。
「それの何が嬉しいのよ…」
「アリアには分からないかー。この優越感」
彼も私の事を愛称でアリアと呼ぶ。まあ、それは問題はないし良いんだけど。
つまりソフィア様にマウント取れて嬉しいってこと? 本当に子どもなんだから。
「じゃあ、あなたの事、これからはアイオライト様って呼ぶわ」
それならつまらない対抗意識も無くなるでしょう。ただそう思って言ったら、彼はむっとした顔をした。
「駄目。そんな事許さない」
「許さないと言われましても、これが正しい対応ですから」
言葉遣いも正しく直したら更に機嫌を損ねたらしい。私の顔を至近距離で覗き込んでアオが言う。
「今日、俺が何の為に伯爵家に行くのか分かってるのか? そんな事言って良いのかなー?」
「…」
うぐぐ。と、私は苦虫を噛み潰した。今日彼に家に来て貰うのは、さっきも皆に言った通りお父様のお仕事の相談に乗って貰う為。あとは会計についても教えて貰ったり。つまり我が家は彼に結構…かなり…相当お世話になっているという事である。別にそこまで家が危機的状況だったとか泣きついたとかいう訳でもないらしいんだけど、細々した事を相談していたらすんなり助けてくれたとか何とか。それでこうやってたまに来て貰ったりしながらお付き合いを続けている。こんな状態を他の貴族が知ったらそりゃもう羨ましくて羨ましくてたまらないだろう。それ位に有り難い存在なのである。今思うと何故なんだぜ? これも私があんぽんたんのミスを疑う一因である。
さて、これはお父様を人質にとられたという事で良いのだろうか? そう思いながら私はあっさり白旗を揚げた。
「…分かったわよ。今まで通りにするわ」
そう言ったらアオは満足げに離れた。本当に、もう。そう思っていたら彼はこんな事を言う。
「そもそもお前は何で愛称で呼ぶのをそんなに拒むんだ? 呼んでやれば良いのに」
「呼んでやればって…位が高い方にそんな」
「許可無く呼ぶならともかく、本人が良いって言ってるんだから大丈夫だろ」
「…そうなのかしら」
あまり厳しいことを言われたことがないからよく分からない。さっきも言ったけど、この世界は私に甘い。都合が良いというか、何でも許されてしまう気がするというか。だから気を付けないととんでもなく常識外れのようなことをしてしまいそうで怖いのだ。
でも、彼が言うのなら本当にそうなのかもしれない。いつも彼はこんな私にそっと色んな事を教えてくれる。だから私はすんなりとその助言を受け入れられる。
「じゃあ、また言ってもらえたら…考える」
「うん」
と、楽しそうに笑ったアオに私はこっそり感謝した。
この時に気付かなかったのは不思議だ。そう言ったアオが、つまりソフィア様にマウントなんて取っていなかった事。
「…と」
その時、少し大きく揺れて馬車が止まった。少し体勢を崩しかけた私をアオは庇ってくれる。
「…ありがとう」
「うん。着いたみたいだな」
さらっとそう言って彼は私が降りるのもエスコートしてくれた。何て言うか、うん。こういうの、もしかしたらこの世界では常識なのかもしれないけれど何かこそばゆい。それにこの人、特別私に甘い気がするのよね。…気のせいかしら。
ありがとう。と、彼を見上げて言ったら上からも声が聞こえてくる。
「お嬢様。アイオライト様。停止の際、大きく揺れてしまい申し訳ございませんでした。大丈夫でしたか」
手綱を握ったうちの使用人の声が聞こえてきた。皆優しいな。
「大丈夫よ。今日も安全に送り届けてくれてありがとう。お疲れ様」
「…はい。お疲れ様でした」
ほっとした様にそう言った彼に笑って、二人で邸宅に向かって歩き始めた。
その日の夜。
ベッドで膝を抱えてじっとしていた。深夜に近い時分の外は、明るい月が空を照らしている。その光で自分の手を見ながら色々な事を考えていた。
二時間ほど前にアオは帰路についた。お父様の相談が長引いたのか話が弾んだのか、今日は随分長いこと話していたようだ。夕食を一緒に食べてから見送った。見送りの時、礼を言う両親の横にいた私に、最後にアオはこう言った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
「また学校で」
「ええ」
頷いた私の手を取って、アオはそっとキスをくれる。…あれ? 何でそんな事?
初めてそんな事をされて戸惑った。どうして? 何で? 両親もいる前で。いや、両親の前でしたって事は礼儀か何かって事? 昔、っていうか前世で外国の人が気軽にハグとかキスをしているのを見たことあるけどここってそんな文化だっけ? そう思いながら赤面していたら「じゃあね」と、アオが小さな声で私に言う。「う、うん。お疲れ様でした」と、慌てて顔を上げて答えた。
「…」
きゅうう…と、胸が痛くなる。それに耐えるように膝を抱えて体に力を入れた。王子ともアオとも幼い頃からの付き合いだ。初対面の年齢をはっきりとは覚えていないけれど、もう十年以上経っているのは間違いない。それでもお互いに知らないことは沢山あるし、分からないことも沢山ある。例えば今日の事だって。
アオに触れた右手を見た。嫌悪が全く無いことに戸惑う。
…何であんなこと。
見送ってから我に返って両親の様子を伺ったけれど、私の事を気にしていないようだった。まるで当たり前のような反応だったからその時はそれで終わりにした。それが一人になったら蘇ってきて、今こうしてる。アオの事が頭から離れない。けれど本当に憂鬱なのは、お互いの気持ちや今日の行動じゃなくて、私が昼間から考えていること。
自分がこの世界にいるのは間違っているんじゃないか。
この世界に救いは必要ない。平和で幸せな世界だ。それなのに、どうして滅亡寸前の世界に送られる筈だった自分がここにいるんだろう。それまではあまり気にしなかったそんな事を考える。自分はどうなるんだろう。あのあんぽんたんは間違いに気付いていないんだろうか。いや、私を送った後にどうなったか位は確認する筈じゃないの? そこにいる筈の私がいなかったら。そしてここに私がいることに気付いたら? もう二十年近く放置されていることを考えると、送られる筈だった破滅寸前の異世界には他の誰かを送ったか。彼自身がどうにかしたか、放置したか。
放置はないか。と、思いながらうずくまる。未来を殺してまで救おうとしていた世界だ。それを自分のミスで止めるとも思えない。…まぁ、分からないことは考えても無駄だからもう止めよう。
同じく考えても無駄だけど、私は他の事を考える。自分の事。あんぽんたんは間違っている私を認識しているのか、していないのか。このまま放置するのか、いずれ清算するのか。どうされても私に選択肢は無いけれど。
…神様。と、天井に向かって呼びかけてみる。呼びかける言葉は神様にしておく。一応。そしてこんな事を思う。
急いでいたからなのか、何かあなたっておっちょこちょいそうだったから単に間違えたのか分からないけれど、もしも清算するならそれなりの覚悟で来て下さい。その時にはまた、馬乗りになって首絞める位のことをしても文句を言わないように。こっちはとっても迷惑被っているんだから当然の権利ですよね? それから来るなら早くして下さい。このまま、もしも。
アオに触れた右手をぎゅっと握り締める。
もしももっと幸せになってしまったら、今よりも取り上げられるのが辛くなってしまうから。
けれどあんぽんたんからは何の返事もなかった。