十九、
十九、
凍る丘の上、方舟はノアを裏切るのでしょうか。ふわり、舞った彼女は妖精を知らない臆病な心だから。此処には居られない。風景のオレンジ、水色は白夜に遮られた。三輪の汽車を待つ。歌に乗って、空を飛んだ。流れのうだつままに。
「こんばんわ。」
「ああ。」
遥か彼方にあると知ってた。鉱石の人、ナザレに生まれるはずだった人。私を現実から連れ出して、絵本の世界に閉じこめてくれた幼い頃の神。海を傍立て、風は泣いた。伸ばした手の先には君がいる。意味の無い言葉を繋げて、綴ること。それが彼らに託された別れなのだから。
「それが、君の正義なんだね。」
「え?」
船の先に立ち、二人で向かい合うと潮風が髪を後ろに流した。紫色が天の彼方を見据えて、多くの悲しみと再生を見てきた、聡明さを称えた。近づいて、顔を見上げれば鬱陶しそうに風を振り払う彼が、笑った。
「丘の上で蜂蜜を舐める少女は、羊飼いに飼われていなくていいのかい?」
「それよりも、夜の覇者に夢を託す方が楽しそうだから。」
船が切っていく海を眺め、イルカでも現れないかと下を見つめてみたが、生憎と何も現れなかった。
「フィガロの聖地にアンデス山脈を添えるのと同じく、よく分からないことはやめればいい。王様が昔に言っていなかったかい?グミよりも激しく美味しさを愛せるものは無いと。」
「きっと、私の知らない世界線ね。」
静かな会話が続く。もっと、話を強請るように袖を引けば、フルート奏者は吹き出しながら私を両腕で抱えた。安定した状態で持っていてくれるので居心地がいい。
「続きを?」
「聞きたいわ。」
私が頷くと、彼は私を抱えたままその場に座り込み、語り出した。
「俺は、遥か彼方の国にいたらしい。その場所にはドラゴンもいなければ魔法もない。俺の愛する音楽もないような非常に退屈な世界だった。夕刻になれば、鐘を鳴らして合図をする羊飼いもいないしね。夜中には星を彷徨う手のひらの虚しさすら存在していなかったアンタレスだけが輝く未知の彗星に望む哲学的、終末論。けれど、全てを打開するのはフルートであり、カリスマ性のある交渉術だったわけだ。寒空にフルート1本を手にした男。それこそが、俺が目指すべき特異点であり、微分的躍動感があったわけだ。」
「限りない近さよりも完全的な不可能が、優しいオルゴールを表すんじゃないの?」
「極限が何のためにあると思うんだい?愛を語るためか?違うだろう。」
「世の中の語りべ的なことを言うのね。」
「俺の人生論だと言って欲しい。」
一気に喋ったので、少しむせてしまう。彼は、じっとその様子を見ていたが、やがて背中をさすり出した。
「もろいな。」
「そんなこともないけど...。」
破片上になった三角形を、すいすいと手でスクロールしているのを、不服そうな表情で居る彼に移し替える。還元的な化学を酸化皮膜をつけたゾルと呼ぼう。夜中にふと思いつく、絵画的な純粋さに息が詰まった。
「その通りだな。」
彼が体勢を変える。やがて、持っていたらしいフルートを取り出すと、私の口にあてがった。
「息を吹きこめば、分かるかもしれないぞ?」
「これを使うべきは貴方だと思うけど。」
頭を彼に預け、真上で輝く月を心中のままに取りこぼす。口元から吐く息が、拙い音になり、掠れた寒空のスピカは、彼の笑いを取った。
「やる気なさすぎだろう。」
「だって、吹いたことないもの。」
貴方が吹けばいいと、フルートを押し返す。彼はしばらく私の髪を梳いた後、そっと口にいフルートをあてがった。
「この音楽は言葉にしてはいけないからな。」
「酷いこと言うのね。絵にするのもいけないの?」
「今、君にだけ送るものを残すなんて礼儀知らずだろう?」
「それもそうね。」
黒髪同士が闇に熔けて、眠りに落ちそな私を支えながら、彼はフルートを吹いた。言葉にはできない夜の終曲点。キラキラと星々に守られた彼との時間に、私は微笑みを浮かべたのだった。
ノアの方舟に乗った少女とフルート奏者。彼等の問答は書いていて非常に楽しいし、彼との関わりで確実に感性が変わっていく少女を見守るのも面白かったり...。
最近、テスト続きで更新が途絶えることがありましたが、ようやく今週で全てのテストが終わる為、普通に投稿出来そうです。
次の投稿も、お楽しみに!