第111話 目的
建物が燃えていた。石畳の通りに、人々が倒れていた。動かない体と、広がる血の赤。逃げ惑う市民たちの姿が、水晶の中で小さく映っている。その後ろから、吸血鬼たちが追いかけていた。
広場に面した大通りを、市民たちが群れになって走っていた。老人も、子供も、誰もが必死に走っている。だが、吸血鬼たちの方が速い。次々と追いつかれ、倒されていく。
吸血鬼の一体が、逃げる女性に追いついた。短剣が振り下ろされる。女性が倒れた。その傍らで、幼い子供が母親の名を叫んでいるのが見えた。水晶の映像に音はない。だが、子供の口が動いているのは分かった。何度も、何度も、同じ言葉を繰り返している。やがて吸血鬼が子供にも手を伸ばした。アビゲイルは思わず目を逸らした。見ていられなかった。
別の場所では、兵士たちが吸血鬼の群れと戦っていた。だが、多勢に無勢だ。兵士の剣が一体を倒しても、背後から別の吸血鬼が襲いかかる。一人、また一人と倒れていく。防衛線が崩れ、吸血鬼たちが街の奥へと流れ込んでいく。
商店街が丸ごと焼け落ちていた。屋根が崩れ、壁が倒れ、瓦礫の間から炎が立ち上っている。教会の鐘楼が半分崩壊し、傾いたまま煙を吐いていた。市場だった場所は瓦礫と灰に変わっていた。その通りに今、人の体が転がっている。
「やめて……!」
アビゲイルが叫んだ。透明な壁を拳で叩いた。何度も、何度も。だが、壁は微動だにしなかった。
「なぜ……なぜ、こんなひどいことをするの! この人たちが何をしたというの!」
涙が頬を伝った。魔術師として、吸血鬼として、長い年月を生きてきたアビゲイルだ。戦場も、死も、多く見てきた。だが、これは戦争ではない。一方的な虐殺だ。抵抗する力を持たない者たちが、ただ殺されていく。それを水晶越しに見せつけられ、何もできない自分がいる。
アビゲイルの紅い瞳が、マリアムを真っ直ぐに見据えた。声が震えていた。怒りと悲しみが入り混じった声だった。あの街で暮らしていた人々が、今まさに殺されている。何の罪もない人々が。
マリアムはアビゲイルの叫びを受け止め、静かに水晶を見つめていた。その表情には、罪悪感も悲しみも浮かんでいなかった。ただ、事実を事実として見つめている目だった。研究者が実験結果を観察するような、冷徹な目。
「ひどい、か」
マリアムが呟いた。椅子から立ち上がり、水晶の前に歩み寄った。映し出される地獄の光景を、眺めている。
「ボクもそう思うよ。ひどいことだ。でもね、アビー。これは必要なことなんだ」
「必要? 人を殺すことが、必要だと言うのですか!」
アビゲイルの声が研究室に反響した。透明な箱の中で拳を握りしめ、マリアムを睨みつける。かつて意気投合した親友の顔が、今は別人のように見えた。
マリアムがアビゲイルに向き直った。乱れた髪が揺れ、隈の濃い目がアビゲイルを捉えた。その目に、初めて真剣な光が灯った。
「ボクの目的は、最初から一つだけだよ」
一拍の間があった。
「魔王ドラコを殺すこと」
アビゲイルの呼吸が止まった。ドラコを。殺す。あの、不器用で、優しくて、仲間のためなら命を投げ出す覚悟を持つドラコを。エルザを、ベアトリクスを、守ろうとしてくれたドラコを。
アビゲイルは言葉を失った。ドラコは、アビゲイルにとって長い年月を共に過ごした仲間だ。不器用だが優しい魔王。人間を愛し、吸血鬼を憎む矛盾を抱えながら、それでも誰かを守ろうとし続けた人。その命を奪おうとしている女が、目の前にいる。
マリアムは続けた。穏やかな声だった。だが、その奥にある決意は、狂気にも似た静けさを湛えていた。
「レオンは『転移者』なんだ。この世界の人間じゃない。別の世界から来た、異邦人さ」
転移者。アビゲイルは初めて聞く言葉だった。レオンが別の世界から来た人間だということも、初めて知った。だが、言われてみれば納得できる部分もあった。レオンには常にどこか、この世界に馴染みきれない空気があった。故郷を遠く離れた者特有の、淡い寂しさのようなものが。
「レオンがこの世界に来た目的は、魔王を倒すこと。それが果たされなければ、レオンは元の世界に帰れない。死ぬこともできない。この世界に縛られたまま、永遠に異邦人として生きるしかない。ボクはずっと、そのために準備をしてきた。レオンがこの世界に来てから、ずっと。何年も、何年も」
マリアムは壁に貼られた研究の紙片を見やった。赤い糸で結ばれた無数の紙片。それは全て、ドラコを殺す方法を模索してきた軌跡だった。
マリアムの声が、僅かに揺れた。それは、アビゲイルが初めて聞くマリアムの声だった。疲労でも、狂気でもない。もっと深い場所にある、剥き出しの感情。
「でもね、ドラコは強すぎるんだ。レオンだけじゃ勝てない。一五年前だって、結局ドラコを本当に倒すことはできなかった。あれは合意の上の芝居だった。レオンも分かっている。だから、ボクがやるしかない」
マリアムの声が淡々と続く。まるで研究報告を読み上げるように。
「ドラコを殺せるだけの力を生み出す。そのための研究。そのための実験。そのための、この戦争。全ては、その一点のためだよ」
マリアムが水晶を指差した。燃える街。倒れる人々。それら全てが、マリアムにとっては目的のための手段だった。
「あなたは……」
アビゲイルの声が掠れた。透明な壁に両手をつき、マリアムを見つめた。
「あなたは、レオンのために、こんなことを」
「レオンのために。ボクがこの世界でできる、たった一つのこと。レオンを元の世界に帰すこと。望みを叶えること。そのためなら、ボクは何だってするよ」
マリアムの声には、迷いがなかった。指先は僅かに震えていたが、声だけは真っ直ぐだった。
アビゲイルは黙っていた。言葉が見つからなかった。マリアムのことは好きだった。魔術について夜通し語り合える友がいることが、どれほど嬉しかったか。だが、今マリアムが語っている言葉は、アビゲイルの知っているマリアムのものではなかった。いや、もしかすると、これこそが本当のマリアムなのかもしれない。アビゲイルが見ていたのは、表面だけだったのかもしれない。
アビゲイルは透明な壁に手を当てたまま、マリアムを見つめていた。紅い瞳に、様々な感情が渦巻いている。怒り。悲しみ。そして、かつて友だった者への、どうしようもない失望。
水晶の中で、イルドブルは燃え続けていた。エルザが帰る場所が、一つずつ壊されていく。
アビゲイルは透明な壁に背中を預け、目を閉じた。エルザ、ベアトリクス、ドラコ。みんなの顔が浮かんだ。今、みんなはどこにいるのだろう。無事でいてくれるだろうか。
この壁の向こうで、友だったはずの女が、世界を壊している。その理由が、仲間のためだという。仲間のために全てを捧げるという点では、アビゲイルも同じかもしれなかった。だが、その方法が、あまりにも違いすぎた。
アビゲイルの拳が、静かに握りしめられた。必ず、ここから出る。そして、この地獄を止める。




