[32] 王女の結婚――ヴァイバーナン ①
王都。
ラーケル宮。
朝の湯あみで湯気に包まれ、ヴァイバーナンは束の間、くつろいでいた。
湯に浸した薔薇の香りと静けさが、部屋の隅々まで満ちていた。
「殿下、ダリアン令嬢が昨夜のご宿泊の礼を、といらしているのですが」
侍女の言葉が届いた瞬間、ヴァイバーナンの機嫌は湯気とともに消え、じわりと怒りを孕んだ。
こんな時間に、あの手合いに煩わされる理由はない。
彼女は視線だけで侍女に合図し、扉の前で帰すように伝えさせた。
「殿下……」
「今度は何?」
ヴァイバーナンの声に怒気が帯びる。
「国王陛下から昼食の御招待が参りました」
「なんですって?」
前回、国王陛下を交えた昼食から1年以上も経っている。
ヴァイバーナンは13歳にして初めて開いた茶会の不評で、容赦なく叱責されたことを思い出し、顔を歪めた。
外は快晴だった。
時間通り、国王の庭園へ出向くと、ヴァイバーナン以外は着席していた。
ヴァイバーナンは驚きを悟られぬよう、お気に入りのドレスの裾をそっと持ち上げ、カーテシーで丁寧に挨拶した。
「国王陛下にご挨拶申し上げます。お招きに与り、恐悦に存じます」
国王は微かに笑みを浮かべ頷いた。
「よく来た。そんなに畏まるな。父上でよい」
「……ありがとうございます、父上」
ヴァイバーナンはもう一度カーテシーでお辞儀をし、テオイの向かいに座った。
「お兄様たちもいらしてたのね」
テオイの横には、マシューもいた。
王妃や側妃の姿はなく、兄妹だけなのは初めてだった。
二人とも余計なことは言わず、「ああ」と言葉少なく答えて頷いた。
食事が始まると、話題はアカデミーや競技大会へと移り、国王はいつになく穏やかな口調で問いを重ねた。
交わされる言葉は短く、返事はどれもどこか慎重だった。
ようやくデザートが目の前に置かれ、ヴァイバーナンは終わりに近づいたと心の中で小さくため息をついた。
「今年はチェリーが豊作だそうだ」
国王が言った。
「だから、デザートがチェリーパイなのですね」
ヴァイバーナンの頬が思わず緩んだ。いつもより、チェリーが多く乗っていた。
「ヴァイビー、奇妙だと思わないか? 果実はこうして実るのに、魔石は年々、姿を消していく」
その言葉が落ちた途端、庭の明るさがどこか遠のいたように感じられた。
誰も、すぐには口を開かなかった。
「掘り尽くした土地は、もう何も返さぬ……悲しいと思わないか、ヴァイビー」
ヴァイバーナンの目が泳いだ。
「……ええ。父上の仰る通りですわ」
「ヴァイビー、我々王族は民のために必要なことをやらなければならない」
「……父上、必要なこととは」
ヴァイバーナンの声が震えた。
「お前も来年には16歳で社交界にもデビューするし、丁度いいと思ってね」
ヴァイバーナンのナイフとフォークを持つ手が震える。
国王がワインを口にし、微笑んだ。
「ウルティナ王国の国王が是非にと……テオイ、かの国について知っていることは?」
「ウルティナ王国は、このパルティアン王国より3倍の面積を持ちながら、採掘が進んでいないと聞いております」
テオイがよどみなく答える。
国王は大きく頷くと、続いて尋ねた。
「マシュー、その理由を知っているか?」
「はい。いくつもの部族が戦い、勝った者が国を治めております。戦が多いため、先を見越して開発する余裕がないのでしょう」
「そうだ。よく勉強しておるな」
国王は目を細めた。
「そ、そのような土地に、私が行くのですか? 私には荷が重すぎますし、私には婚約者が……」
「ああ、バードック・カンビセスのことか……まだ、正式に婚約はしていないはずだが」
ヴァイバーナンは眩暈に襲われ、床がゆるく波打ったように感じた。
けれど、ドレスの裾を握る指に力を込め、どうにか踏みとどまった。
ここで気を失えば、すべてが現実となってしまう。
「お前が嫁げば、鎖国状態の国に我々が調査に入れる」
「父上、調査に入って魔石が無ければどうするのです?」
テオイの質問に国王は鼻で笑った。
「ヴァイビーは、離婚して帰ってきてもいいし、ウルティナ王国にそのままいてもいい」
ヴァイバーナンは、少しだけ顔を上げた。
「バクトビナ王国やビッザント帝国だってあるではありませんか。どうして、ウルティナ王国なのですか」
「お前は何を聞いていたのだ。未開であることが重要なのだ」
「そんな野蛮な土地に、父上は私を嫁がせるのですか?」
ヴァイバーナンの顔は赤く、目から涙が落ちる。
「それの何が問題なのだ? 民のためだと言っておる」
ヴァイバーナンはこめかみを押さえた。
「気分がすぐれないため、これで失礼いたします」
立ち上がった瞬間、ヴァイバーナンの視界がかすかに揺れた。
だが彼女はドレスの裾を整え、そのまま何事もなかったように歩き出した。




