1.朝焼けの都市を駆け抜けて
朝の蒸気が街路を白く覆い、鉄と銅と真鍮で組まれた建物の隙間から差し込む朝日が、水たまりに反射して揺れていた。
その街の中を、オレンジ色の髪の青年が駆け抜けていく。
オレンジのつなぎの上に羽織る青いジャケットがふわりとはためく。
背には工具箱、首にはゴーグルぶら下げている。
——シアン・クロウ=フィールド、二十二歳。
この街にある何でも屋、スチーム・フィールドに勤め、街のあらゆる困りごとに駆けつける男だ。
「くそぉぉ! 完全に寝坊したァァ!!」
額の汗を拭おうと持ち上げた左腕——剥き出しの歯車と真鍮管で組まれた義肢から、蒸気の煙と、潤滑油と煤の匂いがふわりと漂い、朝日を鈍く照り返す。
「ちくしょう! 昨日の仕事早く終わったからって、酒場なんかに行くんじゃなかった!」
路傍にある露店の店主たちが、笑いながら声を飛ばす。
「またかシアン!」
「今日はグレンダさんに怒鳴られるぞ!」
「誰のせいだと思ってんだよ! おっさんらが昨日しこたま俺に飲ませたせいだろうが!」
必死に石畳を蹴り、その場を走り抜けようとしたその時だった。
街の奥から金属が軋むような轟音が響く。
ギギギギギッ!!
続いて人々の悲鳴。
「蒸気機関車の脱輪だ!!」
聞こえてきた音と言葉に、シアンの足が思わず止まった。
「……!」
さっきまで遅刻に焦っていた顔つきが、一瞬で鋭いものへと変わると、迷いなく音のした方へ駆け出した。
建物が密集する貨物搬入口。
黒光りする巨大なボイラーと、何重にも這わされた配管。
鉄とリベットの塊である蒸気機関車が、激しく蒸気を漏らしながら石畳を削り、傾いている。
白い蒸気を吹き上げるその周りには、騒ぎを聞きつけた人が既にちらほらと集まっていた。
作業員たちがレールへと戻そうと必死に押すが、巨大な車体はびくともしない。
「くそっ……!」
「このままじゃあ、しばらくは運休になりそうだなあ……」
諦めかけたその時、シアンがその場へと駆けつけた。
「おい! 大丈夫なのか!?」
作業員たちが一斉に振り向く。
「シアンじゃないか! ああ、奇跡的に怪我人は出なかった!」
その顔に安堵が広がる。
「お前も手伝ってくれないか! 俺らだけじゃ、これは戻せそうにないんだ!」
シアンは車両を見上げ、次に周囲の確認をした。
ここは狭い路地で、左右は建物。クレーンなんかが入れるような幅はない。
数秒だけ考え込み、もう一度、今度はじっくりと周囲を見回す。
建物、煙突、レール、機関車。
そして、最後に自分の左腕をじっと見つめた。
「いけるな、相棒」
ニヤッと笑ったあと、深く息を吐いた。
「みんな、聞いてくれ!」
全員の視線が集まる。
「俺が少しだけ車両を浮かせてみせる!」
「浮かせるだぁ!?」
「クレーンもねぇのにどうやって!」
シアンは全員に見えるように自分の左腕を掲げた。それと同時に義肢の蒸気弁がプシュン、と短く鳴いた。
作業員の中にシアンと同じような義肢を持った男が、その音を聞いた瞬間に目の色が変わった。
「そうか! お前の左手は蒸気義肢じゃなくて、蒸気兵装だったな!」
蒸気兵装。
この国に一般に普及する蒸気義肢とは別格の出力と、多彩な兵装機構を備えた特殊義肢。
シアンはその言葉に小さく頷く。
「ああ! だから、俺を信じてくれ!」
バシュンッ!!
左腕から破裂するような音が鳴ると、鋼鉄製のワイヤーアンカーが射出された。
ワイヤーはそのまま、先頭車両のカウキャッチャーに巻き付けられる。
シアンはすぐに近くの建物の壁を蹴り、一気に上へと駆け上がる。
「なっ……相変わらずすげえ身のこなしだなッ!」
シアンはあっという間に建物の屋根へとたどり着いた。
見下ろす視線の先はただひとつ、脱輪した先頭車両。
「よし! 始めるぞ!」
シアンが叫ぶと同時に、左腕のワイヤーを強く巻き上げ始めた。
内部のチャンバに一気に高圧蒸気が送り込まれ、肉厚な真鍮のパイプがビキビキと鳴動する。
プシュゥゥゥゥッ!!
排圧スリットから吹き出した白煙がシアンの髪を激しく揺らし、幾重にも噛み合わされた特製の平歯車が甲高い作動音を立てて超高速で回転を始める。
一瞬でワイヤーが限界まで張り詰めた。
「ぐぬぬぬぬ! 頼む!」
義肢の接合部分から嫌な音が鳴り、焼けるような熱が伝わる。
内部の圧力計の針は、完全にレッドゾーンへと振り切れていた。
「お、おい! シアンやっぱりやめとけ!」
「期待してすまん! 早くワイヤーを緩めろ!」
「いくら蒸気兵装でも、この車両を持ち上げるなんて無理だ!」
だが、シアンは止まらない。
「ここで止めたなんてばあちゃんの耳に入ったら、ぶっ飛ばされるからなあ!!」
「あ、上がりやがれぇぇぇッッ!!」
給気弁が爆音を上げ、ピストンが激しくストロークする。
機械の咆哮とともに、あの鉄とリベットの巨体が――
ズ、ズ、と、ほんの数センチ、石畳から浮き上がった。
「ほ、本当に上げやがった!!」
「今だ!!」
真っ赤な顔をしながら、シアンは叫ぶ。
「いくら蒸気兵装だって、これはさすがに俺一人で全部は無理だ! みんなも手伝ってくれ!」
「まかせろ!!」
作業員たちが一斉に押す。
「うおおおお!!」
ガコン!!
車輪がレールへ戻り、傾いていた車体が安定する。
静寂のなか、互いが互いの顔を見つめ合った。
「戻ったぁぁ!!」
作業員だけでなく、その様子を見ていた野次馬からも歓声が上がった。
「助かった!」
「やっぱりシアンだ!」
シアンは屋根から飛び降りる。
「いや」
照れくさそうに頭をかく。
「みんなが押してくれたからだよ」
その時、シアンの目がレールへ向く。
「……?」
しゃがみ込む。
レールの固定ボルトが一本。
切断されている。
工具で故意に。
「これ……事故じゃない……?」
その瞬間、路地の奥からこちらを覗き込む怪しい男と目が合った。
男は舌打ちすると踵を返す。
「逃げた!」
シアンは叫ぶ。
「おい、待て!!」
左腕を構える。
バシュン!!
ワイヤーアンカーを建物へ突き刺さし、巻き戻すその勢いでシアンの身体が一気に宙へ舞い上がった。
屋根から屋根へ、煙突を蹴り街灯を支点に旋回する。
まるで街全体を縦横無尽に駆けるように。
逃げる男との差が、一瞬で縮まっていく――。
そして、あっという間にシアンは男の背に追いついた。
「俺から逃げようったって無駄だぜッ!」
男は振り返るや否や、腰から短い鉄パイプを引き抜き、思い切り振り抜く。
「どけぇぇッ!」
ガキィンッ!!
甲高い金属音。
シアンは左腕で難なく受け止めた。
火花が散る。
「悪いけど――」
男の懐へ一歩踏み込む。
「逃がす気はねぇ」
右拳が鳩尾へ沈む。
「ぐはっ……!」
男の身体が折れると同時に足を払う。
バランスを崩した男が石畳へ転がった。
シアンはその背中へ膝を乗せ、左腕で両手首を押さえ込む。
「終わりだ」
暴れようとする男だったが、蒸気兵装の力には敵わない。
「くそっ……!」
その時だった。
「シアン!」
貨物搬入口から作業員たちが駆け寄ってくる。
「誰だそいつは!?」
「たぶんだけど……」
シアンは男の懐を探る。
すると、小さな革袋が出てきた。
中から転がり出たのは、一本の切断された固定ボルト。
レールに落ちていたものと、切断面がぴたりと一致していた。
「やっぱり……」
シアンは静かに呟くと、作業員たちにボルトを見せた。
「こいつが脱輪させた犯人だ」
シアンはもう一度男に目を向ける。
「なあ! どうしてこんな事したんだよ!」
「……へへっ、仕事をクビになった気晴らしさ」
作業員たちの表情が険しくなる。
「とんでもねぇ野郎だ……」
「駅まで連れていく。警察には俺たちから引き渡そう」
男の両腕を縛り上げながら、作業員の一人がシアンへ振り返った。
「本当に助かった」
「お前が来てくれなきゃ、今日は一日中あの機関車は動かなかっただろうな」
別の男も笑う。
「さすが、この街一番の何でも屋、スチーム・フィールドのエースだな!」
シアンは照れくさそうに頭をかいた。
「エースなんてよしてくれよ。それにあれは俺だけじゃ無理だったさ」
「みんなが協力してくれたから戻せたんだよ」
その言葉に、作業員たちは顔を見合わせて笑う。
「ははっ、お前らしいな」
犯人を引き立てながら去っていく男たち。
その背中を見送った――その時。
ドクン。
左腕の奥で、小さく何かが脈打った。
「……?」
思わず左腕を見る。
内部の蒸気圧計に異常はない、蒸気漏れもない。
「なんだ今の……」
金属の指をゆっくり握って確認しようとするが、違和感は一瞬で消えていた。
「整備不良か……? いや、昨日ちゃんと整備したばっかなんだけどな……」
左手を握ったり開いたりと動作の確認をしてみる。
「シアン!」
作業員の一人が笑いながら振り返る。
「今夜一杯どうだ!」
「今日は俺たちのおごりだ!」
「機関庫のみんなも喜ぶぞ!」
シアンは嬉しそうに笑う。
「お、いいねぇ――」
だが、そこで言葉が途切れ時間が止まったようにシアンは固まった。
ぎこちなく懐から時計を取り出し、針を見て数秒の沈黙する。
「やっべぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
顔色が一気に青ざめた。
「遅刻してたの忘れてたァァァ!!」
工具箱を背負い直し、石畳を全力で蹴る。
「ばあちゃんに殺されるぅぅぅ!!」
「あっ、おいシアン!」
「夜は来いよー!」
「ははッ! 生きてたらねーッ!!」
軽口を叩きながら、シアンは朝の街へと駆けていく。
白い蒸気の中へ、その背中はあっという間に消えていった。
シアンはまだ知らない。
この日の夜を境に——
自らの歯車が、静かに噛み合い始めることを。
──蒸気の心臓──




