白兎事件編40(文化祭・8/氷塊)
戦いの終わりが見えてきました。
(柚木)
体育館は、中学校舎と高校校舎の間に位置している。
全校生徒が入るくらいの広さを有した体育館の中に、その人は立っていた。鮮やかな赤にもピンクにも見える髪色を流して、優雅に唇で弧を描いている。
その足元に、ふつふつと黒が湧き出ている。
瘴気。人に害をなす悪いものだ。体育館の中全体に、黒い湖が出来ている。
「女に戻った感想はいかが?」
「別にない」
フィオネを庇うように立って、その人を睨み付ける。
理の外。神よりも高次の存在。万物の祖。
ゼウスと森谷が香流は出来るだけ近寄らないようにと言っていた存在だ。その理由もおれはよく知っている。
「最初から女に生まれてればあんなにおぞましい思いしなくても済んだのにねぇ?」
「女でも男でも嫌なもんは嫌だよ」
「あっは。嫌だった?本当に?自分から望んで足開いてたじゃなぁい?」
「何言われてももう響かねぇよ。おれはもうあそこへは戻らない」
体育館へ足を向ける。
あいつは敵だ。倒さなきゃいけない。瘴気を収めなければ人間に被害が出てしまう。
大丈夫、絶対負けない。怖くない、何も考えなければ大丈夫な、はず―――
嘘だ。全然怖い。また引き摺り落とされたら這い上がれる自信はない。
怖い。聞きたくない。本当は、何もかも放り出して逃げ出したい。
「香流、待って」
気付けば震えていたおれの手を取って、蓮が隣に並んでくれた。
ほ、と肩の力が抜ける。おれ、弱くなったな。でも蓮がいるなら大丈夫だって思える自分は嫌いじゃない。
「⋯⋯っ、お前、生きて⋯」
「はいはい、体調万全で帰ってきましたよ。アンタをぶちのめすのは俺のお仕事です」
「えっ、⋯でも」
「あんな醜悪なオバサン香流が相手にすることないよ。アイツは俺と黒田さんに任せて」
「あっれぇ?」
体育館の外から覗いていたサタンが、球根を抱えたまま顔を引きつらせている。
蓮は俺を体育館の外へ連れ出すと、龍司さんへ向かってとんと体を押した。龍司さんがおれの両肩に手を添えて受け止める。
「龍司さん、香流と一緒に魔物の発生源を探して来て」
「別に俺が相手しても宜しくてよ?」
「いや、アレは俺がやります。香流、『次は俺が全員消してあげるから』って約束したでしょ」
「で、でも⋯⋯」
蓮の顔が近付いて、唇に何かが覆い被さる。
蓮はおれの頭を撫でて、嬉しそうに微笑んだ。その顔がムカつくほど格好よくて、一気に顔が熱くなる。
「愛してるよ」
蓮はしぶるサタンを招き入れると、体育館の扉を閉めた。
悪魔の王様だけど、高次の奴を相手にして大丈夫かな。脳の片隅でそう思いながらも、思考が纏まらない。うまく言葉も紡げない。
「⋯〜〜〜っっ」
「あら、満更でもない感じ⋯⋯」
「も、もう、行く!」
体育館から背を向けて、フィオネのトゲを取る。
ここにいたら危ないから一緒に行きたい。けど、フィオネが動かない。困っていたら、龍司さんが「どっこいせ」と言いながらフィオネを担ぎあげてくれた。
「圧縮していい?」
「あ、圧縮?」
言うが早いか、龍司さんはフィオネをぎゅっと手のひらで押し潰す。
瞬間、体育館から、ドン、と重い音がした。
体育館へ目を向けたおれの腕に、はい、と龍司さんが何かを乗っけてくる。
「魂が変質してるから、人に戻すのは難しいと思う」
「⋯⋯っ」
「でも、それならまだマシでしょう」
おれの腕の中に、猫が収まっている。
綺麗な水色目をして、瞳と同じ水色の毛が生えている。猫のフィオネはおれの頬を舐めて、微かに喉を鳴らした。
「ご、ごめんなぁ⋯っ!」
「ほら、俺達はやるべきことをやりましょう」
「うん⋯っ」
なんでフィオネがこんな目に合わなきゃならなかったんだろう。
悔やむ気持ちが溢れてくる。でも、今はそればかり考えていられない。蓮が言った通り、魔物の発生源を見つけ出さないと。
いくら生徒達が戦闘慣れしていると言っても、いずれ疲弊してくる。中川の結界だっていつまでも持つわけじゃないし、食糧だって尽きるかもしれない。
蓮の言っていた体育館トイレまで来ると、ひらりと一枚の羊皮紙が落ちていた。
触れようとすると、フィオネがシャーと威嚇する。これを外して魂を変質させられたんだ。その横から、龍司さんがひょいと羊皮紙を持ち上げる。
「こりゃ性の悪い代物だね。召喚紋でもなんでもない、ただの呪物だよ」
「じゅぶつ⋯⋯」
「外した者の魂を魔のものへ変質させる。魔界の物質が嵌め込まれてるよ」
「そんなものが体育館のトイレに貼られていたのか⋯」
文化祭では体育館は使われないはずだよな。
でも、集会とかがあった?生徒を狙う攻撃手段だったんだろうか。そうだとしたらかなり悪質だ。
⋯⋯いや、最初から悪質だった。
罪もない人を狙ったこと。おれはいいとして、純潔の子ども達にまで手を出そうとしていたこと。
フィオネ達のやったことは許されることじゃない。でもそれよりも、それを先導していた救世主と言うやつを、おれは許せない。
「犠牲者がひとりで済んで幸いだったね」
「幸いじゃない。フィオネが犠牲になってくれただけだ」
「君は優しすぎるねぇ」
「優しくなんかない」
フィオネを抱きしめて、必死で涙を堪える。
なんで、こんなこと出来るんだ。おれひとり殺したかったなら、直接来いよ。こんな回りくどいことをして、もし万が一翔真や夏椎に何かあったらと思うと怖くて仕方がない。
「⋯⋯っはやく、終わらせたい⋯!」
おれがこんなんじゃダメだよな。情けなくてすごく悔しい。ごしごし目を擦っていると、ふわ、と何かが頭の上から降ってきた。
顔を上げると、さっき木にはさまっていたネズミみたいな毛玉が浮いている。
「なに?」
『柚木さん、小型の魔物集めてきたでやんす!』
パッセルの声がする。その隣にはルフの姿もあった。
そう言えば、ふたりともいつの間にかいなくなってた。ぽかんとしていると、ルフがおれの肩に止まった。
『コイツらが出てきたところ案内してくれるでやんす!』
「何この雀?」
「おれの友達。パッセル、魔物とも話せるの?」
『あっしはアスラゼネ星の王子様でやんすからね!』
ふんぞり返るパッセルが頼もしい。
地球の動物とも話せるなら、別の星の動物とも話せるか。パッセルがここにいてくれて良かった。おれは別の星の生き物とは話せないから。
『ひぎゃー!猫がいるでやんす!』
「この猫はフィオネだから大丈夫だよ。それで、魔物がどこから来たって!?」
『裏門でやんす!』
裏門、ここからすぐ近くだな。
走り出すおれの肩に乗って、パッセルが頬を寄せる。いいやつだな、パッセルも。頼りになるし雀の姿は可愛い。
「それにしてもなんで教えてくれんのかね?」
「そ、それもそうだな」
『柚木さんが助けてくれたからですって』
ふわふわと浮いているネズミの毛玉は、確かに助けた覚えはあるけど。
足元に木の上でダンスしていた小人が並んで走っている。ぽかんとしていると、隣で龍司さんがくっくっと声を上げて笑った。
「本当に面白い子だ、君は」
「いや、何もしてないけど⋯⋯」
「そう、何もしてないんだよ。自然と誰かの助けになっている君は、紛れもなくこの星の神様だね」
な、なんか褒められた。
気付けば小型の魔物がたくさん増えてて、その向こうには狼みたいな魔物もいる。
裏門へ辿り着くと、裏門の右手、鉄柵の線に沿って空間が捻れていた。灰色の柵なのに、茶色の線が入っている。ヒビのようにも見えるけど、そこが魔界の入口だと一目で理解出来た。
そこから、黒い煙がもくもくとあがっている。
煙は空間で収束すると、魔物へと姿を変えた。3つ目の狸のような魔物は、おれに威嚇したあと龍司さんを見て、小さくなったかと思えばおれの足元に擦り寄ってくる。
「さて、どう閉じるかな」
「どこかに召喚紋があったりするのかな」
「向こうに流れてしまった可能性も考えられるね。強引な手を取るなら、そうだな⋯⋯魔物を変質させて蓋をしてしまおうか?」
恐ろしいことを言う人だ。全部の魔物が俺の後ろに隠れてくる。
「可哀想だろ」
「比較的速やかな解決策ですけどねぇ」
「まぁ、そうかもしれないけど⋯⋯。おれはもう誰も犠牲にしたくない」
それは、魔物だって同じだ。
コイツらだって、好きでここに来てるんじゃない。習性がそうさせてるだけで、人を襲いたくて襲ってるばかりじゃないはずだ。
現におれは襲われてない。しゃがみこんで狼を撫でていると、頬を舐められた。まるで普通の犬みたいだ。
「なぁ、どうしたらいいと思う?」
尋ねると、魔物達は切れ目に向かって並んでいく。
1匹がぴょんと跳んで、切れ目の向こうに帰っていった。へぇ、帰れるのか。他の魔物も何匹か向こうへ帰っていって、角の生えたうさぎが向こうからまた戻ってきた。
うさぎは、破けた紙を咥えている。手に持つと、ぞわ、と背筋が凍るような感覚。これは良くないものだと直感で分かる。
「龍司さん、これだ!」
「どれ?⋯⋯ふむ、確かに魔力が残ってるね。これを繋ぎ合わせたら閉じられるかも」
「ありがとう、えらいなお前!」
うさぎの魔物を抱き上げると、近くにいた魔物が一斉にこっちを見た。
ちょっと怖い。と思う間もなく、一目散に切れ目の向こうや近くの茂みに散っていく。
「え⋯⋯?」
「はは。君のハグが欲しくて張り切っちゃってまぁ」
「あ、女の体だから!?柔らかいのかな!?」
「いやぁ、違うと思うけど」
龍司さんは裏門の前に座り込んだ。とんとんと地面を叩いて、おれも座れと指し示す。
ここは音が遠く聞こえる。静かで薄暗い場所だけど、パッセルとルフがおれの肩にいて、膝の上にはフィオネがいる。
なんだか妙にほっとする。ほっとしちゃいけないんだけど。ぶんぶん首を振っていると、パッセルが頭の上に移動した。
『あっしが見張ってますから、寝ててもいいですよ』
「う、いや、そういうわけには」
「なら話でもするかい?聞きたいことがあるならなんでも聞いていいよ」
「⋯⋯なんで?」
この人がおれに優しい理由がよく分からない。
ふふ、と龍司さんは微笑んでいる。その顔は夏椎によく似ていて、やっぱりどこか安心する。
「俺は君のことを一方的に知っていたんだよ」
あ、今度は足が6つあるよく分からない生き物が紙の切れ端を持ってきてくれた。
なんだか報酬制のようなので、うさぎの魔物みたいに抱き上げる。男の時と違って魔物がフレンドリーだな。これはこれで便利かもしれない。
「川崎と石田から聞いていたし、木戸も教えてくれたしね。それで在学中に一目会いに行ったんだけど」
「そうなの!?」
「君が中学1年生の体育祭の時にね。いやぁ、びっくりしたなぁ。この世にこんな綺麗な子がいるんだと驚いて、俺は近付いちゃいけないと戒めたんだ」
「⋯⋯あぁ、あの時は記憶がなかったから」
綺麗だと評される意味は分からないけど、あの時はまっすぐに自分はばあちゃんに育てられた男だと信じていた。
その認知が歪められて、今では女でも普通に行動出来ている。もはやどっちでもいい。あの時のおれがこの姿見たらびっくりするだろうなぁ。
「実は在学中、夏椎と一緒に学校通ってたんだよ」
「夏椎も学校にいたの!?」
「高校出るまで一緒にいたんだよ。奇跡的に会わなかったよね。いや、仕組まれていたのかな⋯。たぶん、俺は君に会った時から敵対する気はなかったから」
神より上の次元の奴らに生み出された龍司さんと、神より上の次元の奴らに嫌われているおれと。
本来なら敵対していてもおかしくはない。でも、龍司さんは優しい瞳で俺を見下ろしている。そこに敵意はないし、おれだって夏椎の父親と戦うのは嫌だ。
「木戸さえいなきゃ口説いてたんだけどねぇ」
「べ、別にアイツは関係ないだろ」
「本当に?」
肩を抱き寄せられて、龍司さんの胸元にもたれかかる形になってしまった。
固った。蓮並に固い。なんだこのムキムキ。
羨ましい⋯!おれだってちゃんと男だったらゴリラなのに!腕立て伏せも腹筋も出来るのに!
「おれもこんなふうになりたかった⋯⋯!」
「本当に面白いね君」
今度はコウモリみたいな魔物が紙を持って飛んできた。
みんないいやつだな。森谷のことも知ってるんだろうか。そうだ、森谷がこの姿見たらなんて言うかな。
びっくりするだろうなぁ。アイツのびっくりした顔なんて久しく見てないから、ちょっと楽しみだな。
抱き上げたコウモリを放すと、パタパタ飛んで近くの木に止まった。少しずつ魔物がまた増えている。ここだけ魔界みたいだな。
「色気ないねぇ」
「いろけって何?」
「仮にもオトナの男に抱き寄せられてドキドキしないの?」
「だって夏椎の父親だし⋯⋯」
龍司さんの手がおれの頬に添えられる。
手ぇ大きいなぁ。熊みたいだな。じっと見ていると、あ、夏椎と違う場所にホクロがある。
夏椎は父親似なんだな。いつかこんなふうに大きくなって、おれを見下ろす日が来るのかな。
それはそれで楽しみかもしれない。子どもの成長は怖いけど、それ以上に喜ばしいことだもんな。
「可愛い」
って、あれ、ちょっと待て?
ちっか。近い。近い!慌てて押しのけようとする手を握られて、また距離が近くなって、
うわー!!!やばい!!
「ちゅーはしない!!」
おれが叫んだのと、フィオネが龍司さんの手を引っかいたのと、パッセルがおれと龍司さんの間に割り込んだのと、ルフが龍司さんの額をツンツンつつくのとほぼ同時だった。
龍司さんは痛かったはずなのに、堪えきれないというように肩を震わせている。3匹がおれの前に立ってそれぞれ龍司さんに威嚇した。
「ふ、ふふ⋯っ、小学生⋯っ」
龍司さんが崩れ落ちて爆笑している。もしかして女になったからってからかわれた!?
自分でも顔が赤いのが分かる。びっくりした!女になったからってそんなホイホイ男とちゅーはしないんだからな!
まぁ男の時に女とちゅーもしたことないけど!!
「それにしても可愛すぎるねぇ、君は」
「もー!女扱いするな!」
「いや、実際女の子だし⋯」
フィオネが下りて、誰もいなくなったおれの膝に今度はカメっぽい魔物が乗ってきた。
カメの魔物の後ろに、ダンスをしていた小人の魔物が並んでいる。すごい、みんな召喚紋を持って来てくれてありがたい。
「みんな、ありがとう」
ちゃんと1匹ずつ抱き上げてお礼をする。
持ってきてくれた紙切れは龍司さんに渡すと、どういう原理か繋ぎ合わせてくれる。魔法みたいな所作に見とれていると、龍司さんがまた俺に手を伸ばしてきたからパッセルとルフがその手の上に止まった。
「ガードが固いねぇ」
「龍司さんのムキムキも固い」
「あはは。上手いこと言う」
魔物達が紙きれを探し出して、おれが受け取ってお礼をして、龍司さんが召喚紋を作り直す。
龍司さんがここにいてくれて助かった。おれひとりだったらどうにもならなかった。
「龍司さん、ありがとう」
「どういたしまして。それにしても何も聞かないのね」
「聞いて龍司さんの不利益になるのは嫌だ」
夏椎の父親に迷惑はかけたくない。仕事だって芸能人なんだから、怪我させるわけにもいかない。
おれがアイツらに嫌われてる理由は何となく分かっている。面白くないからだ。おれは人に恵まれているから、おれが不幸にならないのが癪に障るんだろ。
そんなおれを助けて、この人が無事で済むのか分からない。ゲートは塞ぎたいから手伝ってもらいたいけど、それ以上の事をしてもらおうとは思わない。
「⋯⋯これ以上惚れさせないでくれないかな」
「大丈夫、おれは男に戻るから」
「そういう事じゃなくて⋯⋯。⋯⋯ふふ、その天然具合は夏さんに似てるなぁ」
「夏さん?」
「夏椎の母親。真っ当な人間で、心臓に病を抱えていた」
フィオネが膝の上に戻ってくる。パッセルも黙っておれの肩の上に留まって、反対側にルフも留まる。
「病院で出会って、一目惚れだった。初めて誰かにありがとうって言われたんだ。あれは俺が14歳の時だったな」
「14歳⋯⋯」
「夏さんは18歳で、大人のお姉さんって感じだったよ。20歳まで生きられるか分からないって言われていたそうだ」
また、トカゲみたいな魔物が紙きれを持ってきてくれた。
抱き上げて、もらった紙きれを龍司さんに手渡す。触れた龍司さんの手は温かい。
「お父さんもお母さんももうお見舞いに来なくて、夏さんはいつもひとりだった。夏さんは学校に行ったことがなかったんだ。だから俺に学校へ行って、色んな話を聞かせて欲しいと願ってくれた」
「学校に⋯⋯」
「親父を説き伏せて学校へ通い始めて、俺の世界は広がった。坂田先生知ってる?英語の先生で、めちゃくちゃ厳しいけどいい人で、俺に常識をたくさん教えてくれたんだよ」
「坂田先生知ってる!おれ、大好きだった!」
「あは。俺も大好きだった」
龍司さんは年上だけど、子どももいるけど、芸能人だけど、今は普通の男の人に見える。
龍司さんの声が柔らかい。この人、いい人なんだな。夏椎の父親だから当たり前か。
「俺は学校の話をして、夏さんはニュースで聞いた事や病院のことを教えてくれる。幸せだったなぁ、穏やかな時間だった。⋯⋯夏さんの発作が起こるまでは」
「⋯⋯っ」
「もういよいよもたないと言うときに、夏さんが言ったんだ。『私は何も残せずに死にたくない。私の生きた証を残したい』⋯⋯人の欲は浅ましいね。俺も、あの人を残したいと思った。絶対死ぬと分かっていたのに、絶対殺すと分かっていたのに、俺は夏さんに手をかけた」
龍司さんの手がおれの頬に触れる。
そうか。だから夏椎は半分人間なんだ。
そうか。だから夏椎は生まれてこられたんだ。
この人でなければならなかった。夏さんの気持ちが痛いほどよく分かる。
「夏椎が生まれて、立ち上る煙を見上げながら俺は絶対夏椎を夏さんよりも長生きさせると決めた。どんな手を使っても育てるって決めたんだ。まぁ色々揉めたけど、俺は夏椎のために利用出来るものは利用すると決めてるのさ」
おれの長くなった髪に口付けて、龍司さんは柔らかく微笑む。
頬を伝う涙を拭って、おれも微笑み返した。
龍司さんがいい人だって知れて良かった。夏さんのこと、夏椎のこと、本当に大事にしてるんだな。
「龍司さんも、いいやつ」
「あら、そう?嬉しいわ」
「おれは親のことは知らないけど、親が子どもを大事にする気持ちは分かるよ。おれもばあちゃんと森谷に大事にしてもらってたから」
「⋯⋯君も―――」
龍司さんが何か言いかけた後ろで、どさ、と大きな音がした。
驚いて目を開くおれの視線の先から、茶色のもふもふが飛んでくる。
「翔真!」
「香流お兄ちゃん!」
しっかりと抱きしめて、もふもふに頬擦りする。
良かった、無事だった!信じてたけど、本当に良かった!
「わぁー!?泣かないで香流お兄ちゃん!」
「よ、良かっ⋯!ごめん、勝手にぃ⋯っ」
「あはっ、泣いてるとこ初めて見た!」
楪羽と同調したせいで涙が止まらない。
翔真が人に戻って、抱きついてくる。かと思えば、すぐに身体を離して目を丸くしていた。
「な、なんっ」
「何で父さんがここにいるの!?」
「夏椎〜!どうやら素敵な冒険してきたみたいだなぁ!」
「香流くん、ただいまです!」
すごい、一気に賑やかになった。
愛敬も無事だ。分かってたけど、良かった。ほっとしていると愛敬がおれの顔を覗き込んでくる。
「あれ、お胸がありますね」
「あ、うん⋯⋯今は女になってるから」
「俺達が向こうに行ってる間に何があったんですか!?」
「身体は大丈夫なのか!?」
夏椎と晃まで詰め寄ってくる。別に悪いことはしてないのに、悪いことをした気持ちになってつい「ごめんなさい」と謝ってしまった。
「まぁまぁ、生きてると色々あるよ。可愛いからいいじゃない」
「父さんはどんな立ち位置からの発言なの?」
「まぁどっちでも顔は一緒ですけどね」
「ふ、複雑⋯⋯」
わいわい話しているその後ろで、アリアスの姿もあった。
良かった、アリアスも無事だったんだな。フィオネを抱きしめたまま立ち上がってアリアスの元へ急ぐ。
「アリアス」
声をかけると、アリアスの両目から涙が溢れた。
えっ、おれ何かしたっけ。オロオロしているおれの腕から、フィオネがぴょんとアリアスの足元へ飛び降りる。
「け、怪我したのか?フィオネは猫になったけど、怪我もなくて優しいままだぞ」
「⋯⋯っ、なんで、」
「あ、⋯⋯えっと?愛敬を連れて帰ってくれてありがとう」
向こうへ行く一番の目的は愛敬を連れ帰ることだもんな。みんな無事で良かったし、愛敬が帰ってきたから魔物騒ぎももう大丈夫だ。
足元に魔物が寄ってくる。丸めの蜘蛛みたいな魔物を抱き上げて、紙切れを受け取る。
「龍司さん、これで最後?」
「うん、最後だよ」
「良かった。じゃあ、お前達ともお別れだな」
しゃがみこんで、魔物達へ手を伸ばす。
短い間だけど、集まってくる動物のような魔物は昔を思い出して少しだけ懐かしかった。
みんなとお別れをしていると、小人のような魔物が何かを持ってきてくれた。さっき見つけた球根とは違う、青色の球根だ。
それと、石?黒い石。後は花だ。これは花壇の花だな。
「いいやつだなぁ、お前ら!」
あっという間に物だらけになってしまった。
魔物にもいいやつはいるんだな。最後に手を振って、切れ目に帰っていく魔物達を見送る。
全員帰ったのを見届けて、龍司さんに目を向けた。龍司さんは完成した召喚紋を指で弾くと、裏門に向かって吸い込まれていった。
そして、切れ目はどこにも見当たらなくなる。
舞っていた瘴気が薄くなっていく。霧が晴れるように青空が広がって、はぁー、とつい肩の力が抜けた。
って終わってないけど!
「そうだ、愛敬!蓮が高次のやつと戦ってる!」
「ありゃ、弱いのに大層なことですね。場所は?」
「体育館!」
「名前で呼んでることとか女の子になってることとか色々根掘り葉掘り聞きたいですけど、とにかく向かいます。香流くんは子守りよろしくです」
「みんなおれよりしっかりしてるけどな」
愛敬を見送って、次は龍司さんに頭を下げる。
「龍司さん、本当にありがとう!」
「いいのよ、いいのよ。夏椎の友達怪我しちゃ可哀想だもんね」
それもそうだな。さすがお父さん!
もう新しい魔物は出ないから、そのうち落ち着くだろ。愛敬が行ったからきっと蓮の方も大丈夫だ。
「夏椎と翔真と晃も良く頑張ったな!」
「ねぇ、おれも色々聞きたいことあるんだけど」
「とりあえず中川のところに行かなきゃ。もう魔物は出ないって報告しないと」
歩き出したおれの手を掴んで、アリアスが悲しそうな顔をしている。
そっか、フィオネはアリアスのお姉さんだもんな。
フィオネじゃなくて蓮を助けに行ってしまったのはおれのせいだから、アリアスが怒る気持ちも分かる。あのウニみたいな姿をアリアスに見られなくて良かった。ウニより猫の方が可愛いもんな。
「フィオネ」
腕を伸ばすと、フィオネが歩いてきてくれる。
抱き上げて、アリアスに腕を伸ばした。アリアスは何も言わずにフィオネを抱きしめる。
「フィオネはみんなを助けようとして猫になったんだ。すごく優しいお姉さんだぞ」
「⋯⋯⋯」
「でも、助けられなくてごめんなさい。本当ならきっとおれがやるべき事だったのに」
言った瞬間、フィオネから猫パンチされた。
痛くなくてつい笑っていると、後ろから翔真が飛び付いてきた。
「香流お姉ちゃん?」
「後で戻るから、お兄ちゃんでいいぞ」
「戻るの勿体ない気がしちゃう」
「父さん?」
「あはは。で、夏椎のクラスはどこ?俺はそれ見に来たのよ」
「今それ聞くの?まぁ、いいけど⋯⋯。香流さん、俺と父さんはお化け屋敷展示に行ってきます」
「えっ、今!?」
「早く見に行って仕事に戻らせないと。どうせまた勝手に抜け出して来たんでしょ」
「あははー」
ぐいぐい押しながら、夏椎は冷たい目を龍司さんへ向けている。
龍司さんは嬉しそうだ。仲良い親子だな。⋯⋯おれももう少し森谷に優しくしてもいいのかもしれない。
「香流さん、アリアスさんをお願いしますね。ほら、父さん行くよ」
夏椎が龍司さんを押して中学校舎へ向かって行ってしまった。
まぁ、魔物ももう出ないし龍司さんがいるならいいか。黙って見送っていると、晃も夏椎達について行ってしまう。
翔真はおれと夏椎を見比べたあと、唸るように喉を鳴らして晃の後をついて行った。何度も振り返って手を振るので、おれも手を振って返す。
「仕方ない、おれ達は先に行こうか。あっ、そうだ!中川のところに『白百合の純潔』のひとがひとりいたはず」
「⋯⋯なんで」
「石田のクラスが取り押さえてたんだけど、怪我はなかったはずだぞ」
「なんで、そんなに優しいんですか!」
急に大きな声で怒られた。
そんなこと言われても、おれは優しいと思って行動していない。
フィオネより友達優先したし、魔物を倒さなかったのも必要最低限以外の被害を出したくなかっただけだ。
子ども達の前で血を流したくなかったから、『白百合の純潔』の人も捕まえてるだけだし。
そもそも体育館の高次の存在も蓮に任せたままだ。おれがしたことと言えば落ちてきたフィオネを助けただけで、実際は⋯⋯女になっただけで何もしてないな?
「おれは優しくないぞ」
なんか落ち込んできた⋯⋯。
いや、おれは半分楪羽!楪羽を落ち込ませる訳にはいかない!
奮い立たせていると、ルフが頭の上をくるくる回って元気付けてくれた。パッセルも肩に乗って擦り寄ってくる。
やっぱり鳥は可愛いなぁ。元気出た。早く中川のところに行って安心させてあげないと。
歩き出すおれの隣に、フィオネが並んだ。あれ、アリアスが着いてこない。
「⋯⋯私、裏切ったのですよ⋯!」
⋯⋯そうだっけ?
「たくさんお世話になったのに、学校も行かせてもらったのに、香流さんを『白百合の純潔』に引き渡そうとしたのですよ」
フィオネが抱っこして欲しそうにしているので、フィオネを抱き上げる。
喉を鳴らして心地よさそうだ。猫の姿気に入ったのかな。でも、本当にもう人間には戻れないんだろうか⋯⋯。
「全然聞いてないじゃないですか!」
「あっ、ごめん!はい、聞きます!」
『柚木さんは気が散りすぎでやんす』
「はい。よく怒られます」
「もうっ⋯⋯」
肩を震わせてアリアスが泣い⋯⋯てないな、笑ってる。
やっぱり子どもは笑っている方がいい。裏切るとかよく分からないけど、そもそもアリアスは敵カウントだったんだから裏切るも何も、アリアスの正義に乗っ取った行動を取っていただけだ。
愛敬も帰ってきて、夏椎がアリアスを連れて帰ってきたなら、それはもう終わった話だ。
「アリアス、読み書き出来ないんだって?」
「⋯⋯は、はい」
「たくさん絵本を読むといい。書き写しも効果的だ。文字の習得効果は友達で立証済みだからな!」
『それ発案したの親分ですよね?』
「柳瀬が言うことなら説得力あるだろ!」
悪いことをしたって自覚があるんだから、アリアスは大丈夫だ。
これから先、もっと色んな事がある。子どもはたくさん学んで経験すればいい。やり直す機会が与えられたっていいはずだ。
「これから学校でたくさん友達出来たらいいな!」
「⋯⋯っう、ううぅ〜⋯っ」
『泣かせましたね』
「ごめんなさい⋯⋯」
『違いますよ。これは嬉し泣きでやんす』
パッセルは羽を少し動かして、つぶらな瞳をおれに向けた。
『ひとりの女の子を救えた柚木さんは立派でやんす』
「―――ばか」
『ありゃ、柚木さんまで』
「今は涙腺壊れてんだよぉー!」
ずっと、光の届かない沼の底にいるんだと思っていた。
手を伸ばして引き上げてくれる人達がいる。
好きだと言ってくれる人がいる。
ぼやけていた輪郭が、線を成す。おれはおれでいいんだよって、そう笑ってくれるもうひとりの自分がいる。
ばあちゃん、おれ立派な人になったよ。
おれちゃんとやれるよ。まだ分からないこともたくさんあって、自分のことそんなに好きじゃないけど。頑張って生きていくよ。
胸を張って生きていけるように。
ばあちゃんのくれた優しさを、これからも繋いでいくために。




