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反乱決起 ~陳宮は何故、曹操から離反したのか?~

いよいよ最後にして、本題となる、陳宮が曹操から離反して

兗州でのクーデターを引き起こすことなった動機と原因についての考察。

曹操は冀州牧・袁紹の上表によって兗州東郡太守として送り込まれたが、

しかしそれは袁紹の、兗州刺史・劉岱に対する、

内政干渉ともいえる行為だった。


そして劉岱のほうでもまた、彼らのそうした政治介入を嫌うかのように、

192年(初平三年)に発生した、青州黄巾賊の兗州大乱入の際に、

袁紹の爪牙というべき曹操を討伐軍に呼ばず、

また曹操の盟友にして、そして曹操と同様、袁紹傘下の一員でもあった

済北国の相・鲍信の助言に耳を貸さず、

自分達だけで強引に賊軍の中へ向かって交戦を仕掛け、戦死してしまった。


それとまた、

曹操の大親友であった同じ兗州内陳留郡太守の張邈にとっても、

曹操の東郡太守赴任は決して喜ばしいものではなかった。


何故なら張邈はかつて、

反董卓連合軍の盟主に就任してからの袁紹の傲慢な振る舞いに、

その態度を批判して袁紹との関係を悪化させてしまっていたから。


張邈は元来、袁紹とも親しい友人同士だったのだが、

しかし袁紹は張邈の批判に激怒し、即座に彼の殺害を命じた。

しかも袁紹からその張邈の殺害を指示されたのが、

他ならぬ張邈の大親友・曹操だったのだ。


それゆえ張邈にとって、“曹操だから安心”というわけにはいかなかった。


曹操は今ではほぼ袁紹の部将として彼から使われ、

しかも袁紹の力は強大だった。


曹操といえども親友の命を庇って、どこまで袁紹の命令に

抗い続けることができるのか・・・?


しかも曹操は一度、

反董卓連合作戦期間中に、張邈らのいた兗州グループ諸侯の

怠慢さに腹を立て、

彼らを見限り、そうして袁紹の傘下へと鞍替えしてしまっていたのだから。


詰まりそういう意味では、張邈は既に曹操から一度、関係を切られていたのだ。


だけでなく曹操は、戦死した兗州刺史の劉岱に代わって賊軍の撃退に成功すると、

今度は新たな兗州の領主にまでなってしまった。


詰まり立場的にも、この時点で曹操は張邈の上司になってしまったわけだ。


自分の殺害を命じられた人間が、自分の直接の上役になってしまったのだから、

張邈はとても落ち着いてなど入られなかったろう。


彼は領内での自分の身の安全を確保するかのように、

兗州内で密かに自分の味方を募り、

そして194年(興平元年)、曹操二度目の徐州遠征の留守中に、

実に州内の9割以上に上る勢力を味方に付けて、

曹操を兗州領内から追い落とすためのクーデターを引き起こした。




【陳宮は何故、曹操を裏切ったのか?】


しかしこの場合、張邈や劉岱と違って、

陳宮には別に、袁紹との間には何の遺恨もなかった。


そのため陳宮にとって袁紹との関係が、曹操に対して

謀叛を起こす理由にはならず、

実際、陳宮は自ら率先して“この人に任せれば全て上手くいくから”と、

兗州の重役達を説き伏せ、

曹操を新たな兗州のトップとして就任させたりもしていた。


とすると陳宮の場合ではまた、劉岱や張邈とは違った、

曹操に対して謀叛を起こす、別の理由が存在していたことになるのだが、

その理由とは一体、何だったのか・・・?




【兗州で孤立する曹操】


袁紹の任命によって兗州の東郡太守として送り込まれた曹操は、

袁紹との関係を悪くする張邈、あるいは刺史の劉岱にしても、

彼らから強く、州内での自分達の主権や独立性を脅かす者として、

その存在を警戒されていた痕跡が窺われるが、

しかし曹操が兗州で孤立化を深めていった理由はそれだけではなかった。


そもそも袁紹の内政干渉を嫌うといった、それだけの理由で、

兗州内の9割以上、ほぼ全ての勢力が曹操から離反して、

張邈の起こした反乱に一斉に足並みを合わせて同調するとは考えにくい。


だから兗州内に住む士大夫や豪族達にとって何かもっと直接的に、

領主としての曹操を不満に思う、そのような理由があったのではないか。


そうでもなければ9割以上もの城邑が、

一斉に曹操から離反するなどありえない話だ。


しかも、

そうした兗州での曹操の人気の悪さというのは、

曹操が何とか兗州での内乱を鎮圧し、

張邈、張超兄弟が死んで、陳宮と呂布を徐州へと追い出して、

そしてその後、196年(建安元年)、

豫州汝南・潁川両軍の黄巾賊を討伐して同地を奪い、

潁川郡の許県へと本拠を移し、

そこで長安から逃れてきた漢の献帝を奉戴するようになって以降も、

全く変わることがなかった。


『三国志 程昱伝』には、


「兗州尚未安集,(兗州は尚、未だ安集せず)」


などと、その様子が記されているが、

曹操はそうした事態に、

自らの本拠を許都に移し終えた後、自分が出ていった後の兗州の統治を、

尚書だった程昱を東中郎将、済陰太守、都督兗州事に任命し、

同地の支配を任せることにした。

程昱は兗州東郡東阿県の出身だったので、その点でも適任だと思ったのだろう。

都督兗州事とは軍事動員権を持った州の統治司令官といった職掌になる。



※(『三国志 程昱伝』)

「天子都许,以昱为尚书。兗州尚未安集,

复以昱为东中郎将,领济阴太守,都督兗州事。

(天子は都を許に定めると、程昱を尚書に任命した。

また程昱を東中郎将、済陰太守に任命し、

都督兗州事を引き受けさせた。)」



しかし問題はさらにこの後、

200年(建安5年)の官渡の戦いの際、

黄河の北岸から10万の大軍で兗州内へと攻め寄せてきた袁紹軍に対し、

都督兗州事として州の長官である程昱が鄄城で率いていた兵は、

何とたったの700人しかいなかった。


これはだから一州全部、全て合わせて、たったの700人のみである。


それ以上、集まらなかった。集められなかった。(笑)



※(『三国志 程昱伝』)

「袁绍在黎阳,将南渡。时昱有七百兵守鄄城,

太祖闻之,使人告昱,欲益二千兵。

昱不肯,曰:“袁绍拥十万众,自以所向无前。今见昱兵少,必轻易不来攻。

若益昱兵,过则不可不攻,攻之必克,徒两损其势。原公无疑!”太祖从之。

绍闻昱兵少,果不往。太祖谓贾诩曰:“程昱之胆,过于贲、育。”

昱收山泽亡命,得精兵数千人,乃引军与太祖会黎阳,讨袁谭、袁尚。

谭、尚破走,拜昱奋武将军,封安国亭侯。


(袁紹は黎陽に在って、まさに南に渡ろうとしていた。

時に程昱は七百人の兵を有して鄄城を守っていた。

太祖(曹操)はこれを聞くと、程昱へ人をつかわし、

兵二千人を増援しようと告げさせた。

しかし昱は認めずに、言った。:“袁紹は十万の軍勢を擁し、

向かうところ敵無しと自負しております。

そのため今、程昱の兵が少ないと見れば、必ずこちら軽んじて

攻め込んでくることはないでしょう。もし逆に程昱の兵が多くなれば、

袁紹軍のほうでも無視することができなくなり、攻撃するしかなくなり、

攻撃されば必ず向こうが勝ちます。

そうなれば我が軍では鄄城の兵と援軍の兵の両方ともを

無駄に損なうこととなってしまいます。

どうか公は、お疑いなさらぬように!」と。

太祖(曹操)はそれに従った。

袁紹は程昱の兵が少ないと聞き、果たして攻めてくることはなかった。

太祖(曹操)は賈詡に言った。:

“程昱の胆は時の孟賁・夏育、以上のものだな。”と。

程昱は戸籍を逃れて山や沼沢に逃亡していた者達を収めて精兵数千人を得、

軍を率いて黎陽で太祖(曹操)と合流し、袁譚・袁尚を討伐した。

袁譚・袁尚が敗れて逃走すると、程昱は奮武将軍を拝命し、

安国亭侯に封ぜられた。)」



余りの人数の少なさに、曹操も愕然としたのだろうw

慌てて程昱に援軍を送ろうとしたが、

それでもやっと2千人、しかも兗州の領外から。


程昱はそんな曹操の行為に対し、

むしろ少ないほうが返って敵に攻められなくていいからと、

援軍の受け入れを拒否したが、

しかし結局のところ官渡の戦いにおいて、曹操領であるはずの兗州は、

全く曹操の助けにもならなかった。


程昱はその後、兵士を無理やりかき集め、

黎陽で曹操と合流を果たしたとあるが、

黎陽とは黄河の北岸の地で、

詰まりもう、官渡の戦いが終わってしまった後のことだ。


しかも逃亡して山や沼に隠れていた逸民達を無理やり

引っ張り出して集めてって・・・、

要するにそれくらい、土地の人民達から避けられていたということだろう。


本来、戦となれば、州の長官は領内の豪族達に動員命令を掛けて、

兵士達を掻き集めることとなるのだが、

しかし袁紹軍との戦いにおいて曹操軍では、

そうした豪族達からの協力を得ることができなかったのだろう。


“助けてくれなかった”というのは、

これは後に、曹操を継いで初代・魏王朝皇帝となった曹丕が、

221年(黄初二年)に発した詔勅の中で、

ハッキリと自ら公式文書で、その当時の様子を書き残している。



※(『三国志 文帝紀』)

「壬午,复颍川郡一年田租。

魏书载诏曰:“颍川,先帝所由起兵征伐也。

官渡之役,四方瓦解,远近顾望,而此郡守义,丁壮荷戈,老弱负粮。

昔汉祖以秦中为国本,光武恃河内为王基,

今朕复於此登坛受禅,天以此郡翼成大魏。”改许县为许昌县。


(221年(黄初二年)、壬午の日(11日)、

また潁川郡の一年間の田租を免除した。

『魏書』に載せる詔勅に曰く:“潁川郡は先帝(曹操)が兵を起こし

討伐を始めた場所である。

官渡の戦いでは、四方が瓦解し、遠きも近きも傍観を願っていた中、

この郡だけは義〔义〕を守り、若者も壮年の者も武器を荷い、

老いも若きも軍糧を背負ってくれた。

昔、漢の高祖(劉邦)が秦中を国の本拠とし、

光武帝(劉秀)が河内を王業の基礎と恃んだが、

今、私もまたこの地で壇に登り、禅譲を受けたのは、

天がこの郡を以って大魏を完成させるべく補佐してくれたからである”と。

許県を許昌県と改めた。)」



と、

これが詰まり、

官渡の戦いの際に、袁紹軍と曹操軍との間で、

10対1と言われるほどの、力の差が付いた原因だろう。


袁紹はそのころ、河北4州に渡る広大な領域を支配していたが、

だがそれでいえば曹操だって、司隷、兗州、豫州、徐州と、

同じくらい広い領域を有していた。


しかし曹丕が語ったように、たとえ幅広い支配領域をもっていたとしても、

その殆どは間接統治ばかりで、直接統治の割合が極端に低かった。


何となれば、曹操は僅か潁川一郡の実効支配のみで、

4州10万の兵力を有する袁紹軍と戦っていたことになるのだ。


それは、大差が付いて当然だろう。


潁川郡は荀彧や荀攸の郷里であり、また許県で行った屯田で大成功を収めるなど、

ここはかなり統治が上手くいった場所だった。


一方で兗州のほうは「兗州尚未安集,」といった状態で、

また徐州では大虐殺を行っていた。


曹操が袁紹との戦いに敵を迎え撃つべく用意した軍事拠点の官渡城も、

兗州ではなく、司隷河南尹の地。


曹操は袁氏勢力を駆逐した後、

そのまま本拠を冀州魏郡の鄴県へと移していくが、

というより、

とても兗州の地には戻れなかったというのが実際のところではなかったか。




【兗州の統治に失敗した曹操】


曹操が青州黄巾100万の大軍を撃ち破り、彼が新たな兗州の領主となって以降、

兗州では州の外部から、内部へと向かって敵に攻め込まれることが多くなった。

それは曹操、袁紹らと敵対する袁術や陶謙から攻められたためで、

その点では曹操が新領主となったことで、

兗州では余計な戦乱の火種を抱え込む結果になってしまったともいえ、

また、それと一つ、

大きな問題が、例の「青州兵」だ。


曹操は撃退した青州黄巾賊を降伏させると、

そのまま自分の直轄兵として採用してしまった。


「冬,受降卒三十餘萬,男女百餘萬口,收其精銳者,號為青州兵。」


と、

兵士30余万に、100万人余りの捕虜を獲得し、

その中から精鋭を募って「青州兵」としたと。


30万に100万という数字はさすがにないだろうが、

当時、戦果報告は大体10倍増しで計算していたといわれるので、

およそ3万の10万くらいだったとして、

それでも大層な人数には違いない。


それだけの人数を一気に領内に受け入れるとなると、

やはり相応の混乱も生じてくるのではないか・・・?




【青州兵と良く似た、益州牧・劉焉が組織した直轄兵、東州兵の存在】


曹操が鎮圧した黄巾党の中から募って集めた直轄兵の「青州兵」は、

現在ではかなりポピュラーな存在となったが、

同じように君主直属の直轄兵団としては、

徐州牧の陶謙が自分の故郷の地から呼び寄せていた「丹揚兵」や、

それともう一つ、

益州牧の劉焉が率いていた「東州兵」の存在。


この「東州兵」も、君主・劉焉直属の直轄兵団だったのだが、

しかし益州ではこの「東州兵」の存在が、

まさに内乱勃発の元凶ともなってしまうのだった。



※(『三国志 劉璋伝』)

「英雄記曰:先是,南陽、三輔人流入益州數万家,收以為兵,名曰東州兵。

璋性寬柔,無威略,東州人侵暴舊民,璋不能禁,政令多闕,益州頗怨。

趙韙素得人心,璋委任之。韙因民怨謀叛,

乃厚賂荊州請和,陰結州中大姓,與俱起兵,還擊璋。

蜀郡、廣漢、犍為皆應韙。

璋馳入成都城守,東州人畏(威),咸同心並力助璋,皆殊死戰,

遂破反者,進攻韙於江州。韙將龐樂、李異反殺韙軍,斬韙。

漢獻帝春秋曰:漢朝聞益州亂,遣五官中郎將牛亶為益州刺史;

徵璋為卿,不至。


(『英雄記』に曰く:これより以前に、荊州南陽郡、

三輔(長安周辺の領域)の人々が数万家族も益州内へと流入していたが、

それらの者達を収めて、東州兵と名付けた。

劉璋は性格が柔和で、威厳がなく、

東州人がその土地に旧〔舊〕くから住んでいる民衆に侵暴を働いても、

劉璋は禁ずることができなかった。

政令には過ちが多く、益州の住民は非常に怨んだ。

趙韙がかねてより人心を得ていたので、劉璋はこの問題を彼に任せたが、

趙韙は民の怨みに基づき、彼らと一緒になって謀叛を起こした。

趙韙は謀叛を起こすと、荊州の劉表に厚く賂を贈って講和を求めるとともに、

密かに益州内の大豪族と結託し、共に兵を起こして、

還って劉璋を攻撃した。

蜀郡、広漢郡、犍為郡では皆、趙韙に呼応した。

劉璋は成都へと馳せ入って城を守った。

東州人は趙韙を畏れ、全員で並んで心を同じに力を合わせて

劉璋を助け、皆、死をかけて戦った。

遂に反逆した者達を破り、進んで江州に趙韙を攻めた。

趙韙の将だった龐楽、李異は離反して趙韙の軍を殺し、趙韙を斬った。

『漢献帝春秋』に曰く:益州が乱れていると聞いた漢王朝では、

五官中郎将の牛亶を派遣して益州刺史にしようと、

劉璋を徴して卿にしようとしたが、至らなかった。)」



・・・と、

これをザックリ、兗州で巻き起こった内乱のケースに当て嵌めて考えてみる。


陳宮が趙韙になり、東州兵が青州兵。

そして曹操は劉焉であり、劉璋だ。




【乱世の奸雄・劉焉】


劉焉は元々、都で宗正や太常といった高官を勤め、

南陽郡の太守をしていたこともあった。

三輔(長安周辺の領域)や南陽郡の東州人達が益州の地へと向かったのも、

その辺での劉焉との縁を頼りに、移住していったものと考えられる。


劉焉は彼らの到来を拒むことなく受け入れ、

東州人の中から「東州兵」と呼ばれる君主直属の直轄兵団を組織した。

この点、曹操が組織した青州兵と良く似ている。

そして劉焉にとってはこの東州兵こそが、

州郡で自らが領主として主権を確立するための貴重な

軍事戦力となったのだった。


そうでもなければ、普通は州牧や州刺史として中央から派遣されても、

領内の豪族達に背かれてしまえば兵士も満足に掻き集めることができない。


だから劉焉が益州へと赴任しようとした際なども、

そのころ益州では黄巾を自称する馬相、趙祇が1万人以上の軍勢を集め

反乱を起こしていたため、劉焉は州内へと入ることもできず、

荊州の東境で止まっているしかなかったという。


馬相らは先ず綿竹県の県令・李升を殺害すると、

次いで雒県を破り、益州を攻めて益州刺史の郤倹をも殺してしまった。


そもそも劉焉が朝廷から命じられて益州に向かうこととなった理由は、

州内で領民を迫害し暴政を布いていた、

この益州刺史の郤倹を逮捕することが目的だったのだが、

先に馬相らによって殺されてしまった。


しかしその後も李升らの反乱行動は収まらず、

彼らはわずか一月の内に蜀郡、広漢郡、犍為郡の三郡を破壊して暴れ回り、

そうして馬相はとうとう、自ら天子を名乗るまでに。


だがその反乱も益州従事の賈龍という人物が、

官民1千人余りの糾合して攻撃すると、

たったの数日で馬相らを敗走させてしまった。


そして劉焉はこの賈龍に迎えられて、

漸く益州内へと入ることができた。


が・・・、

劉焉自身の本当の目的は、

朝廷に命じられた益州刺史・郤倹の逮捕などではなく、

自分がそのまま益州の僻地で独立してしまうことだった。


劉焉は綿竹県に役所を据えると、

反乱を起こした者達を慰撫して受け入れつつ、

表面上は寛容と恩恵の政務を行いながら、

密かに抱いていた自らの野望を実現に移すべく、

様々に行動を開始していった。


劉焉は五斗米道の張魯を漢中に派遣して長安との交通を遮断させ、

その一方でまた、

州内での主権確立に邪魔となる、地元豪族勢力の排除を目論見、

王咸、李権ら十人余りの豪族達を、

関係のない罪で弾劾し処刑した。


だから劉焉が益州で反乱を起こした者達を懐柔して受け入れたのも、

おそらくは自分で、益州豪族達との戦いに利用しようと考えての、

行動だったに違いない。


この時点で劉焉の下に、既に東州兵までが

組織されていたかどうかは不明だが、

劉焉は地元豪族戦力との戦いに、

青羌という異民族の力まで利用することもあった。


初めに馬相らの反乱を鎮圧して劉焉を迎えた賈龍も、

このようにして野心を顕にした劉焉から離れ、反乱を起こしたが、

劉焉の動員した青羌の兵に敗れ、殺害されてしまった。



※(『三国志 劉焉伝』)

「是時(涼)州逆賊馬相、趙祗等於綿竹縣自號黃巾,

合聚疲役之民,一二日中得數千人,先殺綿竹令李升,吏民翕集,合萬馀人,

便前破雒縣,攻益州殺儉,又到蜀郡、犍為,旬月之間,破壞三郡。

相自稱天子,眾以萬數。州從事賈龍(素)領兵數百人在犍為東界,

攝斂吏民,得千馀人,攻相等,數日破走,州界清靜。龍乃選吏卒迎焉。

焉徙治綿竹,撫納離叛,務行寬惠,陰圖異計。

張魯母始以鬼道,又有少容,常往來焉家,故焉遣魯為督義司馬,住漢中,

斷絕谷閣,殺害漢使。

焉上書言米賊斷道,不得複通,又託他事殺州中豪強王咸、李權等十馀人,

以立威刑。

犍為太守任岐及賈龍由此反攻焉,焉擊殺岐、龍。

<英雄記曰:劉焉起兵,不與天下討董卓,保州自守。

犍為太守任岐自稱將軍,與從事陳超舉兵擊焉,焉擊破之。

董卓使司徒趙謙將兵向州,說校尉賈龍,使引兵還擊焉,

焉出青羌與戰,故能破殺。岐、龍等皆蜀郡人。>


(このとき益州の逆賊、馬相と趙祗らは、綿竹県において自ら黄巾と号し、

役務に疲弊した民衆たちを集め、一・二日の内に数千人を得て、

先ず綿竹令の李升を殺害した。吏民を集め、合わせて万余人になった。

すぐに進んで雒県を破り、益州を攻めて益州刺史の郤倹を殺した。

また、蜀郡、犍為郡に到り、一月の間に、三郡を破壊した。

馬相は天子を自称し、軍勢は数万になった。

益州従事の賈龍は兵数百人と犍為郡の東の境にいたが、

吏民を糾合して、千余人を得、馬相らを攻めると、数日で破れて敗走し、

州界は静まった。賈龍は吏卒を選んで劉焉を迎えた。

劉焉は綿竹県に治所を移すと、離反した者達を慰撫して受け入れ、

寛容と恩恵の政務を行いつつ、ひそかに異計を図った。

張魯の母は始め鬼道を行い、また容姿が若く見え、

いつも劉焉の家を往き来していた。

それゆえ劉焉は張魯を督義司馬として、漢中に往かせた。

谷に架けた橋を絶ち、漢の使者を殺害した。

劉焉は上書して、“米賊が道を断ったため、

都と交通することができなくなりました。”と言い、

また他の事に託けて州中の豪強だった王咸、李権ら十余人を殺害し、

自らの権威を立てた。

犍為郡の太守・任岐、および賈龍はこのことから

劉焉から離反して攻めたが、

劉焉は反撃して任岐、賈龍を殺した。

<『英雄記』に曰く:劉焉は兵を起こすと、

天下の諸侯と董卓を討つことをせず、

益州で守り自らの地位を保つだけだった。

犍為郡太守の任岐は将軍を自称し、従事の陳超と兵を挙げ劉焉を攻撃したが、

劉焉はこれを反撃して破った。

董卓は司徒の趙謙に兵を率いさせて益州へと向かわせ、

校尉の賈龍を説得し、兵を引き返させて劉焉を攻撃した。

劉焉は青羌の兵を出して戦ったため、

よく趙謙、賈龍らを破り、殺すことができた。

任岐、賈龍らは皆、蜀郡の人である。>)」



最終的に劉焉は益州での独立だけでなく、

漢王朝を転覆して自ら皇帝の身にまでなろうとし、

また、そう思うだけではなく実際に、


※(『三国志 劉焉伝』)

「時征西將軍馬騰屯郿而反,焉及範與騰通謀,引兵襲長安。

(時に征西将軍の馬騰は司隷扶風郡郿県に駐屯していたが、朝廷に反逆した。

劉焉は献帝に従い長安にいた息子の劉範に馬騰と通謀させ、

兵を引き連れて長安を襲撃した。)」


と、

長安で宮仕えしていた自分の息子を使い、

そのころ朝廷に反逆していた馬騰と一緒に、

長安を襲撃させるということまでやったw


しかし馬騰は敗退し、

その結果、劉焉は息子の劉範を捕らえられて処刑された上、

落雷により彼が本拠としていた綿竹城も焼失。

劉焉は成都へと治所を移したが、やがて失意の内に、

194年(興平元年)、背中に悪性の腫瘍を患い、病死した。


劉焉が亡くなった後、益州では州の大官だった趙韙らが中心となって、

劉焉の息子の劉璋に跡目を継がせることに決め、

劉璋は趙韙らの上表により、改めて正式に朝廷から益州牧として

任命されるところとなった。


ただ趙韙はその後、

東州兵の横暴と、そしてそれを黙認して何の力もなかった劉璋に腹を立て、

反逆を起こすが、

東州兵の反撃に破れ、殺害される運命となってしまった。


しかし趙韙の起こした反乱では、益州内の三郡が彼に呼応して

劉璋から離反するなど、

非常にまとまった大規模な反乱運動だった。




【兗州における領主としての、曹操の統治に臨む態度】


劉焉は益州で自立を目論見、

また州内で対抗勢力となりうる豪族勢力の排撃を行い、

そのための独立軍隊として、外部からの移民団によって編成された

「東州兵」をも組織した。

そしてこの「東州兵」達がやがて、直接的にも地元豪族達への

迫害を行うようになり、

それがまた、趙韙を中心に州内の三郡が寝返るほどの大反乱にまで

発展していってしまうという事態に。


だからもし曹操が兗州で召抱えた「青州兵」達が、

益州の「東州兵」と同じように、

州内で地元豪族達の利権を侵害するようなことを

行っていたとしたら・・・?

その場合、

曹操を見込んで自ら兗州の高官らに掛け合い、

曹操を州の領主として据えさせた陳宮の立場からすれば、

これは曹操の、領主としての背信行為になる。


青州兵は元々が兗州の領外から侵略を企ててきた黄巾の賊徒達であり、

実際に非常にガラの悪い集団だった。

そして正史『三国志』の本文のほうにも、

彼ら青州兵が、曹操の自分達に対する寛容さに付け込んで、

味方に対しての略奪を行ったということまでハッキリと記されている。



※(『三国志 于禁伝』)

「从至宛,降张绣。绣复叛,太祖与战不利,军败,还舞阴。

是时军乱,各间行求太祖,禁独勒所将数百人,且战且引,虽有死伤不相离。

虏追稍缓,禁徐整行队,鸣鼓而还。未至太祖所,道见十馀人被创裸走,

禁问其故,曰:“为青州兵所劫。”初,黄巾降,号青州兵,

太祖宽之,故敢因缘为略。禁怒,令其众曰:“青州兵同属曹公,而还为贼乎!”

乃讨之,数之以罪。青州兵遽走诣太祖自诉。禁既至,先立营垒,不时谒太祖。

或谓禁:“青州兵已诉君矣,宜促诣公辨之。”

禁曰:“今贼在后,追至无时,不先为备,何以待敌?且公聪明,谮诉何缘!”

徐凿堑安营讫,乃入谒,具陈其状。太祖悦,谓禁曰:

“淯水之难,吾其急也,将军在乱能整,讨暴坚垒,有不可动之节,

虽古名将,何以加之!”於是录禁前后功,封益寿亭侯。


(于禁は曹操に従って荊州南陽郡の宛県に至ると、張繡は投降した。

しかし張繡がまた叛逆を起こすと、太祖(曹操)は張繡と戦って不利となり、

軍は敗れ、荊州南陽郡の舞陰県にまで還った。

このとき軍は乱れ、各々が間道を行って太祖(曹操)の姿を求めた。

于禁は一人で数百人を率いつつ、戦いながら引き上げた。

死傷者は有ったが離散する者はいなかった。

追っての追撃がやや緩やかになると、于禁はおもむろに隊列を整え、

軍鼓を鳴らしながら還った。

未だ太祖(曹操)のところにまで達しないとき、

道に10余人の、傷を負い裸で逃げる者達の姿を見つけた。

于禁がそれは一体どうしたのだ?と聞くと、彼らは:

“青州兵のために強奪されました。”と言った。

初め、黄巾が降伏し、青州兵と号した。

太祖(曹操)は彼らを寛大に扱ったため、

それにより彼らは略奪されることとなったのだ。

于禁は怒り、その手勢に命令して言った:

“青州兵とは曹公と同じ所属だったが、また賊にもどったのか!”と。

そこで彼らを討ち、罪を責め立てた。

青州兵は遁走し、太祖(曹操)の下まで逃げて訴えた。

于禁も曹操のところまで戻ったが、先ず営塁を立て、

すぐに太祖(曹操)とは謁見しなかった。

すると或る者が于禁に言った:“青州兵どもは既に君を讒訴しているだろう。

あなたも早く曹公の下に行って、このことをハッキリと

説明したほうがいい”と。

于禁は:“今、賊が背後に在り、追い付いてくるまで時間が無い。

先ず備えをしなければ、どうやって敵を待ち受けるのだ?

それに曹公は聡明で、讒訴など何になるだろうか!”と。

于禁はおもむろに塹壕を掘り、営を設置し終えると、曹操に会い、

つぶさに事情を陳述した。

太祖(曹操)は悦んで于禁に言った:

“淯水での危難は、私にとって危急の事態だった。

将軍は混乱の中に在ってよく整え、暴を討ち塁を堅めた。

動かざる節義を有し、古の名将といえど、どうしてこれ以上であろうか!」と。

こうして于禁の前後にわたる功績を記録し、益寿亭侯に封じた。)」



と、

しかしながら曹操は青州兵を撃退した于禁の行動を大きく賞賛してみせたものの、

といって曹操が青州兵達を罰したというような記述も見られない。


また他にも、


※(『三国志 満寵伝』)

「太祖临兗州,辟为从事。及为大将军,辟署西曹属,为许令。

时曹洪宗室亲贵,有宾客在界,数犯法,宠收治之。洪书报宠,宠不听。

洪白太祖,太祖召许主者。宠知将欲原,乃速杀之。

太祖喜曰:“当事不当尔邪?”


(太祖(曹操)は兗州にやってくると満寵を辟召して従事とした。

大将軍になると西曹属、許の令とした。

時に曹洪は太祖(曹操)の宗室として親貴な立場にあったため、

彼の賓客の中には、たびたび法を犯す者があった。

満寵は彼らを捕らえて取り調べた。

曹洪は満寵に書を送って、彼らを釈放を求めたが、満寵は聞かなかった。

そこで曹洪は、今度は太祖(曹操)に直接言上した。

すると太祖(曹操)は許の担当役人を召し出した。

満寵は太祖(曹操)が彼らを赦免しようとしているのだと察知し、

先に彼らを処刑してしまった。

すると太祖(曹操)は喜んで言った:

“事の処理は、まさにこのようにすべきなのだな?”と。)」


と、

この一件などでも、曹操は満寵の処置を大いに感心しつつ、

といってもし満寵が何もしなければ、

曹操はそのまま曹洪の請願を受け入れ、

捕らえられた曹洪の賓客達を解放してしまっていたのだろう。


陳宮などもまた、曹操のこうした煮え切らない態度に、

激しい憤りを抱いていたのではないか。


何故、曹操は青州兵をかばうのか?




【曹操と青州兵との関係】


劉焉は益州で自らの主権を確保しようと、

地元豪族勢力に対抗すべく、東州兵のような直轄兵団を設立した。


曹操もまた、兗州豪族達の力を抑えようとして、

青州兵などを召抱えたのだろうか?


曹操は兗州豪族達との関係を拗らせ、

遂には州内の実に9割以上に上る勢力から離反されることとなってしまうのだが、

しかしそのことに関しては、

もちろん曹操の望むところでは決してなかったろう。


曹操が青州兵の存在を欲したのは、

おそらく袁紹からの自立を願ってのことだ。


このころの曹操は未だ、袁紹の従属勢力の一人に過ぎなかった。


止むを得ず袁紹の世話にはなっていたが、

それは元より曹操の望むところではなかった。


まして袁紹はどんどんと勢力を拡大させ、独裁化を強め、

そのままでは何れ本当に、

曹操は袁紹の一家臣にされてしまいかねないほどだった。


そんな状況の中、曹操は盟友・鲍信の助言に従い、

黄河の南岸へと進出し、兗州東郡太守として任命を受け、

取りあえず袁紹の直接支配の手からは逃れ、

拠るべき独立の領土を確保した。

そして青州黄巾賊の討伐をきっかけに、

さらに兗州全体の新たな領主にまでなった。


が、依然として袁紹の力は巨大で、

曹操は袁紹との従属関係から逃れることはできなかった。

曹操としてはだから、

言わばその、袁紹からの“くびき”を断ち切るため、

青州兵の力を欲したのだろう。


そうでなければ普通に、

曹操が州内の豪族勢力に働き掛け、自分への協力を要請して

戦っていくしかないが、

しかしながらもしいざ、今後、実際に袁紹軍と戦争という事態にでもなった場合、

彼らは十中八九、曹操から離れて袁紹の味方に付いてしまうに違いなかった。

彼らは主に利害で自分達の行動を決めるため、

単純に力の強いほうしかなびかない。


曹操が本当に袁紹と抗争状態に陥ったとして、

どう転ぶかなど、わかり切ったことだった。


だから曹操としては、もし万が一の事態になったときでも、

絶対に自分の味方として裏切られることのない、直属軍事兵団の確保をと、

これは彼にとって念願のテーマのようなものではなかったか。


青州兵など、その格好の存在だったろう。


討伐しても殺さずに降伏を認めれば、

それだけでも大きな恩を売ることになる。

しかしどんな場合でも自分を裏切らないような忠誠心を保つためには、

その後もずっと、彼らに相応の利益を与え続けていかなければならない。


曹操としては主に敵との戦争に勝つことで、

彼らにその報酬を確保しようと考えていたのではないか。

例えば徐州への大虐殺行為なども、遠征に従っていた兵士達にとっては、

これはまさにいい稼ぎとなったはずだ。

当時の戦争は、従う兵士達にとっては出稼ぎのような意味合いも持っていた。

敵からの略奪品を故郷へと持って帰って錦を飾る。


しかし青州兵は敗戦の混乱に、味方をも襲って

略奪行為を働くような連中だった。

益州の東州兵なども君主の権威を背景に地元の民衆を迫害し、

それが内乱にまで発展していってしまった。


青州兵もまた同様に、

陳宮などにしてみれば、彼の考える曹操の天下制覇の道に、

青州兵など必要もなかったろう。

むしろ“何で、そんなマネをするのか・・・!”と、

激しい苛立ちを募らせたのではないか。


曹操はかつて袁紹の下にいたとき、二人で交わした会話の中で、


※(『三国志 武帝紀』)

「初,紹與公共起兵,紹問公曰:“若事不輯,則方面何所可據?”

公曰:“足下意以為何如?”

紹曰:“吾南據河,北阻燕、代,兼戎狄之眾,南向以爭天下,庶可以濟乎?”

公曰:“吾任天下之智力,以道禦之,無所不可。”


(初め、袁紹が公(曹操)と共に起兵したとき、袁紹は公(曹操)に聞いた:

“もしことが成就しなかった場合、拠るべき所はどの方面かね?”と。

公(曹操)は言った:“あなたのお考えはどうなのです?”

袁紹は言った:“私ならば南は黄河を拠点に、北は燕、代を阻み、

また戎狄の軍合わせ、南に向かって天下を争っていく。

これでもう事は成ったも同然ではないだろうか?”と。

公(曹操)は言った:“私は天下の智力の者達に任せ、

道義を以って彼らを制御する。これで不可能は無いでしょう”と。)」


と、

曹操は“天下の多くの人達の力を合わせて・・・”などと

語っていたにも関わらず、

しかしいざ自分が一州の主となってみれば、

そんな言葉とはおよそ正反対の行動を曹操は取った。


自分にどこまでも忠実でいてくれさえすればと、

その者達の利益を優先し、

それが地元豪族勢力との間に軋轢を生む結果となった。


陳宮は兗州東郡出身の地元の名士で、

土地の人々の利益を願い、自ら奔走して曹操を兗州の領主に据えたというのに、

これでは全く意味がなくなり、

また“自分を信じて・・・”と、強引に曹操の領主就任を認めさせた手前、

自身のメンツも丸潰れだ。


陳宮がそんな曹操に対して、

激しい憤りの感情を抱いてもおかしくはなかったが、

ただ一方でその割りに、陳宮と同じ東郡出身の程昱などは、

曹操に対して謀叛を起こすことはなかった。


同じ東郡では薛悌、

泰山郡の于禁、

任城国の呂虔、

山陽郡の満寵、李典、

済陰郡の董昭、呉質らと、

これらの人物達は曹操を裏切ることはなかったが、

ただ兗州全体で城邑の9割以上が離反している以上、

決して多いとはいえない。


陳宮は自ら兗州の高官に掛け合って説き伏せてしまうなど、

非常に州内の名士達と深い関わりを持っている感じだったが、

この辺りはやはり、兗州地元に住む者達の利害関係と、曹操個人との結び付きと、

両者でのバランスの具合で立場が変わってくるのではないか。


薛悌や呉質などは身分が低く、

州の高官達と直接の関係を持つような人物ではなかった。

程昱は逆に州刺史の劉岱から直に招聘を受けるほどだったが、

しかし全く相手にもならず、

ただ曹操にのみに従うというような人物だった。


李典も叔父の李乾と共に、青州黄巾賊討伐のころからずっと曹操に付き従い、

その後も曹操の部将として各地の戦争に従軍して戦った。

于禁は元鮑信の配下で、鮑信の死後、曹操に従うことなり、

彼も曹操と一緒になって各地の戦いに参加。


曹操に味方することが自分の利益になっていた人間であれば、

そのままずっと曹操に従っていたほうが得になるだろう。

満寵と呂虔も曹操本人の召し出しによって州の従事に抜擢を受けた者達で、

特に曹操との結び付きのほうが強かった。


董昭はこのころはまだ兗州の外にいた。




【陳琳の檄文にみる、兗州内乱時の状況】


194年(興平元年)に起きた兗州内乱の発生の際には、

実に州内の9割以上に上る城郭都市群が一斉に曹操から離反したという

状況からも、

当時、曹操は兗州地元の豪族勢力との間に、

かなりの軋轢関係を持ってしまっていたのではないかと推察されるのだが、

ただこの辺りの事情に関しては、

例えば益州の東州兵のような、

ハッキリとした内容を知ることができる記事が殆ど残されていない。


しかしその中で最も直接的なのが、有名な、官渡戦の前に書かせた陳琳の檄文。


ただこの檄文は曹操との戦争の前、

袁紹が曹操をコキ下ろすために書かせた檄文なので、

その分かなり筆がオーバーになってしまっているが、

ただ書かれている内容に関しては、

全くの事実無根とも限らず、どこかで関連性はあるだろうから、

それをみていくにはいいだろう。


その檄文の中には、袁紹が汴水の一戦に敗れ、

ボロボロになった曹操を援助して助け、

東郡太守、兗州刺史にまで任命してやったことや、

曹操がその兗州で、地元出身の士人らと揉め、

対立関係を生み出していたことなどが記されている。



※(『三国志 袁紹伝』注、魏氏春秋に載せる袁紹の檄文)


「魏氏春秋载绍檄州郡文曰:・・・

操赘阉遗丑,本无令德,僄狡锋侠,好乱乐祸。幕府昔统鹰扬,扫夷凶逆。

续遇董卓侵官暴国,於是提剑挥鼓,发命东夏,

方收罗英雄,弃瑕录用,故遂与操参咨策略,谓其鹰犬之才,爪牙可任。

至乃愚佻短虑,轻进易退,伤夷折衄,数丧师徒。幕府辄复分兵命锐,修完补辑,

表行东郡太守、兗州刺史,被以虎文,授以偏师,奖蹙威柄,冀获秦师一克之报。

而操遂乘资跋扈,肆行酷烈,割剥元元,残贤害善。

故九江太守边让,英才俊逸,天下知名,以直言正色,论不阿谄,

身被枭县之戮,妻孥受灰灭之咎。

自是士林愤痛,民怨弥重,一夫奋臂,举州同声,故躬破於徐方,地夺於吕布,

彷徨东裔,蹈据无所。

幕府唯强幹弱枝之义,且不登叛人之党,故复援旌擐甲,席卷赴征,

金鼓响震,布众破沮,拯其死亡之患,复其方伯之任,

是则幕府无德於兗土之民,而有大造於操也。・・・


(『魏氏春秋』に採録されている袁紹の州郡に出した檄文に曰く:・・・

曹操は贅閹の遺醜、宦官と姦吏の醜悪な後取りで、本より令徳無く、

素早くて狡猾、暴力的なヤクザで、乱を好み禍を楽しむ。

幕府(袁紹のこと)は昔、勇士達を率い、凶暴な逆賊(宦官のこと)を掃討した。

続けて董卓が官を侵し、国家に乱暴を働く事態に遭遇し、

これにおいて剣を提げ、軍鼓を指揮し、

東夏(袁紹が太守を務める渤海郡などの方面)に董卓追討の命令を発した。

しかしその際に英雄を収攬するため、

些細な欠点は棄てて見ず、能力をみて採用すべく心がけたため、

曹操を策略の相談に参加させることとなったのである。

曹操は鹰や犬のように指示されて格闘する能力に長け、

敵と戦うための爪や牙として用いるのに適任だった。

ところが曹操は愚かで軽佻で短慮だったため、軽はずみに軍を進め、

簡単に引き下がったため、

兵士達は傷付き皆殺しの目に遭い、戦に破れて大きな損害を被った。

幕府(袁紹のこと)はいつもそのたびにまた、曹操に兵を分けて先鋭を命じ、

補完して取り繕い、上表して東郡太守、兗州刺史に任命し、

虎の皮文様を被せてやり、偏師の軍隊を授けて、

威光と権力が集まるように褒章してやり、

彼に秦軍の大将・孟明のごとき一勝の報恩を受けさせてやりたいと

願ったのである。

それなのに曹操は、我々が与えてやった基盤を利用してのさばり、

思いのままに酷烈な行いをし、人民から搾取略奪し、

賢人を傷付け善人を迫害した。

故の九江郡太守の辺譲は、英才で抜きん出て才能豊かで、

天下に名の知られた人物だったが、

曹操に対して色を正して直言し、その論旨におもねるところがなかったため、

その身はさらし首に遭い、妻子絶滅の咎を受けた。

これ以後、多くの人士は憤痛し、

民衆はいっそう曹操に対しての恨みを重くすることとなり、

一人の男が肘を振り上げれば、一州が挙って声を同じくして呼応した。

それゆえ徐方(徐州)において陶謙に破れ、兗州の領地を呂布に奪われ、

当方の辺境地帯にさまよい、踏み止まるべき根拠地をも失うこととなったのだ。

幕府(袁紹のこと)は唯、幹(天子)を強く、枝(諸侯)を弱くするという義と、

かつ謀反人の徒党には加わらないことのために、

それゆえまた軍旗を掲げ、甲冑を身にまとい、むしろを巻くごとく遠征に赴き、

金鼓を鳴り震わせ、呂布の軍を拒んで破り、

そうして曹操を死の患いから救い出し、

またもとの方伯(兗州刺史)の任に復帰させてやったのだ。

しかしこれこそが、結果として幕府(袁紹のこと)が

兗州の民にとって徳を無くし、

曹操に大きな恩を与えることとなってしまった。・・・)」



文中に、


「一夫奋臂,举州同声,

(一人の男が肘を振り上げれば、一州が挙って声を同じくして呼応した。)」


とあるが、

この「一夫」とは、呂布のことだろう。


兗州のクーデターでは、おそらく陳宮が全体的な作戦計画を立て、

張邈・張超兄弟が反乱実行部隊の核となり、

そして呂布を盟主として推戴し、決行されたものと思われるので、

詰まり盟主となった呂布が、

最終的に矢面に立って号令を掛けてという意味だろう。

「一夫」という言葉にも、どことなく袁紹からみて、

下にみたニュアンスが感じられる。


それと最後のほうで、

袁紹が自分で遠征して呂布の軍を破ったなどと書かれているが、

これなどにしてもあるいは、

もしかして袁紹はこの兗州で起こった内乱に、

実際に援軍を送って曹操を助けていたりしたのかもしれない。


袁紹は曹操が行った徐州遠征にも、朱霊という将軍を援軍に送ったりしていた。


また檄文には曹操が、兗州の人々から略奪を行い、

激しい怨みを買っていたといようなことも書かれている。


もちろん曹操は何の理由もなく、

民衆を迫害して搾取するような政治家ではないので、

もし本当に、そのようなことが行われていたのだとしたら、

この場合「肆行酷烈,割剥元元,」という一文のニュアンスなど、

特に「青州兵」がそこに絡んでいたのではないかと思わせるような

雰囲気が感じられる。


それと曹操本人に対して直接、歯に衣を着せぬ批判をして、

妻子もろもとも処刑されてしまった辺譲という人物だが、

しかしこの人が一体、

曹操に向かって何を批判していたのか?


他には「曹瞞伝」の中に、辺譲に関して以下のような記述が。



※(『三国志 武帝紀』注、「曹瞞伝」)

「曹瞞傳曰:・・・初,袁忠為沛相,嘗欲以法治太祖,沛國桓邵亦輕之,

及在兗州,陳留邊讓言議頗侵太祖,太祖殺讓,族其家,

忠、邵俱避難交州,太祖遣使就太守士燮盡族之。桓邵得出首,拜謝於庭中,

太祖謂曰:“跪可解死邪!”遂殺之。・・・

(『曹瞞伝』に曰く:・・・

初め、袁忠が沛国相だったとき、太祖(曹操)を法律によって処分しようとした。

沛国の桓邵も曹操を軽んずるところがあった。

さらに曹操が兗州に在ったときは、陳留郡の辺譲の議論が

太祖(曹操)の感情を激しく侵害した。

太祖(曹操)は辺譲とその家族を殺した。

袁忠と桓邵は共に交州へと避難したが、

太祖(曹操)は使者を太守の士燮に派遣して、一族を全て皆殺しにした。

桓邵は出頭して、庭で謝罪したが、太祖(曹操)は言った:

“跪いて死が解かれると思っているのか!”と。

とうとう桓邵は殺された。・・・)」



だが結局この記述にも、

辺譲が何を理由に曹操を論難していたのか、そこまでは書かれていない。


単に曹操のことを軽んじ、バカにしていただけのようにもみえ、

とすれば孔融や許攸が処刑されたのと同じようなケースだったのか。


ただ辺譲に関しては、彼は出身が兗州陳留郡浚儀県と、

偶然にも張邈が太守を務めていた同じ陳留郡だったという点が少し気になる。


彼が張邈の庇護の下に、盛んに州刺史の曹操に対しての排撃運動を

行っていたとすれば、

これも張邈らによる、曹操の兗州追い落とし作戦の一環だったとも考えられる。




【陳宮の最期】


陳宮は初め曹操によって召抱えられるが、

ただそれも彼の場合、例えば荀彧、荀攸、程昱、郭嘉など、

曹操個人に忠誠を誓う配下といった関係ではなく、

どちらかといえば地元有力豪族勢力達の、利益の代弁者といった性格のほうが

強かったのかもしれない。


彼が青州黄巾賊襲来に際して、自ら奔走して曹操を兗州の領主に据えたのも、

それは兗州を賊の侵略から守るためであるし、

またその後の兗州の内乱のときも、

状況をみればそのときは曹操のほうが、

領主でありながら兗州に住む人々の生命と財産を侵害するような側へと、

立ち位置が当初とは様変わりしてしまっていた。


しかし結局は事破れ、

陳宮は徐州の下邳城で敗れ、一緒にいた呂布ともども生け捕りにされ、

曹操の面前へと引き摺りだされる運命となってしまう。



※(『三国志 呂布伝』)

「太祖之禽宫也,问宫欲活老母及女不?宫对曰:

“宫闻孝治天下者不绝人之亲,仁施四海者不乏人之祀,老母在公,不在宫也。”

太祖召养其母终其身,嫁其女。

<鱼氏典略曰:陈宫字公台,东郡人也。刚直烈壮,少与海内知名之士皆相连结。

及天下乱,始随太祖,后自疑,乃从吕布,为布画策,布每不从其计。

下邳败,军士执布及宫,太祖皆见之,与语平生,故布有求活之言。

太祖谓宫曰: “公台,卿平常自谓智计有馀,今竟何如?”

宫顾指布曰:“但坐此人不从宫言,以至于此。若其见从,亦未必为禽也。”

太祖笑曰:“今日之事当云何?”宫曰: “为臣不忠,为子不孝,死自分也。”

太祖曰:“卿如是,奈卿老母何?”

宫曰:“宫闻将以孝治天下者不害人之亲,老母之存否,在明公也。”

太祖曰:“若卿妻子何?”

宫曰:“宫闻将施仁政於天下者不绝人之祀,妻子之存否,亦在明公也。”

太祖未复言。宫曰:“请出就戮,以明军法。”遂趋出,不可止。

太祖泣而送之,宫不还顾。宫死后,太祖待其家皆厚於初。>


(太祖(曹操)は陳宮を捕らえると、老母と娘を生かして欲しいかと

陳宮に聞いた。

陳宮はそれに答え:“私は「孝」の理念で天下を治める者は、他人の親を殺さず、

また四海に「仁」を施す者は人の祭祀を絶やさぬものと聞いております。

老母の生死はあなたの手に在り、私にはございません。”と言った。

太祖(曹操)は陳宮の母を召し出して死ぬまで世話をし、

また娘は嫁がせてやった。

<魚氏の『典略』に曰く:陳宮は字が公台。兗州東郡の人である。

剛直にして烈壮、若くして海内の知名の士らと皆、相連和して交友を結んだ。

天下が乱れるに及び、始め太祖(曹操)に随い、後に自ら疑い、

呂布に従って、呂布のために画策してやったが、

呂布はいつもその計に従わなかった。

下邳で敗れ、曹操の軍士らは呂布、及び陳宮を捕らえた。

太祖(曹操)は陳宮に言った: “公台よ、君は平常より、

自分には智恵と計略が有り余っていると言っていたが、

結局は今、こうなってしまったではないか?”と。

すると陳宮は呂布を指差して、

“それはただ、ここに座っているこの者が、私の言に従わなかったから、

それだけで、もし私の見解にさえ従っていたのなら、

未だ必ずしもこうしてここに捕らえられることなどはなかった。”と答えた。

太祖(曹操)は笑って言った:“しかし結局は今日、

このようになってしまったことを、君はどう思うのか?”と。

陳宮は: “臣にして不忠、子にして不孝。

今となってはもう、ただ死ぬだけだ”とのみ言った。

太祖(曹操)は:“君はそれでいいかもしれないが、

しかし残された君の老母はどうするのだ?”と聞いた。

陳宮は: “私は「孝」を以って天下を治める者は、

他人の親を殺さないと聞き及んでおります。

老母の生死は、あなた次第ではございませんか。”と答えた。

太祖(曹操)は:“では君の妻子のほうはどうか?”

陳宮は: “私は天下に「仁政」を施す者は人の祭祀を絶やさぬものと

聞いております。妻子の生死は、やはりあなた次第でしょう”。と言った。

太祖(曹操)はまた何かを言おうとしたが、

陳宮はまだ曹操がそれを切り出さないうちに:

“さあ、早く私を処刑して、軍法を明らかにしてください”と言い、

足早に処刑場へと向かい、止めることはできなかった。

太祖(曹操)は泣きながら陳宮の後姿を見送ったが、

陳宮は振り返ることもしなかった。

陳宮が死んだ後、太祖(曹操)は陳宮の家族達を皆、

当初よりも手厚く待遇した。>)」



曹操はなんだかんだと、

やはり陳宮の命を助けたかった。


それで陳宮の老母や娘の話なども持ち出そうとするわけだが、

しかし陳宮はそれをピシャリと撥ね付け、

潔く自ら刑場へと赴き首を打たれた。


しかしながら陳宮はその際、

自分の老母や妻子の命は惜しくないのか、などという曹操の問い掛けに対し、

丸で逆に当てこするかのように、

曹操に向かって君子としての心得を説いた。


“元よりあなたが仁者ならば、そんなことはしないだろう”と。


しかし陳宮のこの言葉はもっと、


“あなたがそうしてさえいれば、兗州での反乱など起こらなかったのだ!”


との、深い寓意の込められた、

そういった彼の、まさに憤怒の言葉の表れだったように思えてならない。


“何故、あなたはそうできなかったのか?”と。


益州で地元の人々に対して横暴を働いていた東州兵の場合、

刺史の劉璋は彼らへのクレームの処理を、土地で人気のあった趙韙に任せたが、

しかし趙韙に任せたからといって、

劉璋自身が東州兵らに対し何の罰則も規制もしないのであれば、

問題は何も変わらない。

そしてそうこうする内、逆にいたたまれなくなった趙韙のほうが、

遂に益州地元豪族達の側に立って、

劉璋への反逆行動に踏み切った。


曹操に青州兵の存在など必要ではなかったろう。


清の何棹かしゃくなどはこの青州兵の吸収を以って、

「魏武の強」の始まりだなどと評したが、

実態でいえば曹操の兗州における統治の失敗を齎した、

それこそ「魏武の凶」であったに違いない。


後の官渡の戦いでも、

曹操は僅か潁川一郡の協力だけでなく、

もっと多くの味方を得られて、ずっと楽に戦えていたはずだ。


その時はそれこそ、青州黄巾賊が兗州へと乱入してきたときと同じように、

陳宮が州の内外を駆け回って、

曹操の支援勢力を募っていたことだろう。


しかし袁紹の有する強大な力と自分のそれとを比較して、

曹操は自分自身の持つ政治的信用力と、また他人の自分に対しての信頼を、

どこまでも信じ切ることができなかった。




【曹操の陳宮に対する負い目】


曹操は陳宮の死後、彼の老母や妻子を厚く面倒をみたが、

しかしその一方で、長年古い付き合いで、互いに大親友同士だったはずの

張邈に対しては全く容赦がなく、

張邈は寿春の袁術に助けを求めにいった最中に、

部下の裏切りにあってあえない最期を遂げてしまうのだが、

しかし陳留郡に残された彼の家族に対しては、

丸で可愛さ余って憎さ100倍といった感じに、

三族までその全てを皆殺しにした。


それが陳宮に対しては、

むしろ曹操のほうが逆に、彼を反乱へと追いやってしまったかのような、

そんな態度さえ感じられる。


しかしそうした曹操の陳宮への態度は、

曹操が彼を徐州に追い詰めて生け捕りにするよも以前に、

曹操が荊州の張繡を降伏させた際、

そこで曹操自身の女の身の不始末により、

一度は降伏させた張繡の再度の反乱を招き、

そしてそのために、長子の曹昂を死なせるハメになってしまったときの、

彼の妻、丁夫人に対して示した態度と、

非常に良く似通っていた。


曹昂は丁夫人の前の、既に亡くなってしまった

劉夫人と曹操との間にできた子だったが、

しかし自分の子宝に恵まれなかった丁夫人はこの曹昂を、

まさに自分が生んだ子供同然に、大事に可愛がり育てていた。


けれどもその大事な曹昂が、曹操の失態により死んでしまったことで、

丁夫人は曹操を激しくののしり、責め立てるようになった。


曹操もこれには参り、一時、丁夫人を里に帰らせて距離を置くのだが、

やがて自分から彼女を迎えにいき、

頭を下げてよりを戻そうとした。


が、結局、丁夫人が曹操を許すことはなかった。



※(『三国志 魏書 后妃伝』注、「魏略」)

「魏略曰:太祖始有丁夫人,又刘夫人生子脩及清河长公主。

刘早终,丁养子脩。子脩亡於穰,

丁常言:“将我兒杀之,都不复念!”遂哭泣无节。

太祖忿之,遣归家,欲其意折。后太祖就见之,夫人方织,

外人传云“公至”,夫人踞机如故。太祖到,抚其背曰:“顾我共载归乎!”

夫人不顾,又不应。

太祖卻行,立于户外,复云:“得无尚可邪!”遂不应,

太祖曰:“真诀矣。”遂与绝,・・・・・

后太祖病困,自虑不起,叹曰:“我前后行意,於心未曾有所负也。

假令死而有灵,子脩若问‘我母所在’,我将何辞以答!”


(「魏略」に曰く:太祖(曹操)には始め丁夫人が有り、

また劉夫人が曹昂子脩と清河長公主を生んでいた。

劉夫人が早く亡くなったため、丁夫人が子脩を養った。

だが子脩を荊州南陽郡の穰県で亡くすと、

丁夫人はいつも:“私の子を殺しておきながら、

もう思い起こすことはないのですか!”と、曹操を責め立て、

節義も無く慟哭して泣き崩れた。

しかし太祖(曹操)もこれに憤りを感じ、丁夫人を実家に帰し、

彼女の意思が折れてくれることを欲した。

後に太祖(曹操)が自ら丁夫人の下へと赴くと、

丁夫人は機を織っていた。

外回りの使いの者が“曹公がお見えです”と伝えたが、

丁夫人はもとの机に腰を降ろしたままだった。

太祖(曹操)はやってくると、丁夫人の背をそっとなでながら:

“お願いだから、私と共に帰ろう!”と告げた。

しかし丁夫人が振り返ることはなく、

また太祖(曹操)の呼び掛けにも応じなかった。

太祖(曹操)は後ずさりして、戸外に立つと、また、

“どうしても私を許してはくれないのか!”と言ったが、

丁夫人は応じなかった。

太祖(曹操)は:“ならばこれで本当のお別れだな”と言い、

遂に丁夫人とは離縁した。・・・・・

後年、太祖(曹操)が病に困窮したとき、

自らもう再起することはできないと思い、嘆〔叹〕いて言った:

“私は前にも後にもずっと意のままに行い、

未だ心に負い目を感じるようなところなどなかったが、

ただもし死者に霊魂が有り、子の子脩が私に、

‘私の母はどこにいるのですか?’と聞かれれば、

私は一体、何と答えたらよいだろうか!”と。)」



曹操は死ぬまで曹昂のことを、丁夫人に対して、

また丁夫人のことを、亡き曹昂に対して負い目に感じ続けたが、

陳宮との関係にしても、やはり同じだ。


そうでもなければ、自ら意固地に刑場へと向かう陳宮の後ろ姿を、

涙ながらに見送り、

また残された彼の家族の面倒を見ることなど決してしないだろう。


同じ裏切りでも、それこそ張邈の場合などでは逆に、

三族まで抹殺しているのだから。


しかし曹操にはそのように、彼の心の内には常に

後悔と反省があったという点こそが、

彼の美質だったといえるだろう。


衛茲や鮑信、荀彧や程昱らなどは皆、

曹操の持つ、そうした誠実さや正直さといった面を支持して

付き従っていたに違いない。


例えミスや間違いを犯したとしても、

“この人ならば、自らその過ちを正すことのできる人だ”と。


陳宮なども勿論、同じ気持ちだったろうが、

しかし彼の場合はそれができなくなってしまった。


荀彧らは兗州の人士達と直接の利害関係でつながることはなかったが、

陳宮は違った。

曹操の取った態度が陳宮を、曹操から離反せざるを得ない立場にまで

追いやってしまった。


もちろん史書にそうだと書かれているわけではないが。




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