三
【三】
翌日である。宵頃、ヒバはイト漁にでた。きのうとは打って変わって雨天であったが、イト採りは雨を喜ぶものである。雨のあとには色のよいイトがあがりやすい。虹がでたあとはなおさらである。イトが海に溶けた虹のあぶくだというならわしも、そこからきている。
曇天と霧のような小雨のために、波はわづかに荒れていたが、海辺はひとけもなく静かであった。どうやらほかのイト採りどもはまだ空模様をうかがっているにちがいなかった。海辺にふく風の好ましい匂いがした。今宵はおそらく悪うない、とヒバは読んでいた。できればことさら質のいいのを採りたいと思うた。スズの様子が気がかりである。
ヒバはおのれの腕の誉れを信じているが、いかんせんまだ年若いために、かつての父のごとく都に名を売るにはいたらなかった。ちかごろはイト採りどもが都へ自分の足で出向くようになったので、買い付けもさほど来なくなった。夫婦で食うていくぶんには足りるが、そのため夫婦には、余分にできる金がない。都へ売りに出ようにも、長く家をあければスズが不安がる。スズの身体の具合は実にやっかいで、おそらくどこかは悪いのであるが、さてどこが悪いのかとなると、当のスズさえ首をひねるようなものであった。どこが苦しいのかと訊けば、胸というたり腹というたり、頭というたり、さまざまである。そのすべてが真実である。顔のいつも青白いのは、ほんの一時も立っていられぬほど血のめぐりの悪いためであるが、それでも病にかかっているわけではないという。子供の頃から心の臓がたいへん弱く、すこしでも駆けるとすぐに息が切れて苦しくなるのだという。だが家でおとなしくしているぶんには、その心の臓はスズを苦しめることはない。結論、うまれつき体がよわくできているというほかない、とのことである。だがそれがために亡くなることがないということもまた出来ぬ、と医者は見立てた。なにか滋養のあるものを食わせること、よく休ませてやること、できれば薬のひとつも飲ませてやるともっとよい。都の薬師のなかには、体を内から強うする薬をあつかう者もいるという。医者は言うが、それは口でいうほどたやすくなかった。そのためには何よりもまず金が要った。イトが売れねばそれができぬ。
おのれの採る黄檗や鬱金、橙の美しさをヒバは信じる。おれより見事な黄色をあげるものはない。だがイト採りは、イトそのものを食うては生きられぬ。堂々巡りである。日ごろ気楽なたちのヒバであるが、このことばかりは顔を曇らせた。スズには決して見せられぬ顔をいま、じっと睨むように海原へ向けて、ヒバは独り立っていた。
その気概が通じたか、ふと見えぬ手がなでたように、荒れていた波が息をひそめた。その一刹那をぬうように、ヒバはひといきに笹駆を押し、波に乗せてとびのった。水をとらえた小舟はぐんと浮き上がり、引き波にじょうずにひきづられて海へはいった。沖合へこぎ出すと、やがて浅瀬の緑青は様相をかえ、深い深い灰蒼となった。思うたとおりであった。この色はいい。ヒバは舟をとめて櫂をさげた。
あおむけに寝転がり空をあおいだ。小雨が顔にひたひたとはりついた。陽の沈むほうを見やると、むこうの雲はどうやらそれほど厚くない。たれ込める灰色の間から、わづかに光がさしているのが見えた。うすい雲が光を透かし、深海魚の腹のようにうごめいている。
波音をききながら沖にしばしひとりで浮いていると、しだいに眠気がさしてきた。イトのあがる刻限まではまだいくらかの間があった。ヒバは目を閉じ、浅い眠りについた。
ふと目を覚ますとすでに夜であった。いつのまにか小雨はあがり、雲の切れ間に月光がのぞいていた。ヒバはあわてて身を起したが、なにか顔にひきつるような感じがして手をふれてみると、ほおが濡れているのだった。なんだおれは泣いていたのかとそこではじめて気がついた。まちがいなく己の涙であった。
夢を見ていたことをそれで思い出した。夜ごと見る夢である。村が流された日の夢である。十四であった。まだ頑是無い子供であった。父も母も弟ルリも、村の仲間もみな死んだ。大波がみな押し流してしまった。あれから五年になるが、一度たりとわすれたことのないひとつの記憶である。
――何とはなしに思い浮かべた記憶という言葉が今ひっかかった。頭の奥で、何かがぴんと鳴るのを聞いたような心持であった。はて何であろうか。しばし目を泳がせると、その違和感の理由が知れた。そうだ、そういうことだ。記憶なんぞはないのだ、ということであった。
おれはあの夜の記憶は何もない。あらためてそのことをヒバは思いだしたのである。あの夜、思い出すべきことは、おれのなかにはなにもなかったのだ。
えもいわれぬ不安のために、心臓がどくどくと鳴りはじめた。なにかとてつもなく大事なことを、おれはこの五年ものあいだ、見あやまってきたのではないかという気がした。ぼうぜんとしたまま焦燥がひろがる。そうだ、村は流された、そのことはまちがいがない、それは確かだ。おれがこの手でみな弔った。いやだがしかし、ちがう、それではおかしいのだ。
ヒバは口元を抑えた。数度まばたきを繰り返した。
十四歳の少年であった時分、おそらくヒバは寄る辺ないみなしごになったおのれを知らず知らずあわれんで、おのれで護ったのだった。おのれのなかに渦巻いていた多くの悲しみと数え切れぬほどの疑問符とに、疲れ果てていたヒバはおのれで名札をつけたのだ。村は大波で流された、というそのひとことのみを事実とし、それでおのれを納得させたのだ。イトの村にはよくあることだ。イトの村だけでない、海辺の村にはよくあることだ。海はいつでも気まぐれに荒れる。ヒトは海には決して勝たない。
夜ごと繰り返される一つの夢の意味が今このときはじめて見えつつあった。
あの大波の夜、おれが十四だった夜、おれは沖合にいた。父とけんかをしたのであった。ちょうどこうして、ひとりきりで、月光にさらされて、何も見えぬ海が沖でひとりぼっち浮いていた。あの夜はどういうわけか何もかも勝手が違うていて、漕げど漕げど前にすすまず、かといって戻りの櫂もきかず、波は読めず、陸は見えず、ただただおそろしゅうて、おそろしゅうて、こどものおれは泣いたのだ。もはや陸にもどれぬのではないかと思うて泣いたのだ。まちがいない、あのなつかしいふるさとの村の、あの見慣れた海が沖で。
そして翌日目をあけたときには、村はあとかたもなく流されていた――
「ばかな……」
口元を抑えた手がふるえを帯びた。そんなことが起ころうか。おれがこうして生き延びている。そうだ、おれは、なぜ助かったのだ?
そのことを考えながら幾日か旅をした記憶がある。伴がいた。あの男だ。名をなんといったか。そうだ、あの長い黒髪の、まるでこの海沖のように、茫洋とした眼のあの男。名はなんといったか。
***
迷いのためか、さほどはあがらぬ漁であった。舟を片してうちへ戻ると、ヒバはそこに思いがけぬ顔を見た。
「ハチか」
あおじろい顔をしたスズが寝床のうえに半身を起こして、すまなさそうにこちらを見た。ハチはスズの背中をさすってやっていたと見え、入口にヒバがもどったのを見ると、じろりと目つきを鋭くした。「スズの具合がようないと言うたんはどこのどいつか、ヒバ」
ヒバはスズにかけよった。「気分が悪うなったのか――」
「いいえ平気、ハチがみな面倒してくれたから」
こころもち遠慮気味にスズがこたえた。まるで血の気のない顔をして、ヒバの手にふれる指も真っ白であった。スズは気丈にそういうが、留守中にひどく具合を悪くしたのであろうことがそれで知れた。
「おれが通りがかったら、スズのうめいとる声がしたが」
ハチの非難がましい声をきいてスズがけんめいに首を振った。「ううん違う、私がいけないんよ、夕餉を――」
ヒバは目をみひらいた。厨に顔をふりむけると、飯の支度が途中であった。「飯をつくろうとしたんか、おまえ」
「今日はすこし具合がよかったから」と恥じ入るようにつぶやいた。「よくないお嫁ね、私」
スズはよわよわしくほほえんだ。
「あ――阿呆」
そのほかに言葉がうかんでこなかった。ヒバはただただやりきれないような思いがし、スズのきゃしゃな肩をさすってやった。そのあいだスズは目を閉じてほんのすこしだけほほえんでいた。「イトはあがったの」とスズがたずねるので、うんまあ、それなりだ、と答えた。見せてというので見せてやると、スズは心底うれしそうに、綺麗といった。スズはヒバのとってくるイトを見るのが好きである。
ハチは終いまで不機嫌そうに帰っていった。ヒバが礼をいうと、平生からぼさぼさの髪をさらにぐしぐしとやりながら、「スズをよう見とけと言うたが」と言い、わづかばかりの礼の酒ひょうたんもうけとらなかった。
去り際ふと気になってヒバはハチの背中に声をかけた。「――そういえば、おまえ、どうしてうちの近くにいたんじゃ」
ハチの家は村の左端である。イヅルの村は広くはないが、ただ通りがかるにはいくらか遠すぎるように思われた。
ハチは答えなかった。足を止めることもなかった。この不器用なイト採りは、ずっと背中をむけたまま、右手を気持ちばかりあげて挨拶めいたものを寄越した。それで終いであった。