波音のライブラリ
二十八歳の坂本 創が、故郷である西伊豆の小さな港町に足を踏み入れたのは、実に七年ぶりのことだった。
潮風は昔と変わらず、かすかに塩気と、錆びた鉄の匂いを孕んでいる。だが、バス停から実家へと続く緩やかな坂道を歩く創の足取りは、ひどく重かった。
ポケットの中で、スマートフォンの画面が冷たく光っている。そこには、役所と弁護士事務所から送られてきた何通ものデジタル通知が残されていた。
『坂本 吾郎 儀 逝去。つきましては、メモリードライブ法(記憶移植規制法)に基づく遺言執行手続きの件――』
2026年。
今から八年前に施行されたその法律は、世界を劇的に、そして残酷に変えた。
死者の脳から「記憶」を完全にデータ化し、生きている人間の脳へと移植する技術。かつては違法な闇医療として倫理の十字架にかけられていたそれは、厳格な法規制のもとで合法化され、今や「最後の遺産相続」として定着しつつあった。
しかし、創にとってそれは、最も忌むべき技術だった。
「いまさら、親父の記憶なんて……何を見ろって言うんだよ」
創は吐き捨て、誰もいない坂道で立ち止まった。
父・吾郎との関係は、一言で言えば「冷戦」だった。吾郎はこの町で小さな造船所を営む、絵に描いたような頑固一徹の職人だった。寡黙で、不器用で、口を開けば「男なら一本筋を通せ」「甘えるな」と、時代錯誤な精神論ばかりを創に押し付けた。
母が早くに亡くなった後、二人の関係はさらに冷え込んだ。創が高校を卒業し、東京のIT企業へ就職を決め、この町を出ると言った日、吾郎はただ一言、「勝手にしろ」とだけ言い放ち、それ以来、まともな会話は一度もなかった。電話をかけても、吾郎は「あ。ああ、元気か。飯は食ってるか」の三言だけで、すぐに切ってしまう。そんな父親が、一週間前、作業場での脳溢血で急逝した。
実家の引き戸を開けると、家の中はしんと静まり返っていた。
仏壇の前には、まだ新しい位牌と、白黒の写真に収まった吾郎の顔があった。日に焼けて深く刻まれた皺、への字に曲がった短い唇。最後に見た時と全く変わらない、不機嫌そうな父親の顔がそこにあった。
「ただいま、親父」
創は形ばかりの線香をあげ、畳に座り込んだ。
仏壇の脇には、すでに弁護士の手によって用意された、手のひらサイズの金属製のケースが置かれていた。それこそが、吾郎の全人生から抽出された記憶データ――『メモリードライブ・カートリッジ』だった。
法律により、記憶の移植は「故人の明確な遺言による同意」がある場合にのみ許される。吾郎は生前、わざわざ厳格な手続きを経て、自分の記憶を創に遺すという遺言を作成していたのだ。
「あれだけ俺を拒絶しておいて、最後に自分の記憶を押し付けるのかよ。どこまで自己中心的なんだ」
創は拳を握りしめた。
幼い頃、キャッチボールをしていても、少し球を逸らせば「腰が入っていない」と怒鳴られた。プラモデルを作っていれば「説明書通りにしか動けない奴は職人になれん」と貶された。常に否定され、常に突き放されてきた。そんな父親の記憶を脳内に受け入れれば、自分は死んだ父親にまで魂を支配されてしまうのではないか。そんな恐怖があった。
だが、遺言にはこうも書かれていた。
『記憶の譲渡から三十日以内にドライブ(移植)が行われない場合、データは永久に消去される。ただし、拒否する場合は、造船所の土地および全財産を国庫に寄付するものとする』
「……最後まで、脅迫かよ」
創は天を仰いだ。東京での暮らしは決して裕福ではない。吾郎が遺した造船所の土地を売却できれば、今後の生活に大きなゆとりができる。そのためには、この「悪魔の遺産」を一度、自分の脳内にインストールしなければならなかった。
翌日、創は町に一つしかない、国家公認の総合病院を訪れた。
「坂本創さんですね。緊張しなくて大丈夫ですよ。今の技術は非常に安全ですから」
白を基調とした清潔なセッションルームで、若い女性医師が穏やかに微笑んだ。彼女の胸元には『記憶管理士』のバッジが光っている。
「痛みを伴うことはありません。ただ、他人の記憶がご自身の脳に入り込む際、一時的に強い感情のフラッシュバックが起こることがあります。ご自身の『自己』と、お父様の『記憶』の境界線を見失わないよう、私たちがモニターしていますからね」
「……分かりました。始め(ハジメ)てください」
創はリクライニングシートに深く身体を沈めた。
頭部に、無数の電極が埋め込まれたしなやかなヘッドギアが装着される。カチリ、と心地よい金属音がして、吾郎の記憶カートリッジがスロットに挿入された。
「では、メモリードライブを開始します。カウント、スリー、ツー、ワン、アクセス」
医師の声が遠ざかると同時に、創の視界は真っ白な光に包まれた。
じわじわと、脳の奥底が熱くなるような感覚。それは、他人の人生という名の濁流が、自分の脳という静かな湖に流れ込んでくる感覚だった。神経細胞が書き換えられ、見知らぬ景色、見知らぬ感情が、まるで「最初から自分が経験していたこと」のように立ち上がってくる。
(あ――)
創は、自分の唇が声にならない叫びをあげたのを感じた。
視界が急速に焦点を結んでいく。
見えたのは、今よりもずっと若く、力強い、自分の「手」だった。手のひらは硬く、至る所にタコができ、油と鉄の匂いが染みついている。
(これは……親父の手だ。俺は今、親父の目で見ているのか?)
視界の先には、激しく打ち付ける冬の海があった。
雪が混じる突風の中、吾郎――いや、吾郎の視点にいる創は、漁船の底に潜り込み、必死にスパナを動かしていた。凍えるような寒さで指先の感覚はない。それでも、吾郎は手を止めなかった。
「吾郎さん! もう切り上げましょう! こんな大シケじゃ、明日船を出す奴はいませんよ!」
若い職人の声が聞こえる。だが、吾郎は荒々しく首を振った。
「馬鹿野郎! 明日の朝、健坊の親父が沖に出られなきゃ、あの一家は今月干からびるんだ! 職人が天気を言い訳にして、網元を殺す気か!」
怒鳴りつける声は、創がよく知る、あの威圧的な父親の声そのものだった。
しかし、その声の裏側にある「感情」が、ダイレクトに創の脳に流れ込んできて、創は息を呑んだ。
(怖い……)
吾郎は恐怖していたのだ。指が寒さで動かなくなり、修理が間に合わないことを。自分の技術が足りず、仲間の生活を守れないことを。傲慢な怒りの裏にあったのは、張り裂けそうなほどの責任感と、焦燥感だった。
画面が暗転し、次の記憶へとジャンプする。
激しい産声が、狭い病院の廊下に響き渡っていた。
吾郎は、分厚い作業着のまま、産院の待合室のパイプ椅子に腰掛けていた。その体は、小刻みに震えていた。
「坂本さん、元気な男の子ですよ!」
看護師に促され、病室に入る。ベッドの上には、疲れ果て、しかし幸福そうに微笑む若き日の母・佳乃の姿があった。そして、その腕の中には、真っ赤な顔をして泣き叫ぶ、小さな赤ん坊がいた。
「ほら、お父さんですよ。抱っこしてあげてください」
吾郎は、まるでガラス細工に触れるかのように、おそるおそる両手を差し出した。
いつも鉄を叩き、船を直しているその頑丈な両手が、赤ん坊の重みを感じた瞬間、見たこともないほど激しく震えた。
(重い……なんて、軽いんだ。なのに、どうしてこんなに重いんだ)
吾郎の心の声が、創の脳内でリフレインする。
赤ん坊――つまり、生まれたばかりの「創」を腕に抱いた瞬間、吾郎の胸を満たしたのは、狂おしいほどの愛おしさと、同時に津波のように押し寄せる「恐怖」だった。
(俺のような不器用な男が、この命を育てられるのか? もし、俺のせいでこの子が怪我をしたら、病気になったら、死んでしまったら? 佳乃、俺は怖い。この小さくて柔らかい命を、俺の手が潰してしまいそうで、たまらなく怖いんだ――)
創は、脳が揺さぶられるような衝撃を受けた。
父親は、自分を最初から拒絶していたわけではなかった。むしろ、愛し方が分からず、その命の重さに怯えていたのだ。
吾郎が創に対して常に厳しく、一定の距離を置いて接していたのは、「甘やかして、弱い人間に育ててしまったら、この過酷な世界で生きていけなくなる」という、彼なりの、あまりにも極端で不器用な防衛本能だった。
記憶はさらに加速し、創の少年時代へと移り変わっていく。
太陽が照りつける、造船所の裏の空き地。
十歳の創が、グローブをはめて立っている。吾郎が投げたボールを、創は捕り損ねて後逸した。ボールは草むらへと転がっていく。
「腰が入っていない! そんな腑抜けた構えでボールが捕れるか!」
吾郎の厳しい声。十歳の創は、今にも泣きそうな顔でボールを拾いに行っている。
だが、その時、吾郎の視界は、創の足元を捉えていた。創の右足の靴紐が解けていることに、吾郎は気づいていた。
(靴紐が解けてる。転んだら危ねえな。……いや、自分で気づかせなきゃダメだ。俺がいちいち指差して教えていたら、こいつは戦場(社会)に出た時、自分の足元も見られん男になる。早く気づけ、創。自分で気づいて、自分で結び直すんだ)
吾郎の心の中は、怒りではなく、祈りに似た願いで満ちていた。
だが、十歳の創は気づかず、そのままボールを投げ返した。吾郎はそれを胸元でガッチリと受け止めながら、心の中で呟いていた。
(ナイスボールだ、創。いい回転だ。筋がいい。……だけど、それを口にしたら、お前は満足してそこで止まってしまう。もっと遠くへ行け。こんな狭い港町で、俺みたいに油にまみれて終わるな。もっと広い世界へ行くんだ)
「おい、もう一球だ! 次はちゃんと腰を落とせ!」
口から出た言葉は、またしても鋭い罵声だった。
創の脳内で、当時の自分の記憶と、今の吾郎の記憶が完全に合致した。
あの時、自分は「お父さんに嫌われている」と泣きそうになっていた。だが、父親の胸の内は、我が子の成長に対する賛辞と、未来への切なる願いで溢れかえっていたのだ。
「あ……、あ、う……」
セッションルームのリクライニングシートの上で、創の目から大粒の涙が溢れ、頬を伝った。
首を横に振り、声をあげて泣き出したい衝動に駆られる。だが、メモリードライブは止まらない。記憶の潮流は、決定的な決別の日へと向かっていく。
十八歳になった創が、大きなスーツケースを持って玄関に立っている。
「東京へ行く。もうここには戻らない」
そう告げた創に対して、吾郎は背中を向けたまま、テレビのニュースを見ていた。
「勝手にしろ」
その一言だけだった。創は怒りに震え、激しくドアを閉めて出て行った。
だが、ドアが閉まった瞬間、吾郎の身体から全ての力が抜けた。
吾郎は、テレビの画面など見ていなかった。ただ、画面に反射して映る、息子の最後の姿を目に焼き付けようとしていたのだ。
ゆっくりと立ち上がり、窓辺へと歩み寄る吾郎。
カーテンの隙間から、駅へと向かって歩いていく創の、少し丸まった背中を見つめていた。その時、吾郎の胸を去来していたのは、引き裂かれるような孤独感だった。
(行ってしまうか、創。……それでいい。それでいいんだ。東京へ行って、大企業に入って、綺麗な服を着て、頭を使って仕事をしろ。俺のように、毎日泥と油にまみれ、網元や船主にペコペコ頭を下げて、すり減るような生き方はするな。
お前が俺を嫌うなら、それでいい。嫌われたままでいい。その憎しみが、お前を遠くへ運ぶ推進力になるなら、俺はいくらでも悪者になってやる。
だけどな、創。……飯はちゃんと食えよ。身体だけは壊すなよ。困った時は、いつでも、ここへ――)
吾郎はそこまで考えて、自嘲気味に首を振った。
(いや、意地を張って出て行ったお前が、俺に助けを求めるわけがないな。それでいい。最後まで、一人で立って歩け。俺の息子なら、それができるはずだ)
窓から見える息子の姿が小さくなり、やがて見えなくなるまで、吾郎は一歩も動かずに立ち尽くしていた。その頬を、一本の涙が伝っていた。職人の硬い手が、窓枠を白くなるほど強く握りしめていた。
(ああ、佳乃……。俺たちの息子は、立派に育ったよ。あんなに大きくなった。あいつの未来は、きっと明るい。俺の届かないところまで、あいつは行くんだ)
記憶は、吾郎の晩年へと移る。
創が去ってから十年以上、吾郎は一人で造船所を守り続けていた。
体調を崩し、医師から「もう心臓が限界だ、仕事を辞めなさい」と言われても、吾郎は補修の仕事を断らなかった。
ある夜、作業場の机で、吾郎は古いノートを開いていた。そこには、東京のビジネス誌から切り取られた、小さな記事が貼ってあった。
『若手プロジェクトマネージャー・坂本創氏が手掛ける、新型物流システムが稼働』
小さく写る創のスーツ姿の写真を、吾郎は油で汚れた親指で、何度も、何度も、擦るように撫でていた。
(すごいな、創。俺にはさっぱり分からん文字ばかりだが、お前がすごいことをやってるのは分かる。俺の作った船は、この狭い海しか走れんが、お前の作ったシステムは、日本中、世界中を走ってるんだな)
吾郎の顔に、柔らかな、見たこともないほど穏やかな笑みが浮かんでいた。
そして、彼は胸のポケットから、メモリードライブの登録申請書を取り出した。
(創。お前にこれを遺す。
お前はきっと、俺を恨んだままだろう。それでいい。だが、もしお前が、人生のどこかで壁にぶつかった時、あるいは、俺という人間がなぜお前を突き放したのか、その理由を知りたくなった時……この記憶を受け取ってくれ。
俺は、言葉が下手くそだった。お前を愛していると、ただの一度も言ってやれなかった。
俺の記憶をお前にやる。これが、不器用な職人の、最後の遺産だ)
そして、最後の瞬間が訪れる。
一週間前の、あの寒い朝。作業場で突然、激しい目眩が吾郎を襲った。
床に倒れ込み、意識が急速に遠のいていく中、吾郎の視界は、天井の隙間から見える冬の青空を捉えていた。
胸が苦しい。呼吸ができない。死の恐怖が襲いかかる。
だが、吾郎の脳裏に最後に浮かんだのは、自分の人生の後悔でもなく、死への恐怖でもなかった。
(創――)
最後に呼んだのは、息子の名前だった。
(お前が生まれたあの春の日から、俺の人生は、ずっと光で満たされていた。
お前を育てた二十年間が、俺の人生の、すべてだった。
ありがとうな、創。幸せになれ。お前は、俺の最高の誇りだ――)
カチリ。
静かな音がして、世界は真っ白な光へと還元されていった。
「……創さん。創さん、聞こえますか?」
遠くから聞こえる医師の声で、創はゆっくりと目を開けた。
視界が涙で激しく歪んでいる。胸が、張り裂けそうなほどに熱く、痛かった。
「ドライブは無事に成功しました。お父様の記憶データは、完全にあなたの中に定着しましたよ。……体調はいかがですか?」
医師は優しく、ティッシュの箱を差し出した。
創はそれを受け取ることすら忘れ、両手で顔を覆い、子供のように号泣した。
「親父……、親父……っ!」
脳の中に、はっきりと残っている。
冬の海の冷たさ。生まれたばかりの自分を抱いた時の、あの頼りないほどの震え。自分の背中を見送った窓辺の寂しさ。そして、死の直前に彼を包んでいた、圧倒的な、無償の愛。
それらは、単なる「映像データ」としてそこにあるのではなかった。
吾郎の『魂』そのものが、記憶という器を経由して、創の心の中に引っ越してきたのだ。
これまで、自分を縛り付けていた「父親への憎しみ」や「劣等感」という呪いが、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
父親は自分を憎んでいなかった。誰よりも愛し、誰よりも誇りに思っていた。その真実が、創の二十八年間の人生のすべてを、根底からひっくり返し、温かな光で満たしていく。
「……ありがとうございます」
創は涙を拭い、深く一礼してセッションルームを後にした。
病院を出ると、西伊豆の夕日が海を真っ赤に染め上げていた。
防波堤に立ち、創は大きく息を吸い込んだ。潮の匂いがする。かつては拒絶の匂いだと思っていたそれが、今は、自分を包み込んでくれる父親の匂いに感じられた。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。東京の会社からの、業務連絡の通知だった。
これまでは、生きるために、ただ消費されるためにこなしていた仕事。だが、今の創には違って見えた。
「俺も、一本筋を通して、自分の仕事を全うするよ。親父」
創は、自分の右手のひらを見つめた。
吾郎のように硬くはない。油も染みついていない。だが、その皮膚のすぐ下にある神経には、間違いなく、あの頑固な職人の、熱い血と記憶が脈打っている。
死者の記憶を生きる者に移植する技術、メモリードライブ。
それは、失われた過去を懐かしむための道具ではない。
死者の愛を燃料にして、生きている人間が、明日へと力強く一歩を踏み出すための、魂のバトンパスなのだ。
創は、もう一度だけ実家の方角を振り返り、それから力強い足取りで、駅へと向かう坂道を歩き始めた。
彼の耳には、あの懐かしい、激しくも温かい冬の波の音が、いつまでも心地よく響き渡っていた。




