23.
ガタゴトと揺れる馬車の中。
私は窓の外を流れる暗い景色を、ただぼんやりと見つめていた。
「……姉さん、寒くない?」
エミルが私の肩に自身の外套を掛け、そのまま私の膝にすり寄るように頭を乗せてきた。
「ありがとう、エミル。……ごめんなさいね、無理をさせてしまって。転移魔法の反動は大丈夫?」
「うん。姉さんが無事なら、僕の体なんてどうなったっていいんだよ」
彼は私の手を両手で包み込み、頬ずりをした。
その体温は温かいはずなのに、なぜか私の心は冷え切ったままだった。
目を閉じれば、今でもあの時の光景がフラッシュバックする。
炎の中へ私を置いて飛び込んでいった、彼の広い背中。そして、煤だらけになって抱きしめていた古びた杖。
(私は、あの過去の遺品にすら勝てなかったんだわ……)
胸の奥が、ギリギリと音を立てて痛む。
涙はもう枯れてしまったと思っていたのに、視界がまた滲んできた。
「泣かないで、姉さん」
エミルが身を起こし、私の目元を指先で優しく拭った。
「もうあんな男のこと、思い出す必要ないよ。これからはずっと僕が守るから。
実家に戻ったら、ゆっくり休んで。家事も仕事も、もう何もしなくていい。ただ僕のそばで、笑っていてくれればいいんだ」
それは、純粋な優しさのように聞こえる。
けれど、なぜだろう。その言葉が、まるで目に見えない糸となって私の体を縛り付け、「鳥籠」の中に閉じ込めようとしているように感じてしまうのは。
(……ううん、エミルは私のために命がけで助けに来てくれたのに。そんな風に思うなんて、私がどうかしてる)
私は無理やり微かな笑みを作り、こくりと頷いた。
その瞬間、暗がりのなかでエミルの口角が、三日月のようにつり上がったことなど知る由もなかった。
(ああ……やっと。やっと僕だけのものになった。
姉さんは一生、僕の鳥籠の中で大事に大事に飼ってあげるからね)
◇
その頃。
焼け落ち、黒い骨組みだけが残った塔の前に、クライヴはまだ座り込んでいた。
「……ルチア」
何度その名前を呼んでも、心地よい声で返事をしてくれる家政婦はもういない。
失ってしまったものの大きさに、胸が押し潰されそうだった。
クライヴは、手の中の古びた木の杖を強く握りしめた。
それは、かつて魔王討伐の旅で命を落とした魔法使いの仲間――エレナの遺品だった。
若き日のクライヴには、魔法の素質など欠片もなかった。ただ剣の腕だけで頂点に上り詰めた無鉄砲な剣士。
そんな彼の手によってエレナは死んだ。
己の無力さを呪った彼は、剣を捨て、彼女の遺したこの杖を握り、杖に残った彼女の魔力を利用し、血を吐くような努力で魔法を修め……結果として、誰にも負けない最強の魔導師へと上り詰めたのだ。
この杖は、彼が「魔導師クライヴ」であるための原点であり、決して忘れてはならない贖罪の象徴だった。
「……私は、過去の亡霊に囚われて、今一番大切な手を……自ら手放したのか」
彼女を魔物の前に置き去りにした。
その事実が、自分自身を許せなかった。
だが、絶望の泥濘の中で自責の念に駆られていた大魔導師の脳裏に、ふと、パニック状態の時には気づかなかった「致命的な違和感」がよぎった。
「……待て。なんだ、あの炎は」
クライヴはゆっくりと顔を上げた。
濁っていた紫色の瞳に、「最強の魔導師」としての鋭い理性の光が戻る。
彼が飛び込んだ北側の角部屋の火災。
思い返せば、あの炎は異常だった。ただの魔物が吐く炎なら、彼が指先一つで凍結させられるはずだ。
しかしあの炎は、彼の魔力と反発し合い、消火を著しく妨害する高度な『術式干渉』が組み込まれた魔法炎だった。
最強の魔導師である彼が、杖を回収するだけであれほどの火傷を負い、時間をかけさせられるなど、ただの魔物の仕業ではない。
「私をあの部屋に釘付けにし、時間を稼ぐための……罠?」
彼は立ち上がり、ルチアが襲われていた場所に転がっているガーゴイルの死骸のそばへ歩み寄った。
「見事な切断面だ。……『風の刃』か」
石のように硬いガーゴイルの皮膚を、ここまで綺麗に両断するには、熟練の魔力操作と莫大な出力が必要だ。
そして何より、クライヴの頭脳は最大の矛盾に行き着く。
「……『自分自身に転移魔法を使ったことがない』だと?」
空間転移。それは、空間座標をミリ単位で正確に計算し、魔力で肉体を再構築する超高等魔術だ。
失敗すれば肉体が四散する。魔法の素人が、姉を心配したからといって「無我夢中で術式を組んで」成功するような代物では断じてない。
計算し尽くされた結界の破壊。
時間を稼ぐための魔法炎。
正確無比な空間転移と、魔物を一掃する高度な風魔法。
すべてが、一本の線で繋がった。
「……最初から、結界に穴を開け、私をルチアから引き離したのは……」
クライヴの足元から、バチッ、バチィッ! と、空気がひび割れるような音が鳴り始めた。
煮えたぎるような「殺意」を伴った魔力の奔流。
「……あの、狂ったクソガキか」
紫色の瞳が、闇夜の中で爛々と発光する。
「私の塔を燃やし、私の誇りを踏みにじり……あまつさえ、私の女を謀って連れ去っただと?」
クライヴは、手にしていたエレナの杖をじっと見つめ、そして静かに異空間収納へとしまい込んだ。
過去の贖罪は、もう終わりだ。
「待っていろ、ルチア。……君を騙す害虫は、私が跡形もなく消し炭にしてやる」




