20.
ワルツが終わると、ホールは割れんばかりの拍手に包まれた。 私は夢見心地のまま、クライヴ様にエスコートされてフロアの端へと戻った。
「……意外とやるじゃないか。悪くなかったぞ」 「ありがとうございます……。クライヴ様のおかげです。魔法みたいに体が軽くて」
少し上気した顔で微笑むと、クライヴ様は満足げに目を細め、私の腰に回した手を離そうとしなかった。 その独占欲が、今はなんだか少し嬉しかった。
「あ、そうだ。エミルは……」
私は弟の姿を探した。 さっきまでソファに座っていたはずの場所に、彼の姿はない。
「失礼いたします。バーンズ男爵家の関係者の方でしょうか?」
きょろきょろしていると、王宮の従僕が恭しく近寄ってきた。
「はい、そうです。弟を知りませんか?」 「エミル様でしたら、先ほどご帰宅されました。『急に気分が悪くなったので、姉には心配しないで楽しんでほしいと伝えてくれ』と……」
「えっ……!?」
私は血の気が引いた。 やっぱり、無理をさせてしまったんだ。あんな人混みの中で、私のために頑張って……。 それなのに私は、クライヴ様とのダンスに浮かれていたなんて。
「どうしよう……。すぐに帰って様子を見に行かないと」 「……待て、ルチア」
慌てて駆け出そうとする私の腕を、クライヴ様が掴んだ。 その表情は、先ほどまでの穏やかなものとは一変し、鋭い刃物のように張り詰めていた。
「ク、クライヴ様? エミルが心配なので、離してくださ……」 「黙っていろ。……何かがおかしい」
彼は私の言葉を遮り、虚空を睨みつけた。 そのアメジスト色の瞳が、妖しく発光し始めている。 会場のざわめきなど耳に入らない様子で、彼は神経を研ぎ澄ませていた。
「……私の結界が、破られた」
「え?」
「塔だ。……何者かが、私の留守を狙って侵入した」
ドクン、と心臓が跳ねた。 塔が? あの平和な場所が? まさか、泥棒? それとも……。
嫌な予感が背筋を駆け上がる。 エミルの「帰ってきてよ」という言葉と、塔の異変。 まさか関係があるなんて思いたくないけれど、タイミングが良すぎる。
「馬車など待っていられん。……掴まっていろ」
クライヴ様はそう言うと、周囲の目も気にせず、私を横抱き(お姫様抱っこ)にした。
「きゃっ!?」 「舌を噛むなよ。……転移する」
彼が指を鳴らした瞬間。 ヒュンッ!!
煌びやかな舞踏会の景色が、歪んで弾けた。 視界が反転し、強烈な浮遊感に襲われる。
◇
――次の瞬間。 私の鼻をついたのは、香水の香りではなく、「焦げ臭い煙の臭い」だった。
「……な、なに、これ……」
転移した先は、塔の正門前――だったはずの場所。 私はクライヴ様の腕の中で、信じられない光景を目にして絶句した。
ゴオオオオオッ!!
夜の闇を赤く染め上げる、猛烈な炎。 私が毎日手入れしていた花壇は踏み荒らされ、美しいアーチ窓からは黒煙が噴き出している。 そして、塔の周囲には、見たこともない異形の怪物たちが群がっていた。
石像のような翼を持つガーゴイル。 炎を吐く巨大なトカゲ。 それらが、結界の裂け目から次々と敷地内に侵入しようとしている。
「……はっ。随分と派手にやってくれたものだ」
クライヴ様の声は、凍えるほど低かった。 彼は私を地面に降ろすと、静かに、しかし激しい怒りを込めて燕尾服のタイを緩めた。
「私の庭を荒らし、私の帰る場所を汚し……あまつさえ、ルチアとのダンスを邪魔した罪」
バチバチバチッ! 彼を中心に、凄まじい密度の魔力が渦を巻く。 その圧力だけで、近くにいた怪物が数匹、弾け飛んだ。
「――万死に値するぞ、雑種ども」
私はあまりの惨状に絶句した。 けれど、クライヴ様の反応は、一瞬にして変わった。
「……あ、あそこは……まさか……ッ!」
彼は燃え盛る塔を見上げ、絶望したように息を呑んだ。 その視線が釘付けになっていたのは、塔の最上階にある「北側の角部屋」だ。
あそこは、この塔で唯一、私が掃除に入ることを固く禁じられていた場所。
その窓から、赤い炎が漏れ出しているのが見えた瞬間だった。
「やめろ……燃やすな……!! それだけは……ッ!!」
クライヴ様が悲鳴のような声を上げた。 いつも冷静沈着で、どんな敵の前でも不敵に笑っていた最強の魔導師が、子供のように取り乱している。
「ク、クライヴ様!?」 「くそッ、間に合え……!!」
ドッ!! 彼は地面を蹴り、爆風のような魔力を放出して飛び出した。
「あっ……!」
彼が私の手を離した――いや、私の存在など完全に忘れて、邪魔だとばかりに振り払ったのだと気づくのに、数秒かかった。
彼は私を一顧だにせず、振り返りもせず、一直線に炎の中へと飛び込んでいった。 周囲には魔物がうろついている。
ただひたすらに、あの「部屋」の中にある何かを守るために。
「ク、クライヴ様……! 」
私は叫んだけれど、その声は轟音にかき消された。 彼は炎を強引にこじ開け、壁を破壊して塔の内部へと姿を消してしまった。
後に残されたのは、燃え盛る塔と、魔物の群れ。 そして、呆然と立ち尽くす私だけ。
「……え?」
足が震えた。 いつもなら「私のそばを離れるな」「私の視界にいろ」と言うはずの彼が。 あの中には、私よりも大切な「何か」があるの? 大事なものが?
ギギッ、ギャアアッ……。 塔の周りを徘徊していたガーゴイルたちが、取り残された私に気づき、涎を垂らして近づいてくる。
「いや……来ないで……!」
私はドレスの裾を握りしめ、後ずさった。 恐怖と、それ以上の絶望が心を支配する。 ああ、やっぱりエミルの言う通りだったのかもしれない。 私は所詮、使い勝手のいい家政婦で、彼にとっての一番じゃなかったんだ――。
◇
その時。 燃え上がる塔の影、遠く離れた森の木陰で。 「計画通り」とばかりに口角を歪める少年の姿があったことに、私たちはまだ気づいていなかった。
(燃えちゃえ、燃えちゃえ。 帰る場所がなくなれば、姉さんは僕のところに来るしかないんだから)
彼は木陰に身を隠し、決して二人に気づかれないよう、静かに、しかし愉悦に満ちた瞳でその惨劇を観察していた。
(……あはっ。やっぱりね。あると思ったよ、あの塔に…)
エミルは口元を手で覆い、忍び笑いを漏らした。
(あの勇者は、自分の秘密を守るためなら余裕を失う。 姉さんを守る余裕なんてなくなるって、分かってたよ)
燃え上がる塔。 パニックになって飛び込んだクライヴ。 そして、魔物に囲まれ、絶望の淵に立たされた姉。
すべてが、エミルの描いたシナリオ通りだった。
(さあ、絶望して、姉さん。 「あの人は私を捨てた」って刻み込んで。 そうすれば、あとで僕が「助け」に行った時……姉さんは二度と僕から離れられなくなる)
エミルはまだ動かない。 姉の心が完全に折れ、クライヴへの信頼が灰になるその瞬間まで、彼は冷徹に待ち続けていた。




