21.
「ギャアアアッ!」
耳障りな叫び声と共に、石像の怪物が私に向かって跳躍した。
鋭い爪が、月の光と炎の照り返しを受けてギラリと光る。
「きゃああっ!!」
私は反射的に顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。
魔法も使えない。武器もない。
頼みの綱だったクライヴ様は、私を置いて行ってしまった。
(ああ、私……ここで死ぬの?)
死を覚悟し、瞼を固く閉じたその時だった。
「――姉さんに、触れるなッ!!」
ドォォォォン!!
突如、爆風のような衝撃波が走り、目の前に迫っていた怪物が枯れ葉のように吹き飛ばされた。
「え……?」
恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景があった。
燃え盛る炎を背に、一人の少年が立っている。
右手をかざし、強大な風の魔力を放出して私を庇うその姿。
「エ、エミル……?」
「姉さん! 無事!?」
エミルだった。
彼はすぐに駆け寄ると、へたり込む私を抱きしめた。
「よかった……! 間に合ってよかった……!」
「ど、どうしてここに……? 帰ったんじゃなかったの?」
エミルは私の震える体をさすりながら、必死な形相でまくし立てた。
その顔色は真っ青で、額には脂汗が滲んでいる。
「帰る途中、どうしても胸騒ぎがして……会場に戻ったんだ。
そうしたら、姉さんとあの人が光に包まれて消えるのが見えて……!」
「まさか、追いかけてきたの?」
「うん。僕、自分自身に転移魔法なんて使ったことなかったけど……姉さんが心配で、無我夢中で術式を組んだんだ。
失敗したら体がバラバラになるかもしれなかったけど、姉さんが危ないと思ったら、怖くなんてなかった!」
「エミル……っ! なんて無茶なことを!」
私は涙が溢れて止まらなかった。
病弱で、魔法の才能はあるけれど体力が追いつかないあの子が。
命のリスクを冒してまで、初めての転移魔法を使って助けに来てくれたなんて。
「……下がってて、姉さん。こんな雑魚、僕が片付ける」
エミルは私を背に庇うと、再び魔物たちに向き直った。
「風よ、刃となれ――『ウィンド・カッター』!!」
彼が腕を振るうと、不可視の風の刃が嵐のように吹き荒れた。
ガーゴイルの硬い石の体が、豆腐のように切り裂かれていく。
強い。
あんなに儚げだった弟が、私のために魔法を振るい、戦っている。
その姿は、私を置き去りにした「あの人」とは対照的に、あまりにも頼もしく、そして優しかった。
数分もしないうちに、周囲の魔物はすべて倒された。
エミルは肩で息をしながら戻ってくると、煤で汚れるのも構わずに私の手を取った。
「……姉さん。あいつは?」
「え……」
「あの勇者は、どこにいるの? パートナーの姉さんを守らずに、どこに行ったんだ!?」
エミルの非難めいた問いに、私は言葉を詰まらせた。
視線を、燃え盛る塔の最上階へと向ける。
「……塔の中に。……大事なものを、守るために……」
「は……?」
エミルは信じられないというように目を見開いた。
「姉さんより大事なものが、あの中にあるって言うの?
こんな状況で、姉さんを魔物の前に置き去りにして!?」
「……っ」
図星だった。
エミルの言葉の一つ一つが、鋭利な刃物となって私の傷ついた心に突き刺さる。
「ひどいよ……。姉さんはあんなに尽くしていたのに。
結局、あの人にとって姉さんは、都合のいい家政婦でしかなかったんだ」
エミルは私の頬を両手で包み込み、真正面から見つめてきた。
その瞳は、吸い込まれそうなほど深く、暗い愛情に満ちていた。
「でも、僕は違う。
僕なら、絶対に姉さんを離さない。
世界中が敵に回っても、何が燃えても、姉さんだけは守り抜くよ」
ああ、なんて甘美な言葉だろう。
誰かに一番に選ばれたい。守られたい。
そんな私の弱りきった心に、エミルの言葉はあまりにも心地よく響いた。
「……帰ろう、姉さん。
もう十分でしょ? こんな冷たい人のために、傷つく必要なんてないよ」
エミルが手を引く。
私は抵抗できなかった。
燃え上がる塔。戻ってこないクライヴ様。
ここにはもう、私の居場所はないのかもしれない。
「……うん」
私が小さく頷いたその瞬間。
エミルの口元が、微かに歪んだのを見た気がした。
(やった。……堕ちた)
エミルは勝利を確信し、私を抱き寄せて歩き出そうとした。
――ズズズズズンッ……!!
その時。
塔の最上階から、夜空を引き裂くような轟音が響いた。
「ッ!?」
私とエミルが振り返ると、北側の角部屋の壁が内側から吹き飛び、紫色の閃光が柱のように立ち上っていた。
そして、その光の中から、何かが飛び出してきた。
それは、ボロボロになったクライヴ様だった。
燕尾服は焼け焦げ、美しい銀髪も煤だらけ。あちこちに火傷を負っているのが遠目にも分かる。
けれど、彼はその胸に、何かを――命よりも大切な「何か」を、必死に抱きかかえていた。
「……クライヴ、様?」
彼が守り抜いたもの。
それは金銀財宝でも、強大な魔導書でもなかった。
それは、何の変哲もない、ただの「古びた木の杖」に見えた。
薄汚れて、傷だらけで、どこにでも落ちていそうな杖。
それを彼は、まるで世界のすべてであるかのように、煤だらけの手で強く強く握りしめていた。




