18.
会場の喧騒から少し離れた、カーテンで仕切られた休憩スペース。 私は、ふかふかのソファにエミルを座らせ、その背中をゆっくりとさすっていた。
「……大丈夫? エミル。お水、飲む?」 「ううん、平気。……姉さんがそばにいてくれるだけで、苦しいのなんて全部なくなっちゃうよ」
エミルは私の腰に腕を回し、甘えるように肩に頭を預けてきた。 その体温は温かく、洗いたてのシーツのような優しい匂いがする。昔と変わらない、私の守るべき弟の匂いだ。
私は愛おしさで胸がいっぱいになり、彼の髪を撫でた。 しかし、エミルはその心地よさに目を細めながら、心の中ではどす黒い独占欲を煮えたぎらせていた。
(ああ……この匂い、この感触。やっぱり姉さんは僕のものだ。 あの勇者の残り香が少しついているのが気に食わないけど……それは後で「上書き」すればいい)
エミルは私のドレスの裾をギュッと握りしめ、濡れた瞳で見上げてきた。
「ねえ、姉さん」 「なぁに?」 「……もう、帰ってきてよ」
その言葉に、私の手がピタリと止まった。
「あんな怖い人のところにいる必要なんてないよ。 さっき見たでしょ? あの人、僕を殺そうとしたんだよ? 姉さんだって、いつ機嫌を損ねて消されるか分からない……。僕、毎日心配で眠れないんだ」
「エミル……。でも、クライヴ様は本当は不器用なだけで……」
「僕より、あの人の方が大事なの?」
エミルの瞳から、ツーッと一筋の涙が零れ落ちた。 その破壊力は絶大だった。
「僕、頑張ったんだよ。姉さんがいなくなってから、必死で家の仕事も覚えた。 領地の経営も順調だし、お金の心配なんてもうないんだ。 だから……姉さんが働く必要なんてない。ずっと僕のそばで、ただ笑っていてくれればいいんだよ」
彼は私の手を取り、その指先に頬ずりをした。 その仕草は、忠実な愛犬のようでありながら、獲物を絡め取る蜘蛛の糸のように粘着質だった。
「僕、寂しいんだ。 夜になると胸が苦しくなって、発作が起きそうで怖くて……。 『姉さんがいてくれたら』って、毎晩泣いてるんだよ?」
ズキリ。 罪悪感が私の胸を貫いた。 病弱な弟を置いて家を出たことは、ずっと心残りだった。 今、こうして彼が「必要だ」と言ってくれている。経済的な問題もないなら、私が塔にいる理由は――。
(……理由は?)
ふと、脳裏にクライヴ様の顔が浮かんだ。 不機嫌そうにフレンチトーストを食べる顔。 窓拭きをする私を、不器用な魔法で助けてくれた顔。 そして今日、私のために慣れない正装をして、「専属だ」と言い切ってくれた、あの熱い瞳。
(あの人を一人にして、私は帰れるの?)
あの方の生活能力は壊滅的だ。私が抜けたら、3日で塔はゴミ屋敷に戻り、食事も忘れて研究に没頭し、孤独に死んでしまうかもしれない。 それに何より――。
「ここ(塔)は、私がいてもいい場所だ」と、そう思わせてくれた安心感を、手放したくないと思っている自分がいた。
「……姉さん?」
私の沈黙を敏感に察知したのか、エミルの声がわずかに低くなった。 彼は私の表情を覗き込むように、顔を近づけてくる。
「どうして迷うの? まさか……帰りたくないの?」 「そ、そうじゃないの。ただ、急に仕事を放り出すわけには……契約もあるし……」 「そんなの破ればいいよ! 違約金なら僕がいくらでも払う!」
エミルの手が、痛いほど強く私の手首を掴んだ。 その瞳の奥に、一瞬だけ「幸運の天使」らしからぬ、昏い光が宿った気がした。
「姉さんは僕のものだよね? ずっと一緒にいるって約束したよね? ……ねえ、今日、このまま一緒に帰ろう? あの人の元へは戻さない」
それは懇願というより、逃げ場のない「命令」に近い響きだった。 弟の知らない一面を見たような気がして、私は背筋がゾクリとした。
その時だった。
「――見つけたぞ」
カーテンが乱暴に開け放たれた。 そこには、会場の令嬢たちを振り切ってきたのか、少し息を切らせ、不機嫌を極めた顔のクライヴ様が立っていた。
「いつまで油を売っている。……ダンスの時間だ」
クライヴ様は私とエミルの間に割って入ると、エミルの手を私の手首から強引に引き剥がした。
「いっ……!」 「人の専属に、これ以上触れるな」
冷徹な声。 しかし、エミルは今度は泣かなかった。 クライヴ様の背後で、私には見えないように冷笑を浮かべ、音のない声でこう呟いたのだ。
(……邪魔をするなよ、勇者)
会場には、舞踏会の始まりを告げるワルツの旋律が流れ始めていた。




