第2幕・4 車庫に潜む妖怪、鍋の中の小人
ちりりん
時刻はすでに正午を過ぎていた。午前の配達を終えるのに、昼休みの半分を使ってしまっていた。
遅刻に社内でのトラブル、自転車は改造されて、エディの気分は最悪だった。
しかもこんな日に限って遠方の配達があったりするので、余計に気が滅入った。
午前の配達が終わった時点で、彼は一日分の気力を使い果たしていた。
ふと、モーゼフの占いの言葉を思い出された。まだまだトラブルがありそうな予感がしてうんざりする。
空の駅支店の真横に設置されている車庫に辿り着くと、自転車から降りて中に入る。
穴のような小さな窓が四つあるだけの車庫は薄暗く、換気が悪いので空気が籠っている。車庫は入り口から見て右側に、集配所と直結している大きな扉がある。昼休みなので扉の向こうの集配所は静かだった。車庫の中はエディの足音だけが響いている。
と……はっとして、エディは顔を上げた。
微かな物音が聞こえた気がして、目を凝らし耳を澄ます。
だが、車庫には自転車と貨物車があるだけだ。何者の気配もない。ゴキブリかとも思ったが、エディは思い出した。今朝の騒動。不審者の存在。不審者が捕まっていない事実。まさかまさか、と思いつつ、こんなところで出くわしたら嫌だな、とエディは急いで自転車駐輪スペースに自転車を留めた。
体力はあっても体術は姉と違って心得ていないので、争いになったら確実に負ける。
そうならないために、早足で車庫を出ようとしたところ、
ずる
はっきりと、物音を聞いた。ゴキブリではない、何かの音だ。
体を強張らせてゆっくりと振り返る。
そこにはいつの間にか。
得体の知れない物体が。
長い毛で覆われ、白い三本の足で這う。
まるでモップの妖怪だ。
足を器用に動かして、エディに近づいて来る。不気味で奇妙な生物を目の当たりにしたエディは、逃げることも悲鳴をあげることも忘れて、ただ呆然とそれを見ていた。
「…………え、し……」
それは鳴き声だったのかもしれないが、エディには言葉のように聞こえた。
生物はどんどん近づいてくる。もう一メートルも離れていない。
「か……え、し、……」
前足が(よく見ればそれは人の腕と同じ形をしている)エディのズボンの裾をつかむと、そのまますがるように抱きついてきた。
エディは口を開けるが声は出ず、反対に息をのんだ。
「か……え、……し、て」
長い毛の隙間から覗く、真ん丸の灰色の目玉と目が、エディに向けられる。
「―――ーっ」 わあああああああっ!
※ ※
空の駅支社は大変な騒ぎになっていた。その中でも特に大変だったのは、配送部一課だった。
木箱の中から見つかったもの……ガットが見間違うほど、精巧に作られた人形の腕によって、殺人事件ではなく窃盗事件に発展していた。守衛室からトリティ(まだ帰っていなかったらしい)の他、今日の当番の守衛や自衛団の団員たちがかけつけ、やれ現場保存だ、やれ現場検証だと忙しく動き回っていた。
ただし、それも昼を過ぎるまでだった。
昼休みも半分が終わった頃、悲鳴を聞いたのはガットだった。
猫はヒトの何倍も耳が良く、誰も聞こえない声でも彼には聞こえていた。
不審に思った彼は悲鳴がした場所、車庫に向かうと……そこでモップの妖怪と、それに襲われているエディを発見した。
「しかし、よく出来てるもんだなぁ」ガットが興味深げに視線を送る。
自衛団は去り、デイヴ(本日の早番の守衛)も見回りに戻っていて、一課の中は落ち着きを取り戻していたが、別の関心が増えて、デスクルームは賑わっていた。
「本当にすごいね、信じらんない。こんな技術があるなんて」
残っていたトリティもしげしげと見つめていたのは、椅子に座った少女だった。
「名前は何ていうの?」
尋ねると、耳に心地よく響く声で少女は答えた。
「アイリス」
「あらぁ、可愛い名前ねぇ」
少女の後ろで彼女の乱れた髪の毛にブラシを当てていたメリーアンヌも、顔をほころばせた。
少女アイリスは、非の打ち所のない可憐な美少女だった。
ぱっちりした灰色の瞳に長いまつげ、小振りの鼻、ふっくらした桃色の唇、白い肌に赤く染まる頬。上半身を覆うほどのウェーブのかかった金髪が特徴的だ。着ている服も彼女の愛らしさを際立たせるような、肩の膨らんだ白いブラウスに、胸に大きなリボンが付いた青いワンピース、白のハイソックスとローファーという組み合わせだった。
エディは、アイリスを中心にした人だかりから離れた場所で、椅子に座って彼女を見ていた。
可愛い。直視するのを躊躇ってしまうほど、可愛い。
メリーアンヌが持つ大人の女性の魅力とは違い、アイリスは清楚だ。素朴で慎ましく、大輪の花ほど豪華ではないが、小さいからこその美麗を持つ、そんな花がよく似合う。
だが……
「おい、エディや。腕ぇ持ってこい」
「う、うん……」
ガットの一言で、カインは現実に引き戻された。自分のデスクに置いてあった木箱の中から白くて細い腕を取り出す。人の肌と同じ弾力はあるが、冬の冷気で凍えた手のような冷たさではなく、陶器のような『物体』の冷たさで、不思議な感触だった。
はい、とアイリスに差し出すと、
「ありがとう」
ぎこちない言葉で礼を言う、それがさらに可愛いくて、胸の中がほっこりする。
アイリスはエディから受け取った腕を器用に自分の左肩に付けると、かちりという音がして、腕は血が通ったように滑らかに動いた。そこで再び現実に戻された。
アイリスは、人形だった。
正確には、オートマタという種類のからくり人形だと、ガットが付け加えた。
「オートマタ?」
皆が一斉に首を傾げた。
※ ※
ブルーフォレスト9番地。
数字は付いていたがそこは森の中だった。
青々と葉が繁り、空気は澄んで体が浄化されるような場所だ。木々によって視界が遮られた森の奥からは鳥獣の鳴き声が轟き、まるで自然の腹の中にいる雰囲気だ。
その中央に、大きな木造平屋建ての家屋。
表札にはイアソン・ヴォードの名。
伝票の記すものと一致していた。
玄関のドアノブの真下に、鍵の対になる穴があった。
「は、入るんですか? 不法侵入になっちゃいますよ」
「勝手に入って誰が気にするんだよ? 入らないと何も始まらないよ。昨日のこともさ、まるで僕たちに『来て下さい』と言っているようだっただろう。本を届けろってね」
「……はあ、では家主はここにいるんですかね?」
「居ないだろうさ、鍵がここにあるんだから。でもこの家に何かあるのは間違いないよ」
そういうわけで、遠慮なく二人は家に上がり物色していた。
「やもめ暮らしなんですねー。うわっ、汚い台所! このフライパン、油でぎとぎとじゃないですか! チーズなんかカビが生えちゃって! このお酢、賞味期限が一年も前に切れてますよ! うわあ、包丁に錆びがっ! 嫌だな、最低だなー」
ハマートは主婦の嘆きのようなことをブツブツ言いながら、台所を漁っていた。
スーヴェンはそんな彼のことを構うことなく寝室と工場を見ていが、何も出てこなかった。
それから裏口へ向かった。
そこは雑然と物が置かれ、裏口というより物置に近かった。奥の突き当たりに扉があるが、その周囲を木箱が何かを避けるかのように、一定の軌跡を描いていた。見えない壁でもあるのか、そこだけを躱して。
スーヴェンは箱を跨ぎ、箱のすぐ側の裏口の扉に近づいて、ノブに手をかけた。ゆっくり回して、引く。すると、扉は簡単に開いた。内開きである。扉を完全に開けると、ちょうど木箱たちはぎりぎりのところで扉に触れなかった。
(誰かここに来たのか?)
裏口の外は少しばかり開けていて、日光が当たっていて雑草が生え放題だった。しばらく、それも二、三ヶ月は手をつけられていない状態だ。
それなのに雑草は表へと続く方から押し倒され、潰され、微かな道ができていた。一直線に裏口へと続く獣道。誰かが通った証拠だ。それに裏口の扉は内開きだから、中から開けれるなら荷物は片すだろう。これは外から無理矢理開けたのだ。
つまり、誰かが来た可能性は大きい。つい最近だ。
イアソンが開けた可能性は……無視した。
リビングへ戻ると、ハマートが鍋を持って右往左往していた。鍋を持って慌てる状況が理解し難く、スーヴェンは呆れを通り越して見なかったことにした。そういえばシャワールームはまだだったな、とリビングに背を向ける。
「ああっ、スーヴェン!」
出ようとしたところへ、ハマートに呼び止められた。
「お、お……」ハマートは歓喜と興奮と焦燥で口が回っていない。彼のことだから、頭も回っていないだろうが。
「落ち着きなよ。何を言いたいのか、分からないよ」
「はいっ、あの、おっさんが居たんですぅ!」
「どこに?」
「ここに!」
ハマートは嬉しそうに鍋をスーヴェンの目の前に差し出した。
「……どこに?」
「ここに!」ハマートは満面の笑みで、鍋を振った。「ここに居ました!」
目の前のハマートと鍋を交互に見たスーヴェンは、フと笑みを浮かべ……
「いい加減にしろ! 遊んでる暇は無いんだ!」
左手の甲で、思い切り鍋を吹っ飛ばした。
ところが。激しい音を立てて床に落ちた鍋の中から、何かがはい出して来たのだ。
一瞬、特大ゴキブリかと見間違えたが……
「……いてて、なんつー乱暴な」
それはまさしくイアソン・ヴォードだった。倉庫で見たイアソンと同じ顔、同じ服。
だがそれの十分の一ほどの大きさの、小さな小さなイアソンである。
「ねっ、居ましたでしょ」
とハマートは胸を張って言うが、スーヴェンの耳には届いていなかった。
目を見開き、テーブルの上にあった紙の束を手に取りそれを棒状に丸めると、小さなイアソンめがけて力を込めて振り下ろした。
「ぬおっ! なんだーっ?」
間一髪で避けた小さなイアソンは、危険を察知して逃げ回る。テーブルの下、ソファの影、戸棚の隙間……そのたびにスーヴェンは家具をひっくり返し、棒を振り下ろす。
「おい止めろ! 俺はゴキブリじゃねえっ!」
「スーヴェン、止めてください! 動物虐待ですよっ」
二人の叫びに、スーヴェンはやっと手を止めた。小さなイアソンとハマートは、同時にホッと胸を撫で下ろすが、次の瞬間。
「おおっ?」
「油断したね、おっさん」
スーヴェンは小さなイアソンの首根っこを摘まみ上げ、フフフと不敵に笑った。
丁度良いところにハムスターの檻があったので、小さなイアソンをその中に閉じ込めた。寝床や滑車もあり、なかなか快適そうな住まいだ。
「似合ってるよ、おっさん。メタボリックシンドロームも解消できるね」
「ゴキブリの次はハムスター扱いか? 馬鹿にするなよ、ガキンチョ!」
「馬鹿にしてるのはどっちだ? アンタみたいな奴がいるから話がややこしくなるんだ」
「乱暴をしなくても俺はちゃんと話してやるのに、これだから最近の若造はダメなんだ」
「その辺の奴らと一緒にしないでほしいね。わざわざ本を持ってきてやったんだ、礼を言われてもいいくらいだ」
スーヴェンと小さなイアソンは、檻を挟んで言い合っていた。
それを少し離れた所から、ハマートはのんびりと眺めている。
「しかしスーヴェン、このおっさん、いつの間にこんなに小さくなったんですかね。体が小さくなる毒でも服用したのでしょうか」
二人が睨み合っているのをよそに、のほほんとした場違いな口調でハマートが言うので、スーヴェンは彼をキッと睨みつけた。
「なにボケたことを言ってるんだよ、マンガの読み過ぎだ! このおっさんが普通の人間に見えるのか? そんな毒あるわけないだろ!」
「ええーっ?」驚くハマートは、演技でも何でもなく、本気で驚いている。
「今さら何を驚いてるんだよ!」
「体が小さくなる毒って無いんですかぁーっ?」
「そっちかっ」
ハマートに突っ込んだところで、スーヴェンはハッと我に返った。
小さなイアソンを見ると、滑車に寝そべってくつろいでいた。
「楽しそうだな、お前ら」
スーヴェンの額に青筋が浮き上がる……が、彼はすぐさまそれを引っ込ませた。これ以上こんなところで時間を潰すわけにはいかない。さっさと話を進めなければ。
「僕たちはね、おっさんには聞きたい事が山ほどあるんだ」
「おっ、やっときたな。何を知りたい? さあ訊け。それ訊け。俺がすべて答えてやるぞ」
小さなイアソンは偉そうだった。この見下した言い方が気に食わない。檻を前後左右、めちゃくちゃに振り回したい衝動に駆られる。落ち着かせるようにコホンと咳をしてから、
「そうだな、本当に沢山のことを知りたいと思っているんだ。でも何よりも先に理解しなきゃいけないのは、アンタのことだ。そうだろ? アンタ一体何者だ? 倉庫のおっさんと無関係じゃないだろ」
スーヴェンの言葉を聞きながら、小さなイアソンは嬉しそうに頷いた。
「うむ、男前は鋭い。丁度いい奴に鍵を拾われたもんだな」
「鍵?」
「……俺が何者なのか、倉庫のイアソンが何であるか……それは同じで、お前さんのオヤジが何をしようとしているかも、すべてはそこに繋がる。一見すればばらばらのことでも、順序を追っていくと、行き着く先が一つだということもある」
「それで? どういうことなんだよ」
「つまり『オートマタ』と呼ばれる人形がすべてを繋ぐ」
「……オートマタ?」
スーヴェンは眉間に皺を寄せた。