第2幕・1 その晩、闇の中に潜むもの
静かに沈んだ夜。
奥の無い暗がり。
扉の中の深い影。
丑三つ時の気配。
「……ウージー君。腰が引けてるよ」
「うあああ、はいいっ」
指摘され、ウージーことウィンジールは背筋を勢いよく伸ばした。明りが激しく揺れて、影が左右に伸び縮みする。
彼は今、ベクターズカンパニー空の駅支店において夜の見回り中である。
横に並んで歩いているのは、本日の相棒の、後輩のトリティ・バートン。
共に守衛の制服で、腰には柄の長いハンマー、手にランプを持っている。
ほとんどの生き物が寝静まった夜は、別世界である。特に今日は月の無い夜……廊下の窓から見える星空は賑やかだが、建物の中まではその話し声も聴こえてこない。暗闇に染められ、色彩と音を失った場所では自分が異物のようだった。
ああ、怖い怖い!
ウィンジールは挙動不審者のように、忙しなく首を動かしていた。
「しゃきっとしなよ、しゃきっと!」
膝に力が入っていないところに、激しく腰を叩かれて倒れそうになる。
「本当にビビリだね、ウージー君は。守衛になって長いんでしょう?」
「は、はい、もう四年になるっス」
「それまで遅番は何度もあったでしょ。どうして慣れないの」
「ど、どうして、と言われましても。ボクはお化けが嫌いで……奴ら、どこから出てくるか分からないし……透けてるし……夜は好きじゃないっス」
潤んだ情けない声で、ウィンジールはぶつぶつと呻くように言った。
トリティは後輩だが二歳上である。軍に所属していた経歴があり、物事に動じない態度や堂々とした姿は凛々しく、周囲からはウィンジールの先輩と見られがちだ。
実際トリティの行動力や社交性は優れているので、立場が逆転してもウィンジールは気にしていなかった。彼女のほうが自分より男らしく(トリティには失礼だが)、頼りになるのは事実だ。
「夜が苦手でよく守衛になれたね。それじゃ敵兵やゲリラと遭遇したとき戦えないよ」
「いや、ここ戦場じゃないっスから。敵なんていないし、これからも出てこないっス。トリティさんは軍隊が体に染み付いてるっスね……」
トリティの勇ましい発言に、ウィンジールは呆れた。
「私が現役だったのは五年も前の話。それに軍といっても実際に前線にいたのは二年くらいだったし、あとの三年は衛生兵だったんだから」
「ボクはまず軍に入りたいとも思わないっス。喧嘩はボクには向いてないっス」
「そうだね。ウージー君のネズミの心臓じゃ、きっと耐えられないね」
「ネズミはあんまりっス。せめてハムスターにして下さいっス」
「どっちもそんなに大差ないよ」
ハムスターもネズミじゃない、とトリティはにべもなく言う。
そりゃそうですが。
ウィンジールは返す言葉が見つからず、前を見た……その先は輪郭の無い暗闇で、背筋に氷を当てられたような冷気を感じ、身震いをする。
音の無い建物の中に、足音が再び響く。会話中は気も紛れ何も意識しなくて済むのに、少しでも言葉が無いともういけない。目の前の暗闇に、後ろに、窓の外に……何もいないのに、何かが居そうな気がしてウィンジールは体も気も縮めて恐る恐る歩いた。
カツリ カツリ
コツリ コツリ ゴツ
「むっ?」
「どうしたの、ウージー君」
「い、いやぁ、たぶん気のせい……」 ガン
「! 今音がしなかった?」
「気のせいじゃないみたいっス……」
二人はランプを高く掲げて辺りを見渡すが、小さな明りでは廊下の端まで照らす事はできない。廊下は濃い闇に包まれていて、静かな空気がやたら不気味だった。
「ゴキブリじゃないスか」
「それにしては音が大きい気がする」
「とてつもなく巨大なゴキブリとか」
「……やめてよ、想像したじゃない」 ゴソ
「!」
「!」
二人に緊張が走り、周囲の空気が糸を張ったようにピンと張った。急に空気が狭くなったような気がして、ウィンジールの鼓動が早くなる。
「いるね」
「巨大なゴキブリが」
「じゃなくて。侵入者だよ」
トリティがランプを頭上近くまで持ち上げ、音のした方……扉を照らす。「この部屋だね」
上から照らされる彼女の顔には、うっすらと笑みが浮かんでいるようにウィンジールには見えた。軍人の血が騒いでいるのだろうか。
「火を消して」自分の持つランプの火を消しながら、トリティは小声で言った。
「え。」なんで、とウィンジールは彼女の言葉に一瞬臆する。真っ暗になるじゃないですか。
「ほら、早く。乱闘になったとき危ないでしょ」
トリティはすでに戦闘態勢に入っていた。ランプを床に置き、腰のハンマーを手に持って姿勢を低くしている。
その姿は図鑑で見た大きな猫科の猛獣が狩りをする様に似ていた。こうなったら誰も彼女を止められない。彼女はたった今、捕食者になった。
「消しましたっス」
自分の力では止められないことを知っているウィンジールは、素直に従った。
「よし、じゃあ私が先に部屋に入るから。ウージー君は入り口で見張っていて。幸いここの部屋は入り口が一つで、窓は廊下側だけ。通気口は天井にあるから、そう簡単には逃げられない。敵が混乱に陥ればきっとここを通るから、そのときは……わかっているよね」
トリティの鋭い瞳が、ウィンジールを捕らえる。
「う。は、はいっス」自信無さげに返事をした。
この闇夜の中に、何処の誰ともわからない、謎の人間が潜んでいる。それは、どことなく……彼の嫌いな闇の存在に似ていた。彼は一瞬、考えた。そして想像した。そうしたら駄目だった。想像を頭から消そうとしても離れず、無理矢理考えまいとしたら意識してしまう。ウィンジールは再び恐怖した。
「なに震えているの、ウージー君。行くよ」
「……はい」
「構えはいい?」
「は、はい」
「誰か居るのっ!」
トリティの大声が、部屋の中に響き渡る。が、しばらく待っても反応は無い。暗闇は暗闇のままで、静寂だった。
しん、としている。
しかしトリティは感じていた。何かが潜む気配を。体中で空気を感じ、その中にある些細な変化を逃さなかった。この部屋に何かいる。
巨大ゴキブリ以外の何かが。
足音を極力たてずに部屋の中に入る。ゆっくりと移動しながら注意深く探っていく。
目は暗がりに慣れて、影の塊となったデスクや椅子の、おおまかな配置は分かった。足下は星の明りのような些細な光は届かず、依然として暗闇に包まれているが、トリティには闇の中の戦闘術も備わっていた。息を整えながら進む。
トリティの視界の端で、何かが移動した気配があった。慌てて振り返るが、すでにそこには何もなく闇があるばかりだ。息をゆっくり吐きながら自分を落ち着かせる。ハンマーを持つ手に力を込め、不審者が移動したと思われる先を、目指す。
スサッ
と、黒い影が視界の端を移動するのをはっきりと見た。トリティは条件反射ともいえる素早さでハンマーを投げ、それは激しい音をたてて床を貫いた。
「むっ、外したかな?」
構えるが、彼女の手にはすでに武器は無い。ハンマーは数メートル先にあり、拾いに行くには少し距離があった。黒い影は部屋の中を移動している。
「そこかっ」彼女は考える間もなく、手近にあった椅子を投げ飛ばす。
「そこかっ」デスクをぴょい、と飛び越えて影を追う。
「そこかっ」足下のゴミ箱を影に向かって思い切り蹴飛ばした。
黒い影はトリティから飛んでくる、あらゆる物をかわし、彼女の容赦ない攻撃にも怯むことなく、俊敏な動きで部屋の中を逃げ回った。そして……
「ウージー君! そっちへ行った!」
部屋の中は危険と判断したのか、逃げ場が無いと悟ったのか。影は部屋の前方、扉へ一目散に目指した。だが、扉の前にはウィンジールが。
震えて小さく縮こまっていた。
「おい! ウージー君っ!」そっちへ行ったよっ!
トリティの大声にウィンジールはハッとして顔をあげた……ときにはもう、目の前に、真っ黒いものが迫ってきていた。体が石のように硬直して、咄嗟の判断ができず、ウィンジールは、ただ黒い影が迫るのを呆然と見ていた。
「――うああああ!」 ドンッ
影は一瞬の迷いも無くウィンジールに正面からぶつかり、彼を思いきり踏みつけて廊下に飛び出した。
「何をやっているんだ、ウージー君! 敵が逃げた! 追うよっ!」
トリティは影を追い、入り口で腰を抜かしていたウィンジールの襟首をつかんで強引に彼を引っ張る。待って下さいトリティさん、と叫んでも彼女には聞こえてない様子だった。
真っ暗な建物の中を、上へ下へと駆け巡る深夜の鬼ごっこが始まる。
夜はまだまだ長い。