第2幕・2 夢から覚めて
落ちている。
雲や鳥があっという間に通り過ぎていく。
配達の途中で、急に自転車の車輪が停止した。
自転車が空を走るのは、魔法使いが帚に乗って空を飛ぶのとはまるで違う。表現通り『走る』のだ。
ベダルを漕いで。
チェーンが回って。
車輪が動く。
地面を走るのと同じ様に、空を走る。
では走らなければどうなるか? 大地なら停止する。三輪自転車なので倒れる事はなく、そのまま、ぼうっとしているだけだ。
しかし空は。
足下が無い。
何も無い。
車輪が止まれば地面に向かって落下する。
耳が痛い。
落ちていく。
車輪が回って走るのならば、車輪を回せばいいだけだ。
頭の中に道を描いて、沿うように自転車を走らせる。イメージする。
足にぐっと力を入れた。
だが、車輪は回らなかった。
なぜか。
ペダルが無かったからだ。ペダルだけじゃない。ハンドルもカゴも車輪も。
……自転車が無かった。宙に放り出されていた。空に足を向け、地面に吸い寄せられていく。
頭上には大きな岩が敷き詰められていた。どれもこれも角があり、岩の隙間に頭蓋骨が転がっている。空から落ちた先人たちだろうか。ああ、じぶんも落ちたら骨になるのか。体はこうちょくしてしまって動かずあしもとにはそら、ずじょうにはするどくとがったいわのせんたんが
「うわあっ」
叫ぶと同時に、夢は幻と消え、エディは現実に戻ってきた。汗をかいていた。
とても不吉で、嫌な夢だった。落ちる夢。本当に嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
頭を振って、悪い夢を振り払う。それから隣の部屋に姉がいなくてよかった、と現実を感じてほっとした。
エディの身内は十歳離れた姉が一人。両親祖父母、叔父叔母もおらず、姉一人弟一人の生活が五年続いている。
ベクターズカンパニー空の駅支社の社宅アパート「スカイハイツ」には姉が支店に就職した二年前から住んでいる。このアパート、築五十年と半世紀を生き抜いた逞しい建物なのだが、壁が薄い。
寝言であっても隣の部屋に丸聞こえなのだ。寝惚けて叫び声をあげるなど、恥ずかしくて姉と顔を合わせられない。
本当にいなくてよかった、と安堵の溜め息を吐きながら、のろのろとベッドから出る。
今日は修理に出した自転車を取りに行かねばならいので、いつもの時間より早く家を出ないといけない。
さらに封書の配達の他に、昨日のあの木箱もある。謎の箱。中身が何であるかは自分の知るとこではないが、とても気になる。
箱に思いを馳せながら、今何時かとふと壁の時計に目をやった。
「……?」
そのとき、エディは時計が壊れているのかと思った。次に、自分はまだ夢の中なのかと疑った。だが時計が示すそれは、有り得ないと思いたかったが、間違いなく現実だった。
「……遅刻だああぁぁぁっっっ!」
現実を受け入れたエディは、ボロアパートを揺らすような勢いで支度をし、部屋を飛び出した。
出勤前に自転車を取りに行くのは諦めた。
遅刻だけは厳禁だ。
時間に関して潔癖なほど敏感なマイクは、遅刻を嫌っている。だから口が裂けても「寝坊しました」なんて言えない。言えば、どれほどの時間を拘束されるのか。その間、ずうっと粘っこいお小言攻撃をされるのである。
その光景を少し想像してみた。
恐ろしくてエディは身震いした。
空の駅支社まで数メートル、というところで鐘が空に響いた。空の駅支社の朝の始まりの鐘だ。五回目が鳴り終わるまでにデスクルームへ入らなければならない。
エディは走る。自転車配達で鍛えた足と体力を使って。ひたすら走る。
空の駅支社の大きな扉を開ければ最初にお荷物受付窓口と、お客様相談窓口「あおの窓口」がある。その後ろに客から見えないよう壁があり、その向こう側が社員の領域だ。エディは受付窓口横の「関係者以外立ち入り禁止」の札が付いている扉を通過した。
鐘は容赦なく時間を数える。
最後の鐘が鳴り終わる直前。
エディは一課の扉を開けた。
直後に最後の鐘がごーんと鳴って、社内全体を震わせる。
間に合った!
本当に、ぎりぎりだった。鐘は鳴り終わる前にデスクルームに入ったのだから、遅刻じゃないはず。お小言は避けられた! とエディは勝手に嬉しくなる。が、それもすぐに、空気の抜けたゴム風船のように萎んでしまった。
「……?」
直前で到着したはいいが、エディは目の前の光景がよく理解できなかった。いつもとは違う一課の風景。慌ただしい雰囲気。一体何があったのか。
メンバーは揃っている。
マイク課長、ガット、それから配達員の面々。
彼らはエディが着いたことに気づいていないようだった。はて、これは自分が異常なのか、夢の続きなのかと首を傾げるが、そんな事は無いと思い直す。
異常なのは一課だった。
一課のデスクルームは、まるで嵐の後のように荒れ果て、書類やら何やらが散乱し、一課のメンバーはそれらを懸命に片付けていた。
「な、なな、なんだこれ……」
落ち着いてきたエディは自分のデスクに着こうと、散乱物をよけて進んで行く。
デスクルームは本当に酷いありさまだった。床一面に書類。文房具。壊れた椅子。凹んだスチール製の棚。散らかったゴミ屑。課長デスクの側でマイクとガットが真剣な顔で話している。よくよく見れば、そこにはもう一人、見覚えのある姿が。
女性にしては百七十センチというスラリとした長身で、エディと同じ栗色の髪はショートカット、飾り気のない守衛制服という出で立ちは、後ろ姿は男性のようだが間違いなく姉のトリティであった。
「何してんだよ、姉ちゃん」
「あんたこそ何やってんの」
振り向いた彼女の目の下には隈が濃く浮いており、灰色の瞳は充血している。誰が見てもわかるような疲労の色が濃く顔に出ているので、エディの心臓がドキリとなった。彼女の身になにか良くない事でもあったのだろうかと、心配になる。
「何って、ここはデスクルーム……」
「そうじゃなくて、今まで何をしていたのかって聞いているの。遅刻するなんて、また寝坊したの? 私がいなくても一人で起きられるようになりなよ」
なにも職場でそんなことを言わなくてもいいじゃないか、とエディは反論したくなったが、姉はどうも機嫌がよくないようだ。目つきがいつになく鋭い。
「本当に悔しい。この私が敵を取り逃がすなんて!」
握りこぶしに力を込めて憤怒している。エディが思うような心配事はなかったようだ。
それにしても、
「敵? 敵って?」
「敵というより、不審者だな」答えたのはガットだった。「そんなことより、トリティ、オメーは一日寝てねぇんじゃないのかい。支社長には俺から言っとくからよ。そのまんまじゃいけねぇな」
「でも、まだ捜査は終わっていないから」
「ウージー君なんかギックリ腰になって、宿直室で寝ているんでしょ。交代の守衛さんが来ているんだから、もう戻ったらどうなのさ」
と言うのはマイク。エディは彼がトリティを苦手としていることを、密かに知っていた。マイクが小心者なだけか、二人の間に何かあったのか(道の外れた間違いでないことは確実だ)理由は知らない。マイクは気遣う素振りをしているが、目には怯えの色がある。
「私から逃げるなんて、いい度胸しているよ。絶対にホシを見つけてやるんだから」
トリティが拳を振り上げると、ガットとマイクがそれを軽く避けた。
「ホシってなぁ、犯人は中にゃいねぇだろう? あとは警衛隊に任せな」
「そうだよ。それに君にも他に仕事があるだろうから、早く行きなって」
「警衛隊なんて一番近くてサンミラノの基地でしょ、いつ来るかわからないじゃない。自衛団だって役に立ちゃしない。彼らに任してたら解決なんかしないよ」
トリティはぶつぶつ不満を漏らして渋っていたが、最終的にはガットとマイクの説得もあって、
「じゃあ、エディ。しっかりね」と言ってデスクルームを去って行った。
「本当に姉弟揃って破壊が好きだよね」トリティが去るとマイクはボソッと呟いて、疲れきった表情でデスクルームを出て行った。
「……何があったんだろう」
結局、何がなんだかわからずじまいだった。呆然としていると、一番近くで書類をかき集めていた、一課メンバーのメリーアンヌが教えてくれた。
「それがねぇ、トリティの話だと、昨晩不審者が出たらしいのよねぇ」
メリーアンヌは頬に手を当て、くねっと腰を動かす。
彼女は一課の配達書類をまとめる事務係で、肩まである褐色の巻き髪が美しく、高級メロンのような芳醇な胸と括れた腰、形のいいお尻が艶かしい大人のお姉さんだ。
仕草のひとつひとつが色っぽく、咳き込むほどの強い花の香りに魅せられる男性社員は多い。
「ドロボーですか? 殺人事件が起きたわけじゃないですよね」
エディはメリーアンヌに尋ねた。男勝りの姉に翻弄されているせいか、エディは社内でも数少ない、魅せられないタイプだった。
「そんな物騒な事は起きちゃいないわよぅ。それに今のところ盗まれた物は無いようよ」
「何も盗られてないんですか?」
「そうねぇ、経理課や集配係が詳しく調べてる最中だから、あなたも盗られた物がないか調べといてね。トリティはこの部屋で不審者を発見したと言っていたから」
「ここ部屋から? それじゃ、もしかしてこの嵐の後みたいなのは……」
ぐるりと部屋を見渡した。よく見れば床に穴があいている。
「うん、これはね」
「姉ちゃんが暴れたんですね」
「……そうなの」
はぁ、と二人揃って溜め息を吐いた。
敵に対する攻撃に集中するあまり、周りが見えなくなってしまうのはトリティの悪い癖だった。
夏のある日、アパートの部屋に出た一匹のゴキブリを退治しようとして、部屋の中を滅茶苦茶にした。また空の駅支店でもハンマーを振り回し、窓ガラスなどを破壊したこともあった。
おかげでエディは、アパートや空の駅支店でしばしばバツの悪い思いをする。
今もデスクルームの整理をしている、一課のメンバーの視線が微妙に冷たい。
「俺、自転車取りにいこうかな」ほとぼりが冷めるまで、隠れていたかった。
「それは急ぐものかしら?」
「ええ、まぁ」エディは歯切れの悪い返事を返す。
自転車が無いと配達ができないのは事実だが、今はそれどころではない状況だ。自分のデスクを片付けるほうが優先なのは理解している。
「この状態だと午前の配達ができるか分からないから、今すぐでもなくても大丈夫だと思うわ。対応が決まるまでしばらくかかりそうだもの」
「ですよね」
予想通りの答えがメリーアンヌから返ってきたので、エディは自分のデスクを片付けようと思い、デスクに向かった。そのとき、般若の顔を歪ませたマイクが不満を背負って戻ってきた。
「はい、みんなー。ちょっと聞いてー」
パンパンと手を鳴らして皆の注意を引く。何の発表か、皆が興味津々にマイクに瞳を向けた。それには少しだけ期待の色があった。配達を休める、という期待が……
「今日の配達は……」マイクが言うと、重々しい沈黙が流れる。誰もが注目した。
「今日の配達は……ありまーす!」
それまでデスクルームに立ち籠めていた緊張感と、少しばかりの期待感は、一瞬にして消え失せた。声には出さなかったが、皆がこの状況で配達をするのを嫌がったのだ。エディだって嫌だった。今日は事件の捜査のために、配達は休みだと思ったのだから。
「なんだよぅ、ボクだって嫌なんだからね」と言うマイクの顔も不満いっぱいだ。
「こんなんで配達するってぇのかい」煎餅座布団の上からガットが尋ねた。
「そうだよ、こんなんで配達するんだ。集配係の調べでは今日の午前の分の配達物は盗まれていなかったんだって。だから午前の配達はできるんだよ。支社長がしろって言ってんだからやらないと。ほらほら、ブーたれていないでさっさと行って来な!」
不審者が出たというのに配達をしなければならないなんて。一課の誰も納得していなかった。エディも、マイクも、他の配達員たちも。
それでも仕事は仕事。
上に逆らえないのが、従事する者の悲しさだ。
不満があっても配達員たちは、それぞれのデスクの周囲を片付けると配達に出て行った。エディも同じように簡単に自分のデスクを整理していると、
「ここは私に任せて。あなたも行ってらっしゃい」
メリーアンヌが優しく声をかけてくれた。
自転車を取りに行けるからいいか。エディは思い直し、行ってきます、と返事をしてデスクルームを出た。




