第2幕・6 空と地上、それぞれの時間
アイリスはエディの横に並んで行儀よく座っている。作業をしている彼の手元を興味津々に見ており、視線を受けるエディは緊張していた。ペンを持つ手に力が入る。
「それは、なぁに?」と、アイリスが尋ねてくる。
「これはインクペンだよ。紙に書く道具だから食べられないよ」
「これは?」
「インク。それも食べ物じゃないよ」
「これは?」
「クリップ。紙を挟む道具だよ。食べ物じゃないから」
「食べられるのはどれ?」
「どれも食べられないよ」ああ、仕事が進まない!
エディは午前の配達の伝票をしていたが、デスクにある文具に手を触れようとするアイリスを、ひやひやした気で見ている。手に取ろうとすれば、引き出しに入れたり手の届かないところへ置いたりと、それの繰り返しだ。まるで幼児を相手にしている気分だった。
午後の時間、昼食を食べられなかったエディを気遣って、メリーアンヌが屋台で肉饅頭を買ってきてくれた。
それを有り難く食べていると、アイリスが真剣な眼差しを向けてくるので、半分だけ差し出した。人形が物を食べるなんて思ってもいない。それは冗談のつもりだった。しかし、アイリスは肉饅頭を食べてしまったのである。
それからアイリスは、目に映るものすべてを口に入れようとする。肉饅頭半分だけでは物足りなかったのだろうか、好奇心だけでなく食欲も旺盛だ。
「アイリスって、どういう構造になってるんだ?」
「そういう人形なんでえ。オートマタってのはよ」
ガットに訊けば、動き、話すのが、オートマタの特徴なのだ、と言われた。
「オートマタってぇのはよ、オメーが自転車で空を走るときと似ているかもな。オメーは自転車を走らせるとき、道をイメージするだろ? オートマタもな、作るときに人形に作り手のイメージを反映するんだ。職人が肌の質感や性格を想像しながら『食欲旺盛な』『好奇心のある』ってぇイメージを持って作れば、オートマタはそんなンになる」
「じゃあ食べるようになっているのも、作った人がそうしたいと考えていたからなのか?」
「そうだな。腕のいい奴ほど、人形の動きはリアルになる」
「ふうん」
と納得したところで、別の疑問がふと思い浮かぶ。アイリスがデスクのメモ用紙に手を伸ばしていたので、さりげなくそれを遠ざけて再び訊いた。
「なんでそんなに詳しく知ってるんだ。ずっとベクターズにいたんだろ?」
「ここに来たのは年食ってからのことでぃ。オメーと同じ年の頃は無茶してたからなぁ、伊達に今まで生きてる訳じゃねえや。マイクや支社長すら知らねぇことも知ってんのさ」
ガットはがははと笑っているが、彼はいったい何歳なんだと、エディは眉間に皺を寄せる。
年老いているとはいえ、身動きは軽いし頭も口もよく回っているので、ヒトでいえば還暦くらいか、とも想像していたが、それも自信がなくなった。そういえば、猫は長い年月を経ると妖気を帯び、尻尾が二つに割れてネコマタという妖怪になると、昔に聞いたことがあった。彼の尻尾は割れていないが、尻尾が割れていないタイプのネコマタなのかもしれない。
と、ぼんやりと考えていたら……
「ああっ! アイリス、それはだめだっ」
少し目を離した隙に、アイリスはエディがまとめていた伝票を、口に入れようとしていた。エディは慌てて手を出したが遅く、彼女は伝票の端を食んでしまった。
そして一言。
「…………おいしくない……」
伝票を口から離して、渋い顔をした。
「どんなもんでい?」ガットが苦笑いで尋ねてくる。
「歯形がついたよ」
伝票の束は、上と下の用紙にくっきりとアイリスの歯の跡が残った。それから彼女の歯並びが綺麗だということがわかるが、関係のないことだった。
「千切れてないから、なんとかギリギリかな」
「ごめんね」
アイリスが萎れて謝るのを見ると、些細なことのように思えてくるのが不思議だった。
「うん。いいよ、謝らなくて」本当はよくないのだが。
「可愛さってぇのは、特権だなぁ」隣でガットがにやにやしながら言っている。
「何か言ったか」
「はは、何でもねえよ。それよりアイリスを送っていくなら早くしろ。差出人の住所だと、そろそろ出ねえと帰ってくるのが夜になっちまうぞ」
「そうか。そうだよな」
アイリスをちらりと見る。相変わらず愛くるしい笑顔で、今度はガットの尻尾をつかもうと手を伸ばして遊んでいる。
「なあ、ガット、差出人のイアソン・ヴォードって人はアイリスを作った人なんだろ。なんでアイリスをモーゼフ爺さんの所に送ったんだろう。知り合いでもないのに」
「そうだなぁ……事情があるんだろ。オートマタってなぁ制作に大金が要るらしいが、せっかく作ったモンを赤の他人に送るってなぁ、普通じゃねえ。サンタクロースだとしても気風が良過ぎらぁな」
そう言うと、ガットは尻尾に戯れるアイリスを相手に遊びはじめたが……それがエディには何か含むものがあるように感じた。
「何か知ってんのか?」
実際、ガットは自分の知らないことを沢山知っている。表には出てこない、裏の奥の、深いところの情報まで知っているのだから、彼の物の言い方が余計に引っかかった。
「ああ、知ってるともな。だがオメーが気に病むことじゃねぇよ」
ガットの答えは、エディを押しのけていた。突っ撥ねて、近づかないように。それ以上踏み込まないように。エディは想像していた通りの答えだったので、やっぱり、という思いしかなかった。同時に、自分が仲間外れにされている気分にもなった。
ガットは重要なことは話してくれない。それは面倒事に関わらせたくない、という親心にも似た心遣いからくるものかもしれない。しかし自分が子供扱いされているようで、エディは悔しかった。配送部一課の新人であることは事実だが、それでも何かを共有できないことは淋しいし、自分は信頼されていないのか、という孤独感が湧いてくる。
「俺は、ガットが何も話さない事を知っているよ」
そう言うのが精一杯だった。だが、ガットの返事で一つのことには確信を得ていた。
ガットは隠し事をしている。それも、重大な事柄を。それが何かは分からなかったが、ガットの態度はそれを裏付けているようにも思えた。
とはいえ彼が何を知っていようと、自分が何を思おうと、アイリスを差出人である、イアソン・ヴォードの元へ送り届けることは確実に決まっていて、それ以外に何かあるのか、と問われれば、やっぱり何もない。
自力で真実を探り当てられるとも思えず、エディは、今より己の無力を強く感じたことはなかった。
「それじゃ、アイリスを送り届けてくるよ」
どうしようもなく、どうすることもできず。
もやもやした気持ちでエディは席を立った。
※ ※
がたがた、と車体が揺れている。道は舗装されていようとも、それが長い年月によって風化していれば、舗装の意味は無いに等しい。砂利道とそれほど変わりない道だ。
「それがトムの兄貴が探していた『鍵』なんですかねぇ?」
運転席のハマートが、体を揺らして興味津々に尋ねてきた。
「さあ、どうだろう。鍵には違いないけど、何の鍵なんだかね」
助手席に座るスーヴェンの手元には、『T』型の鍵があった。
「オルゴールの鍵に似ていますね」
言われてみれば、手にした鍵はオルゴールのゼンマイを回すのに手頃な大きさだ。柱時計のゼンマイを回すのにも丁度良い具合だが、オートマタのイアソンの中に入っていたことを考えると、それのようにも見えてきた。
スーヴェンは鍵をジャケットの内ポケットに仕舞うと、冊子を出した。小さなイアソンは本だと言ったが、それは薄っぺらで装丁も何も無い、簡素なものだった。イアソン・ヴォードが作ったのか、紙は白く、赤い表紙の古い本とは違い古びた物でもない。
開いて読んでいると、ところで、とハマートが言ってきた。
「ところで、さっきの『面倒事の関係』とは何ですか? ボクにはさっぱり解らないです」
ずっと気になって気になって。ハマートは照れ笑いを浮かべているが、目は早く教えて欲しいと訴えていた。
「……そうだね」と言ってから、スーヴェンはフッと息を吐いた。「あの家に行って分かったのは、イアソン・ヴォードがオートマタ職人だってこと」
「倉庫のおっさんや、小さいおっさんはイアソン・ヴォードが作ったんですよね」
「そう。それから何かの製造法を記した、赤い表紙の国定図書」
「倉庫にあった本ですね」ハマートが確認するように頷く。
「イアソン・ヴォードはその本に記されているものを作った。正確には、強制されて、だろうね。オヤジに脅されたか、金に釣られたか……とにかくあの倉庫で作ったんだ」
「あ、では一階のガラクタは作業の名残だったのかもですね」
「問題はオヤジがなぜ作らせたか、だね。この本はどう見ても個人の物だよ。それが国定図書館にあったってことは、それなりに重要な内容なわけだ。ギャングのボスが正当な手段を使って、持ち出せるような本じゃない」
「スパイでも雇ったんじゃないですか」
「そんなものを使ってこの本を手に入れて、イアソン・ヴォードに作らせる理由は何だ? 戦争でも起こす気かよ、馬鹿らしい。この本に書いてある物を欲しがった奴がいて、それをオヤジに依頼したってのが、自然な成り行きじゃないかな」
「おお、なんだかギャング映画っぽい展開ですね!」
「映画だったら、依頼主は政治家や革命家だったりするけど、今回はどうなんだろうね」
ふう、とスーヴェンは息を吐く。今度は疲労を溜めた息だった。
「それで、ボスが作らせた物とは、いったい何でしょう?」
「それはね、たぶん……これだよ」
スーヴェンは首を傾げるハマートに手に持つ冊子を見せた。数ページ白紙が続いた最後に、ごちゃごちゃした小さな文字をまとめるように題字が書いてあった。
『アイリスのオートマタ 取扱説明書』