第8話「狡猾の桜谷」
次の週の月曜日。
「おはようございます」
7月の快晴の空の下。
真っ黒なスクールバッグを肩にかけた桜谷は、通学路にある君野家の前で足を止めた。
家の前では、君野の母親が掃き掃除をしている。
「あら、おはよう。瑠璃子ちゃん。しばらくぶりね」
君野の母親が顔を上げた。
麦わら帽子にアームカバー。
いつもと変わらない格好だった。
「吉郎なら、もう先に行ったわ」
母親はほうきを持ったまま、困ったように頭を掻く。
「相変わらず、瑠璃子ちゃんのことを聞いてもはぐらかすのよ。今日も来ないと思って、先に行ったのかもしれないわね」
「そうなんですね」
「ボケてるのか、思春期なのか……聞いても話したがらないのよねえ」
眉を下げて笑う母親へ、桜谷も上品に微笑み返した。
まさか。
先々週、自分があなたの息子へキスをし、そのせいで1週間も私の存在を忘れていたなど、思いもしないだろう。
「よかった」
君野の母親は安心したように胸を撫で下ろした。
「喧嘩でもして、絶交されちゃったのかと思ってたの。これからも、たくさん仲良くしてあげてね」
「はい。もちろんです」
桜谷は笑顔で頭を下げ、その場をあとにした。
いつもの交差点へ差しかかる。
赤信号の前には、会社員や学生たちが集まっていた。
「ふふっ」
桜谷の口元から笑みがこぼれる。
私だけを頼りにしていた君野くんが、1週間も1人で放置されたらどうなるだろう。
孤独に耐えられなくなり、ますます私を求めるはずだ。
たとえ忘れていても、顔を見れば泣いて縋りついてくる。
桜谷は、学校へ着くまでは本気でそう信じていた。
校舎へ入り、真っ先に君野の靴箱を確認する。
中には、見慣れたスニーカーが収まっていた。
「もう大丈夫なの?」
「ええ。心配してくれて、ありがとう」
声をかけてきた女子生徒へ、桜谷は柔らかな笑顔を向ける。
長い間守ってきた、分厚い仮面。
それを被って歩けば、廊下ですれ違う生徒たちも心配そうに声をかけてくる。
桜谷は1人1人へ上品な笑みを返した。
やがて、1年生の教室が並ぶ廊下へ差しかかった時だった。
「あははは!」
向こうから、大きな笑い声が近づいてくる。
聞き覚えのある声。
桜谷は顔を上げ、足を止めた。
君野が笑っていた。
自分ではない誰かと並び、心の底から楽しそうに。
抱えていたスクールバッグが、手から滑り落ちる。
「……は?」
君野くんが、私以外の誰かと仲良くしている。
隣にいるのは、同じクラスの――。
何で。
何で。
何で。
何で。
内側から響く声が、次第に獣の唸り声へ変わっていく。
あいつは何だ。
誰だ。
何で、君野くんの隣にいる。
私の君野くんと、何をあんなに楽しそうに笑っている。
意味が分からない。
――殺してやろうか。
「さ、桜谷……」
近づいてきた堀田が、気まずそうな顔をした。
「えっ、この子が桜谷さん?」
君野は、2人の間に流れる空気など気づかず、無邪気に笑いかけてきた。
「はじめまして!」
「……はじめまして」
「堀田くんから聞いてるよ。僕とずっと仲良くしてくれてた人なんでしょ?これからもよろしくね!」
「ええ……」
「僕の恋人だって、本当なの?」
「そうね……」
どうしても返事が歯切れ悪くなる。
それでも君野は気にせず、桜谷の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?桜谷さん。まだ体調悪いの?」
「……ううん」
「桜谷、あのさ……」
堀田が後頭部を掻きながら口を開く。
「俺、お前がいない1週間で、君野と仲良くなったんだ」
「……」
「いじめに遭ってるのを見て、放っておけなくなってさ。これからは俺も、君野を支えていきたいと思ってる」
その瞬間。
「わっ!?」
桜谷は君野を強く抱きしめた。
突然の抱擁に、君野は顔を真っ赤にして固まる。
その顔を自分の肩へ埋めさせ、視界を塞ぐ。
桜谷は、君野から見えない角度で堀田を睨みつけた。
「なっ……」
堀田が怯む。
――よくも、私の大事なものに手を出したな。
桜谷は音を立てず、唇だけを動かした。
殺す。
殺す。
殺す。
「ころ……?」
堀田の顔が引きつる。
「どうしたの、堀田くん。お腹痛いの?」
腕から解放された君野が、のんきに尋ねた。
「い、いや……何でもない」
桜谷はすでに、いつもの上品な笑顔へ戻っていた。
「何なんだ、あの女……」
席へ着いた堀田は、小さく呟いた。
先々週、君野を平手打ちしていた桜谷。
さっきの殺意に満ちた目。
眼鏡に三つ編みの大人しそうな姿は、ただの仮面なのかもしれない。
君野が危ない。
堀田は桜谷の背中を睨みながら、落ち着かないまま朝の会を迎えた。
1時間目が始まって10分ほど経った頃。
君野が机の上へリュックを置いた時、桜谷は見慣れないものに気づいた。
「これ、何?」
リュックには、丸いプラスチック製のキーホルダーが付いている。
太い明朝体で「弟」と書かれただけの安っぽい代物だった。
「あ、これ?」
君野は嬉しそうに笑った。
「堀田くんとお揃いで買ったんだ。とっても大切なものなんだよ」
にひひ、と悪戯っぽく笑う。
その表情だけで、どれほど大切にしているのか分かった。
今すぐ窓から投げ捨ててやりたい。
こんなもの、なくなればいい。
「ねえ、君野くん」
「何?」
「次の休み時間に、一緒に来てほしい場所があるの」
桜谷はキーホルダーを返し、柔らかく微笑んだ。
「堀田くんには言わずに、2人きりで」
「え?あ、うん!」
君野は疑うことなく頷いた。
1時間目の休み時間。
君野と桜谷は、3階の校舎端にある人通りの少ないトイレの前にいた。
「トイレは、いつもここを使っているの?」
「うん」
「ねえ、君野くん。聞きたいことがあるの」
桜谷は目を細めた。
次の瞬間、君野の両肩を掴み、そのまま壁へ押しつける。
「いっ……!痛いよ!」
「ねえ」
逃げ場を塞ぐように顔を覗き込む。
「堀田くんと、1週間過ごしてみてどうだった?」
「な、何って……」
「楽しかった?」
「た、楽しかったよ……」
「じゃあ、堀田くん“たち”は?」
「たち……?」
「堀田くんの周りにいる人たち。どうだった?」
「えっと……」
君野が言葉に詰まる。
桜谷には、それだけで十分だった。
「君野くん。この世にはね、サバンナで暮らすシマウマとライオンみたいに、決して交わることのできない人間同士がいるの」
「……」
「堀田くんはライオン。私たちはシマウマ」
優しく教え諭すような声で続ける。
「どういうことか、分かる?」
「分かんない……」
「堀田くんがライオンなら、その仲間もライオンよね」
桜谷の指が、君野の肩へ食い込む。
「そこへシマウマの君野くんが入り込んだら、周りのライオンたちはどう思う?」
「……迷惑だと思う」
その答えに、桜谷の口角が一瞬だけ上がった。
「それで、実際にはどうなったの?」
「……堀田くんが」
君野の顔から血の気が引いていく。
「僕のせいで、彼女と別れちゃった……」
瞳へ涙が溜まる。
「そうだった……」
君野は今さら思い出したように震え始めた。
「堀田くんは、大事な彼女と別れたんだ。僕のせいで……」
桜谷は、先ほどまでの表情を消した。
泣き出しそうな君野を、今度は優しく抱きしめる。
「本当だ……僕、悪い奴だ」
君野の声が震える。
「堀田くんの大事なものを壊した。僕がいたら、駄目なんだ……」
「優しいのね、君野くん」
桜谷は耳元で甘く囁いた。
「大丈夫よ」
濡れた頬を両手で包む。
「これからは、私が隣にいるんだもの」
君野の目を真っ直ぐに覗き込む。
私には、呪いのキスがある。
彼の目も。
耳も。
鼻も。
呼吸も。
体温も。
すべて、私のもの。
――もう、どこにも行けない。
桜谷は君野の後頭部を、ゆっくりと撫でた。




