第21話「野良犬と追いかけっこ」
9月。
夏休みが終わり、蝉の声も少しずつ遠のいていた。
桜谷の13歳の誕生日まで、あと3日。
2時間目の理科。
実験室でスポイトを持っていた君野が、突然口を開いた。
「桜谷さん!もうすぐ誕生日だね!プレゼント、何が欲しい?」
「おっ、そうなのか。お前、9月生まれなんだな」
隣には、別の班のはずの堀田が当然のようにいた。
試験管を持ち、君野の実験を手伝っている。
夏休みの遊園地では、2人の仲が険悪になるよう仕向けたはずなのに。
もう元通り。
「でっかいホールケーキでも買うか?」
「あなたに祝われる筋合いはないわ」
「みんなでお祝いしようよ!どこか食べに行く?」
「君野、お前そんな金あるのか?」
「大丈夫!メイドカフェでお手伝いした分があるんだ!」
「無理しないで」
桜谷は、わずかにはにかんだ。
「私は君野くんがいてくれれば、それでいいから……」
5日前から、何があっても呪いのキスはしないと決めていた。
君野が自分の誕生日を覚えていてくれる時間。
プレゼントを考えてくれる時間。
全部、失いたくなかった。
遊園地の観覧車で知ったことだけは、今は考えない。
誕生日までは、このままでいたい。
「桜谷さんは、誕生日に家族とお祝いするの?」
「しないわ。何も」
「え?そうなの?もしかして――」
「君野!かき混ぜ終わったら次はリトマス試験紙だ!」
堀田が強引に会話へ割り込んだ。
桜谷は黙ったまま睨む。
何気ない会話にまで入ってこないで。
3時間目は、1組と2組合同の農業体験だった。
芋掘り班と稲刈り班に分かれ、堀田は稲刈り、君野と桜谷は芋掘りになった。
「ちぇ。君野たちは芋掘りか……」
「えー、私もサツマイモ?せっかく1組と2組一緒なのに、ゆうじゅと離れるじゃん」
美咲も不満そうに頬を膨らませる。
「何だよ。俺たちじゃ不満か?」
藤井が笑った。
堀田は芋掘り班が向かう山の方角を見る。
「最近、街まで野生動物下りてくるだろ。ちょっと心配なんだよ」
「君野が食われても、綿あめみたいに腹にたまらなそうだけどな」
藤井が鼻で笑った。
「ゆうじゅ!」
美咲が堀田の腕へしがみつく。
「私が山へ行くのは心配じゃないの?君野くんより!」
「そうだな」
堀田は真顔で頷いた。
「お前が君野をいじめないか心配だ」
「しないわよ!隣の眼鏡女が怖いんだもん!」
美咲は肩を縮めた。
そのまま稲刈り班へ紛れ込もうとしたが、教師に見つかり、芋掘り班へ連れていかれた。
山を少し登った芋畑。
「見て見て!桜谷さん!大きい!」
君野は土から引き抜いた大きなサツマイモを、得意げに掲げた。
「ふふ。よかったわね」
「桜谷さんって何が好き?何が欲しい?」
「気持ちがこもっていたら、何でもいいわ」
「これでも?」
土まみれのサツマイモを差し出す。
「ええ。いいわよ」
桜谷は穏やかに微笑んだ。
「私を思ってくれる、その気持ちが嬉しいの」
「じゃあ、僕に何かしてほしいことある?」
「そうね」
桜谷は少し目を細めた。
「堀田くんと話さないでほしい」
「え……」
君野の笑顔が消えた。
「……嘘よ」
「え?」
「でも、それくらいあなたのことが好き」
桜谷は顔を覗き込む。
「いつも元気でいてくれれば、それでいいわ」
「よかった!本気にしちゃった」
君野は胸を撫で下ろした。
「桜谷さんって、本当に女神様みたいに優しいね。僕、こんな子が彼女でよかった!」
女神様、ね。
桜谷は吹き出しそうになり、サツマイモへ顔を向けた。
その時だった。
「桜谷さん、危ない!」
ワンワン!
畑の奥の茂みから、何頭もの犬の鳴き声が響いた。
木々が激しく揺れる。
「犬!」
「野犬だ!」
誰かが走り出した。
恐怖が一気に広がる。
「逃げろ!」
「きゃあああっ!」
生徒たちは道具を放り出し、山道へ殺到した。
山の麓では、堀田と藤井も叫び声に気づいていた。
草木をかき分け、芋掘り班の生徒たちが次々と駆け下りてくる。
「野良犬だ!逃げろ!」
「全員、母屋へ入れ!」
教師や農家の人々が避難を呼びかけた。
「みんな、ばらばらに逃げちゃって……!」
泣きながら訴える女子生徒。
堀田は戻ってくる生徒を必死に目で追った。
君野がいない。
桜谷もいない。
「堀田!」
藤井が呼んだ時には、堀田は鎌を手に山へ走り出していた。
「君野!桜谷!」
途中、浅い川の中で動けなくなっている美咲を見つける。
「ゆうじゅ、助けて!」
「美咲!」
「足くじいた!出られないの!」
堀田が川へ下りようとしたところへ、藤井が追いついた。
「藤井、美咲を頼む!」
「お、おい!」
そのまま山へ駆け上がる。
「嘘でしょ!せめて助けてから行きなさいよ!」
美咲の絶叫にも振り返らなかった。
「君野!桜谷!」
芋畑へ飛び込む。
いた。
畑の中央で、桜谷が座り込み、君野がその体を守るように抱き締めている。
周囲には2匹の犬。
距離を取りながら、激しく吠えていた。
「この……!」
堀田が足元の小石へ手を伸ばした。
その瞬間。
バチン!
「!」
桜谷が君野の頬を平手打ちした。
そのまま唇を重ねる。
何してるんだ。
こんな時に。
「大丈夫よ」
桜谷はキスを終えると、震える君野を抱き締めた。
「呪いのキスで、明日にはきっと忘れるから」
「……何だよ」
堀田の口から声が漏れた。
「『呪いのキス』って……」
以前、階段の踊り場でも聞いた。
あの時も、桜谷は君野を平手打ちしてから同じ言葉を口にした。
「!」
桜谷が振り返る。
「なあ。呪いのキスって何だ?」
「何しに来たの?」
「助けに来たんだよ!」
堀田は君野へ駆け寄った。
「大丈夫か!?」
「堀田くん……!」
君野の顔が一瞬明るくなる。
だが、すぐに桜谷を見て泣きそうな顔へ戻った。
「桜谷さんが足をくじいて動けないの……!」
ワンワン!
すぐ近くで犬が吠えた。
「私はいいから、君野くんを連れていって」
「見捨てられるわけないだろ!」
堀田は桜谷へ背を向け、腰を落とした。
「乗れ!」
「でも……」
「早く!」
君野も逃げようとしない。
桜谷は観念し、堀田の背中へしがみついた。
「君野」
堀田は、君野が握った鎌を見る。
「刃を下に向けろ。犬が来ても絶対振り回すな」
「う、うん!僕が2人を守る!」
3人は犬から距離を取りながら、ゆっくり山道へ戻っていく。
ところが犬が後ろからついてくると、君野は恐怖に耐えられなくなった。
「近づかないで!悪霊退散!」
「振り回すなって言っただろ!」
「ご、ごめん!」
慌てて鎌を下げる。
桜谷は、堀田の背中へしがみついていた。
思っていたより、ずっと広い。
自分を支える腕。
短い髪。
大きく上下する背中。
体温。
どれも知る必要などない。
それなのに、身体が勝手に覚えていく。
3人が山道を抜けると、教師たちが駆け寄ってきた。
「こっちだ!」
「早く中へ!」
結局、犬に襲われた生徒はいなかった。
何人かが鳴き声に驚いて逃げ、その恐怖が広がったらしい。
安全を優先し、農業体験は中止になった。
手当てを終えた桜谷は、母屋の柱へ背中を預けていた。
ああ、台無し。
君野くんの記憶は消えてしまった。
それだけじゃない。
堀田くんに、呪いのキスまで聞かれた。
「喉乾いただろ。すごい疲れた顔してるぞ」
堀田が紙コップの水を差し出してきた。
「疲れてないわ」
「足、無理すんなよ。それと、お前いくらなんでもビンタはないぞ」
「はあ?」
「家庭の事情があったとしても、暴力は駄目だろ」
桜谷の苛立ちが一気に膨らんだ。
右手を振り上げる。
パン!
「ってえな!何すんだ!」
「私のビンタは嫌な記憶を消せるの」
「は?」
「君野くんは明日には、犬に襲われたことなんて覚えてないわ」
「そんなこと――」
あるわけない。
そう言いかけて、堀田は止まった。
君野の不自然な記憶喪失。
昨日まで覚えていたことを、翌朝には何も知らないと言う姿。
「だから、あなたもさっさと忘れなさい」
「はあ???」
「もう、この話は二度としないわ」
堀田は紙コップを握り潰しかけ、ぎりぎりで止めた。
次の日。
「おはようございます、お母さん」
桜谷はいつもどおり、君野の家へ迎えに来た。
また、やり直しの朝。
「あら、おはよう。瑠璃子ちゃん。入って」
君野の母親が出迎える。
その時、パジャマ姿の君野が玄関を横切った。
「わっ!?桜谷さん!恥ずかしい!」
「……え?」
桜谷の表情が凍りついた。
「あら、吉郎。おはよう。こんな時間に起きてくるなんて珍しいわね」
「どういうこと……?」
君野は、確かに自分を見ている。
「昨日も来てくれたのに、また来てくれたんだね……」
「……」
覚えている。
昨日の自分を。
「もう、早く着替えてきなさい。ねえ、瑠璃子ちゃんは――」
母親の声が遠くなる。
桜谷は何も答えられなかった。
呪いのキスが――。
効いてない。
誕生日まで、あと3日。




