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第2話「はじめましての恋人」

 君野きみのは、闇の中へ沈んでいた。


 深い海の底のような場所。


 どれほど漂っていたのか分からない。


 ……ここは、夢の中?


「あ……」


 闇の向こうに、一筋の光が差している。


 君野は思わず手を伸ばした。


 届く。


 そう思った瞬間――。


「うわっ!?」


 足元から黒い影が伸び、足に絡みつく。そのまま首まで這い上がった。


「……ガハッ……!助けて!!」


 息ができない。


 もがくほど、体は闇へ沈んでいく。


 そして――。




「うわああっ!!」


 君野は勢いよく上半身を起こした。


 額には汗が滲み、髪が張りついている。


「はあ……変な夢……」


 怖かったはずなのに、何を見たのか思い出せない。


 窓の外では小鳥が鳴いていた。


 朝だ。


 右側だけ跳ね上がった髪を見て、君野は呟く。


「クセが強い……」


 諦めてベッドから降りた瞬間、


「痛っ!」


 脱ぎ散らかしたベルトを踏んだ。


 床には制服や教科書、空のペットボトルが散乱している。


「……帰ったら片付けよう」


 そう言って片付けないのも、いつものことだった。


 階段を下り、居間の前を通りかかる。


 ドアの小窓から、見知らぬセーラー服の少女が見えた。


 眼鏡に三つ編み。


 君野と目が合うと、少女は優しく笑った。


「あら、おはよう。君野くん」


「お、おはよう……誰、ですか?」


「吉郎!また寝ぼけてるの?早く顔と歯を磨いてきなさい!」


 母に急かされ、君野は洗面所へ向かった。


 歯を磨きながら考える。


 ……また、何か忘れてる?


 制服へ着替えて居間へ戻ると、母は庭へ出ており、部屋には少女と2人だけだった。


 トースターが鳴る。


 君野が手を伸ばすより早く、少女がパンを取り出して蜂蜜をかけた。


「何で分かるの?」


「今日は蜂蜜の気分よね」


「え、なにかの占い?」


 少女はくすっと笑った。


「それはね」


 一拍置いて、当たり前のように言う。


「私はあなたの恋人だから」


「ほいひほ!?」


 パンをくわえたまま固まった。


「私は桜谷瑠璃子さくらたにるりこ。学校ではあなたの隣の席に座っているの」


「隣の席……?」


「毎日のように、ここにも来てるの」


「毎日!?」


 知らない女の子が恋人で、毎朝家にも来ている。


 現実にしては話が飛びすぎていた。


「君野くん、なかなか私のこと覚えられないみたいね」


「……ごめん。でも、本当に僕たち恋人なの?」


 桜谷は静かに頷く。


「ええ。君野くんは毎回、私を好きになってくれるわ」


 ――毎回。


 その一言だけが胸に引っ掛かった。


「不安?」


 桜谷が顔を覗き込む。


「顔に描いてある。……大丈夫。私がいる」


「う、うん……」


 きっと、自分が忘れているだけなのだ。


 2ヶ月前――“4月の事故”のせいで。




「いってらっしゃーい!」


 母に見送られ、2人は学校へ向かった。


 桜谷は君野の歩幅に合わせ、信号が変わりそうになると袖を小さく引く。


「急ごう」


「あっ、うん」


 その仕草は、何度も繰り返してきた朝のように自然だった。


 事故の前は、本当に恋人だったのかもしれない。


 そう思えるほど、一緒にいる時間は居心地がよかった。


 やがて桜谷は、小さな公園の前で足を止める。


「君野くん。ここ、覚えてる?」


「……ううん」


「私たちが初めて会った場所なの」


 遊具はほとんど撤去され、広場だけが残っている。


 桜谷は一つのベンチへ歩み寄った。


「ここも大切な場所。私が泣いていた時、君野くんが雑草で花束を作ってくれたの」


 懐かしそうに笑う。


「『笑顔の君には、この花が似合うと思うんだ』って」


 君野はベンチを見つめた。


 やはり、何も思い出せない。


「……ごめん」


「いいの」


「桜谷さん、学校遅刻しちゃうよ」


「ふふ、そうね」


 差し出された手を、少しためらって握った。


 温かかった。


 恋人という実感はない。


 それでも、その温もりには安心できた。


 歩きながら、桜谷は昔好きだった歌やジュース、口癖を教えてくれた。


 どれも君野には分からない。


「あの、僕も質問していいかな」


「もちろん」


「桜谷さんは、何が好きなの?」


「薔薇の花」


「どうして?」


「君野くんが小学生の頃、『今度、薔薇をプレゼントするね』って約束してくれたから」


「……そっか」


 また、昔の自分だった。


 今の彼女を知ろうとしても、答えはいつも過去の君野へ繋がってしまう。


 胸の奥に、小さな引っ掛かりが残った。


 学校に着くと、桜谷は本当に同じクラスの隣の席だった。


「ねえ、いつも僕たちってどんな風に過ごしてた?」


「ふふ。私たちは2人の世界を大事にしているの」


「じゃあ、いつもこんな話を?」


「ええ。君野くんが疑問に思うことを、私が答えてるのよ」


「……そっか」


 学校生活の記憶まで曖昧だった。


「ねえ君野くん。小学生の頃ね――」


 まただ。


 どんな話をしても、桜谷は昔の君野へ戻ってしまう。


 数日経っても、それは変わらなかった。


 最初は、忘れている自分が申し訳なかった。


 けれど次第に、別の気持ちが膨らんでいく。


 ――今の僕を、見てもらえていない。




 そして、ある日の休み時間。


「もういいよ!」


 気づけば、教室中に声が響いていた。


 辺りが静まり返る。


「昔の僕の話、もうやめて……」


 桜谷が目を丸くした。


「どうして?」


「だって、それ……僕じゃない」


 君野は拳を握る。


「いくら聞いても思い出せない。他人の話を聞いてるみたいなんだ」


「私のこと嫌いなのね」


「違う!」


 思わず声が大きくなる。


「嫌いじゃない。だから……今の桜谷さんを知りたいし、今の僕を見てほしいんだ」


 恋人だと言われても、まだ実感はない。


 それでも、好きになりたいと思っていた。


「僕たち、本当に恋人同士なんだよね?」


「そうよ。それがどうかしたの?」


 君野は小さく息を吸う。


「じゃあ……そろそろ、恋人らしいことしたい」


「恋人らしいこと?」


 君野は意を決して一歩近づき、ゆっくり顔を寄せた。


 しかし――。


「やめて」


 桜谷の右手が、君野の口元を押さえた。


 今まで聞いたことがないほど冷たい声だった。


「どうして?」


 恋人なのに。


 桜谷は静かに答える。


「私の好きな君野くんは、そういうことしない」


「……え?」


 胸が冷たくなった。


 この人は。


 僕じゃなく――昔の僕だけに恋してる。


 君野は何も言えないまま席へ戻った。


 授業が始まり、教室には先生の声だけが響く。


 一方、桜谷は黒板を見つめていた。


 ――まただ。


 この流れ。


 私は彼を愛しているだけなのに。


「なんで……分かってくれないの」


 彼がこうなったら、やることは一つしかない。


 明日の朝になれば、彼はまた違う顔で目を覚ます。


 そうすれば、また最初からやり直せる。


 それでいい。


 それしかない。


 授業の途中、桜谷は前を向いたまま口を開いた。


「……ねえ君野くん」


「ん?」


「今日、私の家に来ない?」


「桜谷さんの家?」


「うん、いいけど」


 すると桜谷は、何事もなかったように微笑んだ。


「私ね、マジックできるの」


「えっ?」


「イリュージョンマジック。君野くんにも体験してもらいたくて」


「ええ!?すごい!どんなの?」


 さっきまでの空気が嘘のように、君野は身を乗り出した。


 桜谷はそんな彼を見て、小さく笑う。


「……ねえ」


「うん?」


「怖いって顔してるのに、断らないよね」


 その一言で、背中に冷たいものが走った。


 怖い?


 僕、そんな顔してた?


 それでも口は勝手に動いた。


「うん、行くよ」


 断る理由が思いつかない。


 いや――違う。


 断ってはいけない。


 そんな気がした。


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