第84話 空間湾曲
「あのちびっ子ですか?」
ウタは眠たげな黒い瞳をゆっくりと動かし、天井近くに立つ少女へと、静かに右手を向けた。その瞳の奥で、時を刻む秒針のような不気味な光紋がチクタクと回り始める。
「うるせえ!ちびっ子って言うな! 私にはイディラって名前があるんだよ! 」
「イディラ?!」
「あっ!名前言っちゃったよ!くそっ!!まあ、いいか」
天井に張り付いたまま、少女は愛らしい顔を邪悪に歪め、自分で口を滑らせたことに気づいて、可愛らしく舌を出した。ウタはそんな彼女の反応を一切気に留めることなく、その薄い唇から魔法の定義を紡ぐ。
「――『遅滞領域』」
キィィィン……と、耳鳴りのような鋭いマナの共鳴音が天井へと向けて放たれた。
ウタの放った極限の静止魔法が、対象の体内時間そのものを凍りつかせようと一瞬にして広がる。
「ばいば〜い、馬鹿魔女さんたち〜!」
しかし、魔法の発動を察知したイディラは、素早く懐から蠢く肉塊のような魔道具を取り出し、自らの針をそこへと突き刺した。
その瞬間、彼女のすぐ横の空間が、水面に石を投じたかのようにぐにゃりと大きく歪み、ぽっかりと不気味な暗黒の穴が口を開けた。
イディラは躊躇うことなくその穴へと飛び込み、それと同時に空間の歪みは急速に元に戻って完全に閉じてしまった。
ウタの静止魔法の波紋は、イディラの消えた無人の天井へと虚しく溶けていく。
「……逃げた、か」
ウタは眠たげな表情のまま、一切の動揺を見せずにすっと右手を下ろした。
一部始終を息を呑んで見つめていたサキは、激しい瓦礫の煙と静寂だけが取り残された病室で、ようやく我に返った。そして、ウルのベッドの脇で必死に彼女の状態を見つめているアザレアの横へと駆け寄った。
「アザレア、ウルの様子はどうなの?」
「厳しいわ……。でも、ウタが時間を止めてくれたおかげで、幸い、呪いの侵食は完全に止まっているわ。この、ウタが作ってくれた時間の猶予の間に、少しでも呪いの除去をしないと……!」
「ねえ、私に手伝えることはないかな?」
サキの真剣な申し出に、アザレアは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに力強く頷いた。
「そうね、あなたの『ノーデンス』をウルにかけ続けて! 表面だけでも、少しずつ呪いの侵食を抑えたいの。それと、クティラ!ルクレツィアを呼んで!ウルの魔女回路の調整を、彼女に手伝ってもらいたいの!」
「分かった!」
クティラは自身の胸元の星紋へマナを接続し、鋭い声を張って通信魔法を起動した。
サキはウルの小さな胸元へと両手をかざし、優しく温かな緑色のマナを放ち始める。少しでも彼女の痛みが和らぐようにと祈りながら、サキはふと、隣で眠たそうに佇んでいる黒い衣装の少女へと視線を向けた。
「あ……そうだ。初めまして。私、サキっていいます。さっきはウルを助けてくれてありがとうございました」
ゴシック調のフリルを揺らしながら、少女は気怠げに半分閉じた瞳でサキを見つめ、小さな声で答えた。
「初めまして。私は、クァチル=ルウ=ウタウス。よろしく……」
「あ、はい。よろしくお願いします、ウタさん。……それにしても、時間を止める魔法だなんて、本当にすごいですね!それなら……もしかして、時間を『巻き戻す』ことも出来たりするんですか? そうすれば、ウルちゃんが呪われる前の状態に戻して……」
サキが期待に満ちた声を上げると、ウタは小さくあくびを噛み殺しながら、静かに首を横に振った。
「ううん、ごめんなさい、それは出来ない……。私に出来るのは、あくまで私の認識したある程度の範囲の時間を『止める』だけ。……過ぎ去った時間を戻すことは、私にも、誰にも、出来ない……」
「そうなんですね……」
サキは少し肩を落としたが、それでもこの力は驚異的だ。ウタは小さく伸びをすると、とろんとした目でサキを見つめた。
「私、そろそろ、眠くなってきたから戻る……」
「あ、は、はい」
「ウタ、ありがとね!」
「おやすみ……」
サキが返事をした、まさにその刹那。目の前に立っていたはずのウタの姿が、一瞬にして、文字通り煙のようにかき消えてしまった。
「えっ!?消えた!?しゅ、瞬間移動……っ?!」
サキが驚愕のあまり周囲を見回すと、ベッドの反対側で魔力調整の維持をしていたアザレアが、呆れたようにため息を吐いた。
「はぁ〜、違うわよ。ウタが自分の周りの時間を止めて、自分の部屋に戻ってから、時間の流れを元に戻したの。だから、私たちの感覚からは一瞬でいなくなった様に見えるのよ」
「そうなんだ……。でも、なんかすごく寝起きっぽかったというか、眠そうだったけど……」
「あの子はね、一日のうち20時間以上を寝て過ごしているのよ。一度本格的に寝始めると、周りで何が起きても絶対に起きないの。だから、あんたの身体が呪いで侵食されて心臓が止まりそうだった時も、あの子が寝てたから、来られなかったのよ」
「そ、そうだったんだ……!?」
サキは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
「そうよ。時間を止める魔法なんて、世界の理をねじ曲げるようなものだもの。使うにはそれこそ相当なマナを消費するし、その反動で睡眠時間も多くなるってわけ。起きてる時だって、いつもああいう風に、死にそうなほど眠たそうにしてるしね」
「ふえぇ……いろんな魔女さんがいるんだなぁ……」
「いろんな魔女って言ってもね、あの子、これでも深階順位は『第4位』の規格外の化け物よ?」
「ええっ!?第4位!?」
サキの絶叫が病室に響く。 ユカリ(第1位)やウル(第2位)に次ぐ、とんでもない実力者が、あのぼんやりとした、眠たげなゴスロリ少女だったとは夢にも思わなかった。
「ある程度の範囲限定とはいえ、時間を完全に止められるんだからね。世界の理をいじってる訳だから、当然の順位よ。――って、あんた、おしゃべりしてないで集中して!!ウルちゃんを癒してあげて!」
「わ、分かったよ」
サキが慌ててノーデンスのマナを集中させ直した、まさにその瞬間。ウルの病室の扉が勢いよく開き、ルクレツィアが息を切らせて部屋へと飛び込んできた。
「ハァ、ハァ……ごめんなさい、遅くなりましたわ、お姉様方!」
「ルクレツィア!ウルの魔女回路の調整をお願い!」
アザレアの指示に、ルクレツィアはすぐさまベッドへと駆け寄り、ウルの小さな胸元を覗き込んだ。そして、彼女の吊り目気味の美しい瞳を、驚愕と緊迫に細めた。
「……こ、これは……想像以上にひどいですわね。回路の断線具合が尋常ではありませんわ……。修正には少し、時間がかかりますわね」
「大丈夫、ウタが時間を止めてくれているから、今なら焦らずに修復できるわ!」
「そうですのね。でしたら、まずは回路を正常な位置に戻しますわ!」
ルクレツィアは懐から光り輝く魔導針を取り出すと、手から金色の洗練されたマナを放ち、ウルの小さな身体に向けて丁寧にかざし、回路の縫合を開始した。
ルクレツィアと、アザレアが必死にウルを治療する姿を、サキはノーデンスを放ちながら、じっと見つめていた。
自分の体内には、ユカリから分け与えられた、温かで膨大すぎるほどのマナが、未だに淀みなく駆け巡っている。
(このマナを、ウルの治療のために使えたらいいのに……。私のマナを、他の魔女に直接供給し続ける方法って、ないのかな……?)
サキは自分の胸に手を当てながら、後で目を覚ましたユカリに直接、マナの供給について相談してみようと、心の中で強く思考するのだった。
ウタはこんな子なんです。
彼女の特性上それほど登場はできませんが、今後は少しずつ顔を出させたいなと考えています。




