第75話 緊迫の搬送
「サキっち!目を開けて!起きて!」
魔導灯の淡い光がにじむルルイエの夜の広場に、クティラの悲痛な叫び声が響き渡った。
木の皿から滑り落ちたルルカ焼きが夜の冷たい地面を汚し、サキの身体は人形のようにぐったりとしたままピクリとも動かない。
「お姉様!大大丈夫でございますか!?サキお姉様っ!」
ルクレツィアが駆け寄り、細い手をサキの肩に当てて必死に揺するが、サキの瞳は完全に閉じたままだ。体内の『魔女回路』の脈動は、まるで濁流に飲み込まれていくかのように急速に濁り、不規則な弱々しい拍動を繰り返している。
「サキさん――ッ!」
エルダはすぐさま膝をつくと、サキのただ事ではない様態を瞬時に把握した。
防衛の専門家としての直感が、これが単なる疲労や急性マナ欠乏ではないと告げていた。
エルダは紫色の縦長の瞳孔を鋭く見開くと、スッと自身のこめかみに指を当て、自身の意識の糸をはるか後方の『蜘蛛の糸』にいるユカリへと限界まで伸ばした。
(ユカリ様、大変です。サキさんが……サキさんが街中で突如、昏倒いたしました)
エルダの念話を通じた必死の報告に、繋がったユカリの意識から、一瞬にして刺すような緊張感が伝わってきた。
(何が起きたの!?エルダー・シグナの防壁はどうしたのよ!?)
(防壁は健在です、物理的な外部からの攻撃は一切感知しておりません。ですが、サキさん自身のマナが極めて濁り、呼吸も極端に浅くなっております。まるで、内側からマナが泥に沈められていくような)
(すぐに娼館へ連れて帰りなさい!馬車をそちらに向かわせるわ!)
ユカリの緊迫に満ちた鋭い命令が、直接エルダの脳裏へと叩き込まれた。
「サキちゃん、大丈夫かい……?」
覗き込んできたのは、つい先ほどまで楽しそうにサキからルルカ焼きを受け取っていたナイアルだった。
彼の爽やかだった美貌からは悪戯っぽい余裕が完全に消え去り、酷く真剣な表情でサキの蒼白な顔を見つめている。
「これは……何かの『呪い』が、身体の奥深くでかけられているのかもしれない」
「呪い……!?そんな、一体いつの間に!?」
エルダが立ち上がり、驚愕に満ちた声を上げる。
「分からない。君たちは今まで、彼女を連れてどこに行っていたんだい?」
ナイアルの問いかけに、ルクレツィアが涙をためた目を揺らしながら、絞り出すように答えた。
「救療院ですわ!サキお姉様を連れて、私たちは救療院へ行っておりましたの!」
「救療院?そこで、何かあったのかい?」
ナイアルが顎に手を当て、鋭い目を細める。
「な、なにも!救療院の内部は、常に高位の加護によって清められておりました。不審な人物や、暗殺者らしき姿も一切見かけませんでしたし……!」
エルダが自責の念をにじませながら必死に記憶を呼び起こそうとするが、いまは原因究明よりも、一刻を争う人命救助が最優先だった。エルダは激しく頭を振り、全員に向けて声を張り上げた。
「それよりも、まずはサキさんを娼館へお運びします。ユカリ様がすぐに馬車をこちらへ回してくださるそうです」
「サキっち、待ってて、いま私の触手ちゃんが守ってあげるから……!」
クティラが泣きじゃくりながら自身の青いワンピースの裾を乱すと、その中から普段の愛らしさからは想像もつかないほどに太く、頑丈な、ふかふかとした三本の青い触手が地面へと伸びた。
触手たちはまるでお姫様を載せるための柔らかな担架のように、細い枝葉のように優しく組み合わされ、ひとつの平らな寝台を作り出す。
「サキっちを乗せるの、手伝って!」
「分かいましたわ!せーの、ですわ……っ!」
ルクレツィアとエルダ、そしてナイアルが手分けして、ぐったりと冷たくなったサキの細い身体を持ち上げ、クティラの触手の寝台の上へと丁寧に横たわらせた。
青い吸盤が、サキの身体が崩れ落ちないように、微弱なマナを帯びて優しく包み込み、固定する。
それとほぼ同時だった。 夜のルルイエの静まり返った通りを、黒塗りの魔導馬車が猛烈な速度で近づいてくる馬蹄の音が響き渡った。
人の手による手綱はなく、ただ淡く光るマナの糸に導かれた馬たちが、サキたちの目の前で、火花を散らすほどの急停止を見せる。馬車の扉が勢いよく開かれた。
「クティラさん、そのまま運び込んでください!」
「分かった!」
クティラは触手でサキの身体を包み込んだまま、落さないよう最新の注意を払って馬車の広々とした座席へと滑り込ませた。
それに続くようにして、ルクレツィア、エルダ、そして――
「僕も行くよ。何かの役に立てるかもしれない」
ナイアルが、誰に促されるでもなく馬車のステップへ足をかけ、車内へと滑り込んできた。
「ナイアル……?ええ、助かります、乗ってください」
エルダは彼の同乗を拒むことなく扉を勢いよく閉めると、馬車の制御術式へと自身のマナを直接叩き込み、馬たちに命じた。
「『蜘蛛の糸』へ!最大速度で!」
エルダの魔力による号令と共に、魔導馬車は激しい衝撃を伴って急加速した。
窓の外を、魔導灯に照らされた夜のルルイエの街並みが猛スピードで流れていく。
馬車の中では、サキを包み込むクティラが彼女の冷たい頬を優しく撫で続け、ルクレツィアは祈るように胸元で手を握り締め、エルダはサキの極めて不穏なマナの流れを監視し続けていた。
意識の底に沈むサキ。
体内に込められた、極小の暗黒マナが、まさに今、彼女の身体に移植されたばかりの『魔女回路』を侵食し、蝕み始めていた。
その見えない牙の恐怖に直面しながら、馬車はサキの命を繋ぐため、ただ一心不乱に娼館へと疾走するのだった。
呪いを受けてしまったサキ。
娼館で待つユカリ。
原因と治療法はどうなるのでしょうか?




