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第8章 2 血のつながらない息子

 ロシアに行こうと誘った翌日、わざわざ高校までやってきたコーリャが伝手として挙げたのがこの男だった。ABC観光という、名前も聞いたことがないような会社の社長。以前そこでバイトしていて、社長に気に入られていたと豪語する割に、コーリャは彼の素性を殆ど知らなかった。


 分かっているのは、社長がロシア人であることと、同じくロシア人の妻がいること。正確な年は知らないが、四十を越えていることは見た目から推測できる。社員は30人程度で、年間に打つ観光企画もさほど本数は多くない。だが、少なくとも赤字にはならないとコーリャが社長の口から聞いている。(マリヤは商売人の虚勢だと判断したが)ウクライナでの生活が長いため、社長のウクライナ語には訛りがない。ロシア人観光客に添乗する時はロシア語と軽妙な話術で楽しませるが、ウクライナ人を相手にする時は同国人のふりをして神妙にウクライナ語を貫き通す。


 尤も、それは戦中戦後から必須な処世術であっただろう。


 社長の自宅は駅から車で15分かかると言い、豪快にもタクシーを呼んだ。無愛想な運転手に自宅への道を指示するのも社長は慣れていた。

 コーリャも初めて足を踏み入れる社長の家は、広々としているが暖かかった。床暖房の効いた居間に通された二人は、沈み込みの深いソファの上で覚えず身を寄せ合った。スチームの暖炉には偽物の火が無機質な色に輝いていた。

「妻と息子を紹介しよう」

 ジャムを添えた紅茶を運んで来たきれいな女性が、コーリャたちに笑いかけた。彼女が廊下に向かって呼びかけると、黄色い髪の少年が中に入ってきた。

 年格好も背丈もコーリャと変わらない。知らない同年代の客に人見知りしたのか、やや緊張した面持ちで彼は丁寧にコーリャたちに挨拶をした。

 女性が出て行き、息子もその後を追う。

「息子さんがいたなんて知りませんでした」

 コーリャが笑みを浮かべた。

「かっこいい子でしたね」

「似てないだろう?」

 社長の返事にコーリャは慌てて首を振る。

「あいつは、我々と一滴も血がつながっていないのさ。かっこいいとか見事な金髪だとか、あいつの本当の親を褒めただけだ」

 社長は淡々と言った。「驚いたかね?」

「はい……少し」

 素直に答えるコーリャの隣で、マリヤは顔をしかめた。養子?

 社長は語る。

「我々はどう頑張っても子どもができなくてね。この年になってもう無理かと諦めていたが、天からあの子が降ってきた」

 何のことやら、ぽかんとしているコーリャが面憎い。マリヤは社長に低い声で尋ねた。

「それはいつのことですか?」

「忘れもしない、12年前だ。まだ乳児だった息子を授かった時は薄汚れた廃墟がまるで大聖堂のように輝いて見えたよ」

「その子の両親はどうなった?」

「マリヤ?」

 コーリャがマリヤの腕を引いた。

「変だよ。すごく怖い顔になってる」

 マリヤは右手で鼻から上を隠した。

「ああ、そうだろうね……」

 再び視界を開放した時、社長は口をひきつらせてマリヤを見ていた。だが、何も言わない。しゃべりすぎた自分を後悔しているようだった。

「社長さん……僕たちのお願いなんですけど」

 コーリャが本題を切り出す。社長の硬い顔がゆっくりとほどけ、最初に会った時のような笑顔に近くなった。

「メールは読んだが、本気なのか?」

「はい!」

 コーリャとマリヤは背筋を伸ばす。

「僕たち、モスクワに行きたいんです」

「どうして? 観光か? いや……」

 暖炉の前でズボンを熱していた社長、もう十分とばかりに生地をつまみ、コーリャたちに近づいた。

「今の時代、正規の手段でこの国からロシアに渡ることは非常に難しい。特に、君たちはまだ子どもだ。モスクワ市内を見て回りたいと言っても、周りの誰も許さないだろうね」

「でも、どうしても行きたいんです」

 コーリャは叫んだ。

「その理由を、今ここでマリヤが説明してくれます!」

「ちょっと!」

 マリヤは舌打ちしたが、二人分の注目を受けて渋々うなずいた。コーリャの奴、ずっと機会を窺っていたに違いない。

「あたしは、3歳の時にロシアに連れて行かれた」

 社長の目が尖るのを見て思う。やはりこいつはロシア人だ。自分の国が責められる予兆を警戒している。

「言葉もろくに分からない、全く知らない土地に放り込まれた。馴染みのない大人が両親だと名乗って、あたしを育ててくれた。去年やっと本当の家族の元に戻されたけど、あたしの居場所はとっくの昔にロシアになっていた」

 以前コーリャにぶつけた苦い感情を、今度は一気にはき出してしまわぬよう舌の上で何度も転がした。

「コーリャの父親はロシア人だ。だからあたしは、コーリャを連れてもう一度ロシアに行きたいと思った。自分のルーツを知って……コーリャがどっちの国に住みたいと思うのか確かめたい」

「なぜ?」

 社長が再び尋ねた。視線を横にやると、コーリャが首を傾げていた。社長をまっすぐ見て、マリヤは答えた。

「あたしが何人なのか、ずっと悩んでる。その答えを出すためにコーリャの決断が知りたいんだ」

「随分身勝手だ」

 社長は吐き捨てるように言った。

「だが、別に構わない。コーリャには恩もあることだし」

「恩?」

「君が最後に参加したツアーね、かなり好評だったんだよ。今でもその中にいた一人が頻繁に利用してくれる。アカトフという人だが」

「あ、覚えてます」

「彼もモスクワだったな……丁度今度のツアーの話をしなければならなかった。一緒に来ればいい。バスに乗っていくんだ」

「いいんですか?」

 コーリャは無邪気に喜んだ。だがマリヤは危ぶむ。

「パスポートは? 国境を越えた途端に捕まるなんてごめんですよ」

「ああ、それは心配ない。私だって、ちょっとした用事で向こうに行くときにパスポートなんて持っていかないさ。スリにやられる方が面倒だからね」

 社長の家の前に停車したバスに乗ったのは、翌朝5時のことだ。バスと言ってもワゴンより少し大きいほどのミニバスである。車内には既に、簡単な旅装の男女が6人も乗っていた。車内に漂う煙草や食べ物の据えた臭いからして、かなり長いこと乗っていたようだった。コーリャとマリヤは前の方の二人がけの席にさっさと座った。最後に社長と、コーリャも話したことがある秘書が乗り込んで、バスは発車した。


 観光バスツアーと決定的に違うのは、ガイドが添乗していないことだ。部下と陽気にしゃべっている社長とは対照的に、他の乗客はバスが走っている間一言も言葉を漏らさない。


 通路側の席から後ろを振り向いたコーリャを、目つきの悪いトレンチコート姿の男が睨みつけた。


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