三枚の桜
賑やかな温泉旅行から日常へと戻り、数日が経過した週末の午後。
私は鏡の前に座り、腰の上まで伸びた長い黒髪を指先で弄りながら、ひかりの入学式を前に一つの決断を下す。
「……温泉でも感じたが、伸びきってしまったようだね。……仕方ない、切りに行こう」
ぽつりと零した独り言に、向かいのソファで本を読んでいたひかりがバッと顔を上げた。
「えー、お母さん髪切っちゃうの? すっごく艶々でピカピカなのに」
残念そうに眉を寄せる娘に、私は微かに口角を上げた。
「これから暖かくなるからね。なに、髪などまた伸びてくるさ」
「それはそうだけど、そうじゃないんだよぉ」
理屈ではない娘の不満げな声に、私は思わず小さく息を吐き、苦笑を漏らした。
――私の容姿は、女の体に変化した『あの日』から、一切変わることはなく今日に至る。
その、凍り付いた肉体の中で、たった一つだけ例外がある……それが、髪の毛だ。
女に変化した後の私は、最初から腰まで伸びた長髪の姿だった。
その姿に固着されたのか、髪の毛を切ると腰の長さまでゆっくりと、普通の人間と変わらない速度で元に戻ろうとする。
おかげで、私はこうして「髪が伸びたから切りに行く」という、ありふれた日常に、ひかりたちと一緒に紛れ込むことができるのだ。
「他人事のように言っているが……ひかり、君もだよ。もうすぐ入学式なんだ、一度整えたほうが良い」
「あっ、そうだね。じゃあ、一緒に行こうよ」
先程までの不満そうな顔はどこに行ってしまったのか、ひかりはパッと花が咲いたように笑いながら立ち上がると、おもむろに私の手を引いて、急かし始めるのだった。
◇ ◇ ◇
駅前にある馴染みの美容室。
私たちは鏡の前に並んで座り、それぞれの時間を過ごす。
「ひかりちゃん、この春からもう高校生なんだねえ。あっという間だね」
「ふふっ、そうなんです。少し緊張するけど、楽しみで」
「すっかりお姉さんになったもんね。今日は高校生デビューに向けて、少し大人っぽくしてみようか」
「えへへ、お願いします!」
隣の席から聞こえてくる、そんな他愛ない会話。
その横で、この美容室の店長が、神妙な面持ちで私の後頭部と対峙している。
「……ふぅ。何度切らせていただいても、ハルさんの髪にハサミを入れる時は緊張しますね」
私の背後に立つ彼が、小さな、けれど本気の溜息をこぼした。
「あの、ハルさん。本日切らせていただいたお髪も、いつものように我が店の神棚に祀らせていただいてよろしいでしょうか?」
「……構わないが。私の髪にご利益などないよ」
鏡越しに訝しげな目で見つめ返すと、彼は大真面目な顔でブンブンと首を横に振った。
「いやいやいや! 長年美容師をやっていますが、ハルさん以上の髪なんて見たことありませんから! まさに『髪の神』ですよ!」
パンパンッ、と。
背後で、彼が神棚へ向かって柏手を打つ音が響く。隣の席のひかりが、それを見てクスクスと笑い声を漏らした。
ちょっと変わり者の店長による、冗談。そう思っていたが……まさか本気でご利益があると思っているのだろうか?
「因みに……それは、ダジャレなのかい?」
私が呆れたようにジト目を向けると、彼は「あっ、いや、そういうわけでは……」と口を押さえ、誤魔化すようにタハハと笑った。
「やれやれ……」
そう一言だけ呟くと、私は静かに目を閉じる。
シャキ、シャキという小気味よいハサミの音。
温かなお湯と、シャンプーの甘い香り。
そんな心地よい感覚に身を委ねているうちに、少しだけ意識が微睡んでいくが……その時だった。
「終わりましたよ、ハルさん」
その一言に導かれ、私が目を開けようとした瞬間、ひかりの大きな声が耳に届く。
「わぁ、お母さん、可愛い! 見てみて!!」
そうして、ひかりに促されるように正面の鏡を見つめると……
私の髪は、肩より少し下、軽やかなセミロングへと形を変えていた。
◇ ◇ ◇
私たちが家に帰り着いてから、数時間が経った頃。
夕飯の買い出しに行っていたひまりが、両手に大きなエコバッグを抱えて帰ってきた。
「ただいま戻りましたー! 今日の夕飯は奮発して――あっ、ひかりちゃん、髪切ったんだね!」
リビングへ意気揚々と足を踏み入れた彼女は、ひかりの姿を見るなりパッと顔を綻ばせた。
「えへへ、どうかな? もうすぐ入学式だから、お母さんと一緒に整えに行ってきたの」
「おおー、すっごく似合ってるよ! ちょっとオトナっぽいお姉さんって感じで最高! もう、ひかりちゃんは日本一の美少女だね! ……ん? 待って? 一緒に……?」
ひまりが、ぐぎぎと音が聞こえそうな動きで、ソファでコーヒーを飲んでいた私の方へ視線を向けた。
その瞬間。
彼女の言葉は不自然に途切れ、手からエコバッグが力なく滑り落ちた。
ゴトリ、と玉ねぎが転がる音が響いた。
「あ……ああ……ッ」
ドサリと床に膝をつき、ひまりは両手で顔を覆った。
「ハルさんの……あの、夜の闇を溶かしたような、腰まで届く美しき黒髪が……。この世の至宝とも呼べる、あの崇高にして至上のストレートロングが……。私の生きる希望が……いえ、世界の希望が今、潰えた……っ」
世界の終わりでも迎えたかのような、深い深い絶望の声。
そんなひまりの様子をチラリと見た後、私はカップをソーサーに置き、静かに息を吐いた。
「……大げさだね。またそのうち伸びるさ」
「伸びるかどうかの問題ではありませ――」
涙目で顔を上げたひまりと、視線が交差する。
その瞬間だった。
彼女の絶望に染まっていた瞳の奥で、カッ、と何かが燃え上がる音がした。
「……い、いや、待ってください」
両手を地についていたはずのひまりが、姿勢をそのままに、凄まじい速度で私の目の前まで迫ってくる。
物理法則を無視したその挙動に、私は思わず目を瞬かせるが、逆にひまりは瞬き一つせず、私の顔と、短くなった髪の先を食い入るように見つめ始めた。
「長髪こそ至高にして絶対の真理だと思っていましたが……なんですか、この完璧な黄金比は! 少し短くなったことで際立つ、ハルさんの白く華奢な首筋! 動くたびに春の風を纏って揺れる、このセミロングの神々しさ……ッ!」
先ほどの絶望は完全に吹き飛び、彼女の魂が新たな情熱の業火に包まれていくのが分かる。
「春の妖精? いや、そんな言葉では生温い……。最早、形容する言葉すら浮かばない……なんという……おっふっふ……」
謎のうめき声を上げながら限界を迎えているひまりを見て、私は「やれやれ」と肩をすくめた。
「しゃ、写真! 写真撮らせてください! ハルさんの新しい門出を記録せねば!」
ひまりが弾かれたようにスマートフォンを取り出す。
すると、キッチンからお茶を持ってきたひかりも、ポケットから自分のスマートフォンを取り出した。
「あはは、私も撮ろーっと。髪の短いお母さん、レアだからね」
「二人して、まったく……」
呆れながらも、向けられた二つのレンズから逃がれる術を、私は持ち得ていなかった。
パシャリ、パシャリと。
楽しげなシャッター音が、春の夕暮れのリビングに何度も響く。
ふと、二人が構えたスマートフォンの端で、小さな飾りが揺れているのが見えた。
あの温泉旅行の帰り道、二人が私に内緒で買ってきてくれた、薄いブルーのガラスでできた桜のストラップ。
導かれるように、私の視線は自然とテーブルの上――スマートフォンのストラップへと向かう。
そこには、ひかりたちとまったく同じ、三つでお揃いの桜が揺れている。
その透き通ったガラス細工は、静かで澄み切った春の光を軽やかに反射していた。
時は進み、髪の長さも、季節も移り変わっていく。
私だけを、ずっと同じ場所に押し留めたまま。
それでも……三人お揃いの小さな桜を見つめていると、そこに意味はあるのだと、思いは重なっていくのだと、そう教えてくれている気がした。
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