【35】 外の世界
「そっか……」
李依瑠ちゃんの母親は育児放棄をしていた。李依ちゃんがこんなにも小さなころから既にそうだった。
ゴミは捨てられることなく溜まり、掃除も片付けもされていない部屋。
これは李依瑠ちゃんの記憶のなかだろうか。
樹の子どもで姪であるさっちゃんは、両親にも祖父母にも愛されている。もちろんわたしもさっちゃんを大切に思っている。
李依瑠ちゃんには母親のほかには誰か、そういった身内は側にいなかったのだろうか。いくら守景先生が心を配っても、出来ることには限りがある。
李依瑠ちゃんとさっちゃんの境遇はあまりにも違いすぎる。親ガチャという言葉は好きではない。だが、どうしても考えずにはいられない。
そっと李依瑠ちゃんの髪を撫でてみた。嫌がる素振りはない。
「抱っこしても……いいかな?」
膝をついて李依瑠ちゃんに目線を合わせて訊いてみる。李依瑠ちゃんは首をかしげながら、しばらく不思議そうにわたしをじっと見ていた。それから「いいよ」と肯いた。
「ありがとう」
背中に手を回して抱き上げると、その軽さに驚く。
もちろんここは物質的な世界ではない。だが、感触は現実そのものだった。痩せていて肉もあまりついていないためか、骨の硬さが伝わる。李依瑠ちゃんよりも幼いさっちゃんのほうがずっしりと重たく、抱き心地はぷよぷよとしてやわらかい。そのことにも衝撃を受ける。
李依瑠ちゃんはわたしの首に両腕を回してきゅっとしがみつくと、おとなしく抱っこされていた。
何本もの黒い腕が重なり、真っ黒な翼を背中から生やしたような禍々しい姿に豹変した李依瑠ちゃんは、呪うことを是としたまま姿を消してしまった。そのこともどうにかしなくてはならないが、この李依瑠ちゃんもここに残しておくことなどできない。
……これからどうしたらいいのだろう。
『出来るか出来ないかは、きみ次第。だけど、出来るとすればきみだけだ』
そう夜須さんは言った。
だったら、動くしかない。
取りあえずは元にもどる方法を ── 出口を探さなければ。
「李依瑠ちゃん、ここからお外には出られる?」
李依瑠ちゃんは「わかんない」と、首を横に振った。
中野も連れて一緒にもどりたいが ── 中野はまだうずくまって唸っている。唸っているくらいならば、建設的にここから出る方法を考えてほしい。事の発端は中野のせいでもあるのだから。
イラッとして思わず爪先で足を軽く小突いた。中野には遠慮をすることはない。
「ちょっと、うるさいよ。中野もどうしたらいいのか考えてよ」
中野はむくっと顔を上げる。
「だってさぁ。なんかずっとずっとこんな夢が続いてるんだよ。頭の中もなんかぼんやりとしててさあ。夢なんだけど、夢じゃないような……。李依瑠だけじゃなくて、なんで凛花まで登場させちゃったかな……」
「わたしは ──」
夢じゃない。と言いかけてやめた。中野に説明するのもややこしくて面倒くさい。だったら夢だと思っていたほうが、目が覚めてからも都合がいいのかもしれない。それにこれは、本当に夢のようなものかもしれないのだ。
「とりあえず、部屋の外に出てみようよ」
「外か……」
中野はたった今、その考えに至ったというように呟いた。
「ずっと李依瑠ちゃんとこの部屋の中にいたの?」
「えぇと……たぶん。あれ? 俺はなにをしてたんだ? なんかずっとここにいたはずなんだけど……」
まったく頼りになる様子はない。
李依瑠ちゃんを抱っこしたままではわたしの両手は使えない。中野にほらと、キッチン横のドアを開けてと合図をする。
「ああ……」
のそりと立ち上がると、中野はドアを緩慢な動作で開ける。
薄暗い廊下にもゴミ袋が壁沿いに積み上げられていた。
玄関には踵を踏みつけて潰れた派手な色や柄のハイヒールがあった。放るようにして何足も玄関タイルの上に散らばっている。
その中から子ども用の靴を目で探す。幼児用の小さなスニーカーを隅の方に見つけた。真っ黒に汚れていて、一度も洗われていないようだった。
李依瑠ちゃんに履かせるのも躊躇われる。これならば裸足のままのほうが清潔そうだ。靴は諦めて李依瑠ちゃんを抱えたまま外に出ることにする。
「中野、玄関のドアも開けてよ」
気の利かなさにまたもやイラっとするが、中野の反応はない。
「中野?」
不審に思い振り向くと、開けたままのドアから見えたのは、廊下をもどってリビングの床に横になった中野だった。こちらに背を向けて膝を抱え、胎児のように丸くなっている。床に散らかった物を片付けるわけでもなく、そのまま上に寝転がっていた。
「いつもそう」
腕に抱いた李依瑠ちゃんがわたしをじっと見上げていた。
「いつもなの?」
李依瑠ちゃんはこくんと肯く。
もしかすると……中野はこの部屋からは出ることができないのかもしれない。だからずっとこの部屋の中にいたのかもしれない。
それならば、今はここに置いていくしかない。
李依瑠ちゃんを抱えながら玄関のドアノブを回して、肩でドアを押して開ける。
ドアの外の世界は雲が空一面にかかったように白く、雲そのものが仄かに光っていた。
景色は水彩絵具を滲ませて描いた絵のようだった。物の輪郭はぼんやりとしていて、およその形はわかる。だが境界は曖昧にぼやけてしまっている。色と色同士も溶け合って重なり、不明瞭な上に不鮮明だ。印象派の水彩画をもっともっと抽象的に描いたら、このような世界になるのだろう。
その中に所々、はっきりとした形を保っているものがあった。
「ブランコ」
李依瑠ちゃんが指した先には、幼稚園にある遊具のような塊があった。その中でもブランコだけがはっきりとした形になっていた。
「乗りたいの?」
李依瑠ちゃんは肯く。
「じゃあ、遊ぼっか」
ブランコまで李依瑠ちゃんを抱いていき、ブランコに乗せる。
「しっかりとつかまっててね」
李依瑠ちゃんの小さくて薄い背中を押す。ブランコは前に後ろに揺れる。ゆっくりとゆっくりと。
「楽しい?」
「うん」
しばらく遊んでいると、今度はブランコの向かいにある丸いボールを指した。
「いいよ。遊ぼう」
李依瑠ちゃんはぽんとブランコを飛び降りると、ボールに向かって走っていった。
ポンポンとボールをついたり、コロコロと転がして足で蹴ったりしている。
転がってきたボールを試しにやわらかく蹴り返すと、初めて少しだけ口角が上がった。ボール遊びも気に入ったらしい。何度も何度も繰り返した。
「あれ」
満足すると次の物を指して走っていく。
追いかけて一緒に遊ぶ。縄跳び、砂遊び、泥団子、色水作り、滑り台などなど。
「ほら」
最後に李依瑠ちゃんが指した方向には、さっきまでは存在していなかった石階段が現れていた。
色が滲み、輪郭も曖昧な笹が両脇に生い繁っている石階段の入り口。そこだけはぽっかりと開いた黒い穴のようにはっきりとしていた。
この石階段は間違いない。
加曽蔵神社へと続く石階段だ。
読んでくださってありがとうございます。
少し更新期間が空いてしまいました<(__;)>
★色水の作り方
透明なビニール袋に水を入れて、花びらなどを入れて揉みます。色素が水に溶けたら色水の出来上がり(੭ˊ꒳ˋ)੭✧ 保育園や幼稚園で作って遊びませんでした?




