【33】 はじまりの教室
イジメについての文章があります。
一部にグロテスクな表現があります。
苦手なかたはご注意ください。
まぶしい陽光に満たされた夏休み明けの教室。
子どもたちの笑い声や、誰かが誰かの名前を呼び合う声が飛び交っている。夏休みの喧騒はまだ残っていた。
夏の熱を宿したままの風は、開け放たれた窓から教室の出入り口の引戸へと渡っていく。
校庭に出るためやトイレに行くため、教室を移動するためなど、さまざまな理由で廊下へと流れ出す児童たち。
ガタガタと椅子をひく音や机をずらす音が耳につく。騒がしい音であふれている小学校の休み時間だった。
そんな教室の黒板の前にわたしは立っていた。右手には黒板消しを持っている。隣にはやはり黒板消しを手に持った李依瑠ちゃんがいた。
向かって右の黒板横の壁には、五年三組の時間割表が貼られていた。反対の左の壁の上方には、観光地の土産物屋で売られているような、細長い二等辺三角形のペナントの形を模したクラス目標が掲げられている。
ペナントは青い模造紙で作られていた。円く切り抜いた色画用紙の中にクラスの目標を一文字ずつ書き、それをペナントに貼りつけているのだ。
「みんなで協力して楽しく生活しよう!」
自分たちで描いた似顔絵も目標の周囲に飾られていた。守景先生の似顔絵もある。
李依瑠ちゃんは爪先を立てて背伸びをすると、腕を目一杯に伸ばした。黒板の上の方に書かれたチョークの文字を消そうとしている。
「李依瑠ちゃんてさぁ……!」
主語だけがやけに大きい声が後方から投げられた。聞き覚えのある苛立ちを含んだ声に、反射的に振り向く。
教卓を挟んだそこにはボスと石田さんと柿本さんがいた。ボスはわたしと目が合うなり、挑発をするような攻撃的な眼差しを返してきた。
騒々しい教室の音が一瞬にして消えたように思えた。
ボスは聞こえるように李依瑠ちゃんの名前を呼んだ。そのあとは、石田さんと柿本さんとひそひそと言葉を交わしている。チラチラとわたしたちに視線を向けては唇を歪める。喋っている言葉は聞きとれない。それでも友好的な態度でないことは明らかだった。
李依瑠ちゃんの腕は伸ばされたまま固まってしまった。
当時のわたしには、起こったことをすぐに理解することができないでいた。ただ、わけの分からないままに、ボスたちからの圧倒的なまでの悪意を感じていた。頭のなかは真っ白になり、身体の芯から冷えていくような不安に震える。筋肉は硬直してしまい、立ち尽くすことしかできない。
ああ……これは ── はじまりの日の記憶だ。
ボスたちの悪意が向かってくるはっきりとした理由に覚えはなかった。それから少し時間が経ったあとに、先日に流れた噂のせいではないのかと気がついた。
一組に松田くんという男子がいた。
松田くんは足も速くて運動が得意だった。地域のサッカーのクラブチームにも所属していて、レギュラーメンバーとして活躍していた。一年中あさ黒く日に焼けていて、爽やかな笑顔が印象的だった。
小学生にしては落ち着いて大人びた雰囲気もあり、それも人気の理由だった。バレンタインには大きな紙袋にいっぱいのチョコレートをもらったという噂や、ほかの小学校の女子もわざわざ家にまでチョコレートを届けにきたという、そんな本当か嘘かわからない話も囁かれていた。
その松田くんが「李依瑠ちゃんのことをかわいいと言っていた」「きっと好きなんだよ」。
どういう出所の、どういった経緯なのかわからない話だが、そんな噂が夏休みを明けてすぐに流れていた。
心当たりといえばそれしかない。
ボスはご多分に漏れず松田くんのことが好きだったらしい。もしかしたら柿本さんや石田さんたちも、松田くんのことを好きだったのかもしれない。
それからのボスたちは、李依瑠ちゃんとわたしの悪口を聞こえるように吹聴する、わかりやすく無視をする、わたしたちと喋ったり遊ばないようにと、クラスの子たちを陰で先導するなどという嫌がらせを行った。
主な標的は李依瑠ちゃんだったが、一緒にいるわたしにも必然的に白羽の矢は立つ。もともとボスはわたしのことも気に入らなかったのだろう。
ボスたちは当時の小学生なりの知恵をしぼり、守景先生にはわからないように陰湿にうまいくやってくれた。
SNSが日常ツールと化した現代であれば、掲示板や裏アカウントに人格否定や誹謗中傷を書き込むとか、学校裏サイトを使うなどの方法もあるのかもしれない。
一方的に向けられる剥き出しの悪意は恐ろしくて怖い。傷つけられた感情にどう対処したらいいのか、どういう行動をすれば回避することができるのか。わからないことだらけだった。それでも困惑と哀しみと痛みを大きく上回る怒りに達したときには、わたしはボスたちに反論し、言い返すこともあった。
李依瑠ちゃんはというと、どんなにひどいことを言われても哀しそうにじっと黙っていた。
わたしはそんな李依瑠ちゃんがかわいそうでもあり、同時にもどかしさも感じていた。
李依瑠ちゃんは黒板消しを持って伸ばしていた腕をゆっくりと降ろした。ボスたちを振り返る。
虚ろな眼差しでボスたちを確認すると、野球のボールを投げるように腕を振りかぶった。
そのまま持っていた黒板消しをボスに投げつける。
黒板消しの威力は凄まじかった。
ボスの頭を一瞬で吹き飛ばした。黒板消しは勢いのままに教室後方の小さな黒板にまで到達すると、轟音とともに黒板を粉々に割って壁にめり込んだ。
さっきまではボスの頭と顔面を形成していたものは、肉塊や断片となってビシャビシャと床や机や椅子の上に散らばった。頭皮のついた一部の髪の毛は、蛇のとぐろのように床の上に鎮座した。
真っ赤な飛沫は、身体だけ残ったボスの首から噴水のように噴き上がる。
夏の名残をとどめていた三組の教室は、いつのまにか色を失い白黒に変化していた。あれだけ騒々しかった音は消え失せ、時間も止まり、動きを失くしている。石田さんと柿本さんたちも、ほかの同級生たちも。
動いているのは李依瑠ちゃんとわたし、頭部を失くしたボスの身体から激しく噴き出す鮮やかな赤い色だけだ。赤色は石田さんと柿本さんをトマトジュースを全身にかぶったよりも赤く染める。
「李依瑠はねえ、鈴木さんたちにもお返ししてあげたいの」
こんな光景を目の当たりにして、彼女らを眺めながらうっとりと微笑む李依瑠ちゃん。その微笑みに息を呑む。
なんてなんてなんて……禍々しく美しく歪んだ笑みなのだろう。不純なものが混じらない純粋さを美しいと感じてしまったそのぶんだけ、背筋に氷のような冷たさが走った。
「李依瑠ちゃん……。本当に……楽しいの?」
声が震える。
「楽しいよ。気持ちがね、すっとするよ。これは夢みたいなものだけど……。もっともっともっともっとできることがあるんだよ。凛花ちゃんも一緒にやろうよ」
こんなことが、楽しいというのか。
李依瑠ちゃんの目の奥にぽっかりと広がった虚ろ。その場所に昏い炎が灯る。
……違う。やっぱり、違う。
ボスたちのことはもちろん大嫌いだった。今回の動画の件で中野のことも嫌いになった。
それでも……
望ちゃんのはにかんだ笑顔が浮かんだ。望ちゃんの髪を愛おしそうに撫でるボスの姿が浮かんだ。毎日のように病院に付き添っているという中野の弟や母親を思い出す。中野のお見舞いにきている和葉の旦那さんもいる。娘を案じている柿本さんの母親や石田さんの家族……。
わたしにはそうではなくても、誰かにとっては彼らは大切な存在なのだ ──
立ち位置が違うと、どうしても相容れないこと。
この世界にはそういったことが存在する。
害を加える者と被る者。奪う者と奪われる者。嗤う者と嗤われる者。簒奪する者や強奪する者、それをしない者など。
国や文化や思想の違いもある。
その関係はおそらく、数え上げたらきりがないのだろう。ただしその関係性は、立ち位置が変われば簡単にひっくり返ってしまうものだ。
綺麗ごとを説くつもりは毛頭ない。
愛しいものを奪われたり、尊厳を踏みにじられたり、自分自身や自分にとってかけがえのないものを壊されたり。そんなことをされたのなら憎悪は際限なく膨れ上がる。
それでも……
憎しみの鎖は誰かがどこかで断ち切らなければ、怒りは怒りを、恨みは恨みを、悲しみは悲しみをよぶ。
報復には負の連鎖がある。経験として人はそれを知っている。
「やらないよ。わたしはね、李依瑠ちゃんのそんな表情を見たくはないよ」
その鎖を断ち切るのは誰かではない。わたしたちでなければならない。
「李依瑠ちゃんの気持ちは痛いほどわかる。だって李依瑠ちゃんとわたしは同じだから。同じ気持ちを知ってるから」
「……」
「人を呪わば穴二つ」と、昔の人はよく云ったものだ。憎しみという感情に飲み込まれてしまえば、相手と同じ者になる。自分で掘った墓穴に、憎む相手と一緒に堕ちるのだ。堕ちたあとも相手を憎み、怨み続けることに救いはない。
「こんなことはなんにもならない。なにも変えられないし、変わらない。自分をもっともっと傷つけるだけ。苦しさが終わらないだけ。憎しみと哀しみを増やすだけ」
夜須さんも言っていた。呪いには前提の出来事がある。哀しく無念な想いは怨念となる。どこかで断ち切らなければ、ずっと永遠に続いていく。
「終わらせよう? わたしたちで終わりにしようよ」
読んでくださってありがとうございます。
3月末では終わらない……。
4月末まで……を目指します<(__;)>




