05:嫌な予感
その日、ヒナは朝からご機嫌だった。
「ファーストバイトも済ませたし、残るは誓いのキスだけだね」
「っ!」
ヒナの言葉で堪能していた朝食のスクランブルエッグが空を飛ぶ。
ファーストバイトとはと結婚式の時にケーキをお互いに食べさせるという激しく恥ずかしい行為のことで、恐らくそれは昨日の酒場でのアレを指しているのだろう。
口に入れたものを噴出すという乙女にあるまじき行為をさせた原因の男は、自分の頬についた卵のかけらを指で拭い取るとそのままパクリと口に入れた。
「なっ……」
「うん、甘い。甘いのは卵じゃなくてハルなのかな」
「ひっ!」
卵を拭った指を見つめながら真剣な顔で呟くヒナにぞわりと肌が粟立つ。
きっと甘いのは卵を食べる前に一口飲んだミルクだ。ほんのりと甘みがつけられていて美味しかったから。
「そうだ、確かめるためにも今ここで誓いのキスを……」
「無理無理っ!」
ヒナがテーブルから身を乗り出して私の顎をくい、と持ち上げる。目前にはにむかつくほどに整ったヒナの顔が迫っていた。
その距離感に激しく身の危険を感じ、椅子が倒れるのも気にせずに立ち上がって後ずさる。
「バカヒナッ!」
そう叫ぶのが精一杯で、それと同時にかぁっと顔に熱が集まるのが自分でもわかった。
間違いなく今の私の顔は熟れたトマトのように赤いのだろう。
恥ずかしくて、ヒナに振り回されている自分が悔しくて、私はくるりと踵を返すと振り返る事なくその場から逃げ出した。
一方その場に取り残される形となったヒナは手で口元を覆い顔を伏せて肩を震わせていた。しかし耐え切れなかったのか、それ以上耐える気がなかったのか。
「くっ……ははっ、ハル可愛すぎ……」
からかい過ぎたなどと反省することも無く身悶える変態は、ひとしきり悶えると前髪をかきあげくっと口角を持ち上げにやりとした笑みを浮かべ、
「思った以上に免疫がないみたいだし、キスすらしたことなさそうだな」
――と、ご満悦でぺろりと舌でその形良い唇をなぞった。
それは私に見せたことのないヒナの一面だったが、そのことを一目散に逃げ出した私が知る由も無い。
朝食をとっていたカフェを逃げ出した私は走って走って――とにかく走りまくって、気がついた時には屋台の多く並ぶ大通りへと来ていた。
まだ朝だというのに美味しそうな匂いがそこかしこから漂い鼻孔をくすぐる。
……そういえば食事の途中で逃げ出してきてしまったから、お腹が満たされていないどころかむしろ空腹。
せっかくこの通りに来たのだから適当に軽く食べられるものでも買おうと、屋台を眺めながら通りを進んでゆく。
あるお店の前にさしかかった時、ふと見覚えのある姿を見つけて足を止めた。
「きゃー、おじさんありがとう!」
「はっはっ、お嬢さんみたいに綺麗な人になら毎回おまけするからまた来ておくれ」
「もちろん! それじゃあおじさんまたね」
大きな紙袋を抱えながら屋台の主にひらひらと手を振るその女性は、昨日酒場で素晴らしいアッパーを披露したあの女性だった。
酒場で見たときとは違い旅をする神官たちが身に着ける旅服を着ている。彼女があの時使った呪文は恐らく神聖魔法に分類されるものだったのだろう。
私の視線に気づいた彼女にぺこりと会釈すると、彼女は笑みを浮かべてパタパタと私の元へと駆け寄って来た。
昨日は気づかなかったのだが隣に並んで立ってこの女性が私より頭一個分ほど、ヒナと身長が変わらないほど背が高いことに気づく。出来るものなら少しでいいからその身長を分けて欲しい。
「昨日酒場にいた子よね?」
「はい、ハルと言います」
「私はカナタ。よろしくね、ハルちゃん」
「こちらこそよろしくお願いします」
再びぺこりと頭を下げた時、空気を読めなかったお腹がぎゅるるるーと盛大にその存在をアピールした。
カナタさんはすっとその瑠璃色の瞳を細め、柔らかい笑顔を浮かべる。
「ふふ、よかったらどうぞ」
カナタさんが差し出したのは先ほど屋台で買っていたとても香りがよい美味しそうなパン。
ウインクして「いっぱいおまけしてもらったの」と私に遠慮しないように気を遣ってくれるカナタさんはまさに大人の女性で、そこまで細やかに気を配れない私は少し憧れを感じた。
大通りから少し離れた広場に移動した私たちは適当な場所に腰を下ろす。
パンをかじるとふわりと小麦の良い香りが口の中に広がって甘く溶けた。
「おいしい……」
「うん。私も美味しいって聞いたから買ってみたんだけど、これは思った以上に美味しいわね」
私の言葉にカナタさんは満足そうに微笑む。
この街に滞在してしばらく経つが、大きな街なのでまだまだ私の知らない美味しいものがたくさんある。その一つを教えてくれたカナタさんに感謝しつつ、残りのパンを頬張る。そんな私をカナタさんは楽しそうに目を細めて眺めていた。
夢中でむぐむぐとパンの最後の一切れを頬張る。
「おいひー」
「ハルちゃん、パンくずがついてるわよ」
「え?」
慌てて手でごしごしと口元を拭ったのだが、その腕をカナタさんにつかまれた。
「ダメよ。そんなに擦ったら赤くなっちゃう」
そうやんわりと制してカナタさんは私の顔に手を伸ばし……パンくずを取ってくれるのかと思ったその手は何故かそのまま私の頬に添えられて、何か暖かいものを頬に感じた。
顔が押さえられた状態なのでちらりと視線だけを向けると、伏し目がちなカナタさんの顔が至近距離にあった。
……睫毛長い。
そんな呑気な感想は現実逃避かなのもしれない。
「うん、取れた。本当にここのパンは美味しいわね」
「~~~~~~ッ!?」
そうにっこりと微笑んでぺろりと舌なめずりしたカナタさんは親切心での行動したのだろう。
けれどちろりと見えた赤いものが、先ほどの暖かい感覚が何であったのかを物語っていて、私は頬を押さえ声にならない悲鳴を上げたのだった。
カナタさんはこちらの反応に驚きつつも、くすくすと笑みをこぼす。
「……カナタ?」
頭上から訝しむような見知らぬ声が聞こえ顔をあげると、突然何かが降ってきた。
たんっと身軽に一回転してカナタさんの隣に着地したのはふわふわとした象牙色のクセ毛に翡翠色の瞳が印象的な青年。
青年はその視界にカナタさんを視界に捉えると、ぴくりとその眉を吊り上げる。
「カナタ、お前またそんな格好で……」
「そんな格好って何?」
はーっと大きく溜息をついく青年に、カナタさんはこくんと小さく首を傾げた。
「えっと、カナタさんそちらの方は?」
尋ねる私を振り返った青年は、そこでやっと私の存在に気がついたようで慌ててこちらに向き直った。
「わわっ、ゴメン。俺はコハク、カナタとは一緒に旅をしているんだ。ところで君……」
「ハル、です」
「ハル、この変態になにかされなかった?」
すごく真剣な表情でコハクと名乗った青年は私を覗き込むようにして訪ねた。コハクさんはあの瞬間は見ていなかったらしい。
カナタさんはそんなコハクさんをぐいと私の前から押しのけ抗議の声を上げる。
「変態だなんて酷い。別に何もしてないわよね、ハルちゃん」
「頬についた食べかすをちょっと舐め取られて驚きましたけど。それぐらいですね」
すごく恥ずかしかったけれど、という言葉は飲み込んで答える。
するとコハクさんはハンカチを取り出すと無言でゴシゴシと私の頬を擦りだした。
「コハク、反対」
……ゴシゴシゴシゴシ……
カナタさんの言葉でコハクさんは再び反対の頬を擦る。大して力は入れていないのだろうが擦られすぎてちょっぴり痛い。
……ゴシゴシゴシゴシ……
「ねぇコハク、ハルちゃんのほっぺ赤くなっちゃってるわよ?」
「もうちょっとだけ我慢して、ハル」
「はぁ……」
やっと気が済んだのか頬を擦っていた手がとまり、コハクさんはヒナタさんを睨みつけてびしっとその指を突きつけた。
「カナタっいい加減その気持ち悪い口調をやめてカツラをはずせ!」
「もーっ、コハクは口うるさいんだから」
カナタさんはぶーぶーと文句を言いつつも「仕方ないか」とその髪に手を添えた。
……何だか激しく嫌な予感がする。
パチ、パチ、という音の後にばさりとブロンドの長い髪が取り払われ、その下から紫がかったシルバーブロンドが現れた。
嫌な予感に限ってよく当たる。
今、私はそれを痛いほど実感していた。
6/17 カナタとコハクの外見について少し加筆しました。




