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第二章 花籠部屋の春

第二章 花籠部屋の春


 電話の向こうで、少しだけ間があった。


「……プロレス?」


「はい」


 花嵐は受話器を握ったまま答えた。


 言葉にしてしまえば、不思議なほど簡単だった。


 相撲を辞める。


 そして、プロレスへ行く。


 まだ決めたわけではない。


 ただ、その可能性について相談したかった。


「相撲を辞めるって、決めたのか?」


「いえ。まだです」


「そうか」


「部屋のことも、まだ決まったわけじゃないですから」


「ああ。だったら、まず焦るな」


「はい」


「プロレスに行くかどうかは、その後で考えりゃいい」


「はい」


 少し間を置いて、木村は低い声で続けた。


「ただな。もし本当に相撲を辞めることになって、プロレスを考えるんなら、俺に相談してくれ」


 花嵐は黙った。


「プロレスも、楽な世界じゃないぞ」


「でしょうね」


「相撲とは違う。だが、お前なら身体はある」


「身体、ですか」


「ああ。ぶつかり方、組み方、相手の重心を見る目。相撲で覚えたもんは、使える」


 花嵐は黙って聞いていた。


「ただし、それだけでプロレスラーになれると思うな」


「はい」


「来るなら、一から覚えるつもりで来い。変な意地は捨てろ」


「分かりました」


「それができるなら、話は聞く」


 電話を切った。


 花嵐はしばらく、その場に座ったままだった。


 プロレス。


 まだ現実ではない。


 ただの可能性だ。


 それでも、これまで漠然としていたものが、初めて具体的な言葉になった。


     *


 それからしばらく。


 花嵐は何事もなかったかのように相撲を続けた。


 朝は稽古。


 四股。


 鉄砲。


 申し合い。


 ぶつかり稽古。


 場所があれば土俵に上がる。


 力士としての日常は続いていた。


 だが、花嵐の中では、少しずつ何かが変わっていた。


 自分の相撲を見る目が変わった。


 立ち合いで、身体のどこから力が出ているのか。


 足をどう踏み込めば、体重が無駄なく伝わるのか。


 肩から当たった時、どこに力を逃がしているのか。


 相手の重心が崩れた瞬間、どこへ身体を運べばいいのか。


 今まで無意識にやっていたことを、一つ一つ考えるようになった。


 それがプロレスのことを考え始めたせいなのか。


 それとも、十両になったことで自分の相撲を客観的に見るようになったせいなのか。


 花嵐自身にも分からなかった。


     *


 そして、部屋の状況は少しずつ現実味を帯びていった。


 噂だけではなくなっていく。


 親方の事情。


 部屋の運営。


 後援者との関係。


 所属力士のこれから。


 稽古場でも、時折そうした話が出るようになった。


「どうなるんだろうな」


「まだ分からないだろ」


「でも、何かあるのは間違いないらしい」


「そういう話は外でしない方がいい」


 そんな会話を聞きながら、花嵐は黙っていた。


 自分も十両になったばかりだ。


 これから幕内を目指す。


 そう思っていた。


 しかし、力士としてどれだけ頑張っても、部屋そのものがなくなれば話は変わる。


 その現実が、少しずつ迫ってきていた。


     *


 ある日の稽古が終わった後。


 花嵐は、一人で土俵を見ていた。


 誰もいない土俵。


 朝はあれほど騒がしかった場所が、今は静かだった。


 土俵を見ながら、花嵐は考えた。


 ここで何度転んだだろう。


 何度勝っただろう。


 何度負けただろう。


 大学を出て、この世界に入って。


 そして今、十両になった。


 自分が力士として一人前になった場所。


 その場所を離れるかもしれない。


 花嵐は土俵に一礼した。


 まだ何も決めていない。


 それでも、なぜかそんな気持ちになった。


     *


 そして、三月。


 ついに、花籠部屋の廃業が決まった。


 その知らせを聞いた時、花嵐は不思議なほど冷静だった。


 驚かなかった。


 いや。


 驚けなかった。


 ずっと前から、どこかで覚悟していたのだろう。


 部屋の中では、様々な話が飛び交っていた。


 これからどうする。


 どこへ行く。


 誰についていく。


 相撲を続けるのか。


 辞めるのか。


 それぞれが自分の人生を考えなければならなくなった。


 花嵐も、同じだった。


 そして彼は、すでに決めていた。


 相撲を辞める。


 そして。


 プロレスへ行く。


     *


 だが、その決断を誰より先に伝えなければならない相手がいた。


 輪島だった。


 親方。


 そして、自分を育ててくれた人間。


 花嵐は、親方のところへ向かった。


 襖の前で一度立ち止まる。


 息を整える。


「失礼します」


「おう。入れ」


 中から、輪島の声が返ってきた。


「どうした。改まって」


「少し、お話があります」


「何だ」


 花嵐は正座した。


 輪島の前で、背筋を伸ばす。


「親方」


「ああ」


「俺……廃業しようと思います」


 輪島は黙って花嵐を見た。


 しばらく、何も言わない。


 花嵐は頭を下げた。


「十両まで上げていただいて、本当にありがとうございました」


「……うん」


「大学から入ってきて、何も分からないところから、ここまで育ててもらいました」


 声が少しだけ詰まった。


「それなのに、十両になったばかりで辞めることになってしまって……申し訳ありません」


 輪島は、ふっと息を吐いた。


「お前が謝ることじゃねえよ」


「ですが……」


「部屋のことは、お前の責任じゃない」


 静かな声だった。


 花嵐は顔を上げた。


「はい」


「それより、お前はこれからどうするんだ?」


 花嵐は一瞬だけ黙った。


「プロレスに行こうと思っています」


 輪島の眉が上がった。


「プロレス?」


「はい」


「誰かから声が掛かったのか?」


「ラッシャー木村さんに相談しました」


「ああ……木村か」


 輪島は少し考えた。


 そして、口元を緩めた。


「そうか。木村なら、まあ話は分かる」


「はい」


「お前らしいと言えば、お前らしいな」


 花嵐は意外そうに顔を上げた。


「怒らないんですか?」


「何で怒るんだ」


「せっかく十両になったのに、と……」


「そりゃ、もったいねえとは思うさ」


 輪島は肩をすくめた。


「十両まで来たんだからな。だが、人生は番付だけじゃねえ」


 花嵐は黙って聞いた。


「お前が自分で考えて決めたんなら、俺は止めん」


「親方……」


「ただしな」


 輪島の声が少し低くなった。


「中途半端な気持ちで行くな」


「はい」


「プロレスに行くなら、そこで一人前になれ」


「はい」


「相撲を辞めたことを後悔する暇がねえくらい、やれ」


 花嵐は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「それから、相撲で世話になった人間のことを忘れるな」


 花嵐は顔を上げた。


「……はい」


「お前がどこへ行っても、ここで覚えたことは消えねえ」


「はい」


「だから、恥ずかしくねえ仕事をしろ」


「分かりました」


 花嵐は頭を下げた。


「今まで、本当にありがとうございました」


 深く。


 深く頭を下げた。


 輪島はしばらく黙っていた。


 やがて、ぶっきらぼうに言った。


「頑張れ」


 それだけだった。


     *


 部屋を出た花嵐は、しばらく廊下に立っていた。


 胸の奥が熱かった。


 これで、本当に終わった。


 自分は相撲取りではなくなる。


 その事実が、ようやく現実になった気がした。


 だが。


 まだ、もう一つやることがある。


 花嵐は部屋の仲間たちのところへ向かった。


     *


「みんな、ちょっといいか」


 何人かの力士が顔を上げる。


「何ですか?」


「俺、廃業することにした」


 一瞬。


 部屋の空気が止まった。


「……え?」


「辞めるんですか?」


「ああ」


「十両なのに?」


「うん」


 驚きの声が上がる。


 当然だった。


 花嵐自身も、逆の立場なら驚くだろう。


「じゃあ、これからどうするんです?」


「プロレスへ行く」


「プロレス?」


「ああ」


「ラッシャー木村さんのところですか?」


「まだ正式に決まったわけじゃないけど、相談には乗ってもらってる」


「そうなんですか……」


 みんなが花嵐を見る。


 その中には、羨ましそうな顔もあった。


 寂しそうな顔もあった。


 驚いている顔もあった。


 花嵐は、一人一人の顔を見た。


「急な話になって悪い」


「いや……」


「今まで一緒に稽古してくれて、ありがとうございました」


「そんな、こっちこそ」


「十両に上がった時、嬉しかったですよ」


「ありがとうございます」


「プロレスでも頑張ってください」


「はい」


 誰かが笑った。


「でも、花嵐さんならプロレスでもデカいですよね」


「まあな」


 花嵐も笑った。


「相撲よりデカい相手はいるかもしれんけどな」


「いるんですか?」


「さあな」


 笑いが起きた。


 その笑いを聞いて、花嵐は少し安心した。


 これでいい。


 最後まで、変に湿っぽくする必要はない。


 相撲を辞める。


 それは寂しい。


 だが、これまで一緒にやってきた仲間との関係まで終わるわけではない。


 それだけは、花嵐自身がよく分かっていた。


     *


 その夜。


 花嵐は部屋の中をゆっくり歩いた。


 自分が使っていた場所。


 稽古場。


 風呂。


 食事をする場所。


 廊下。


 何気ない場所ばかりだった。


 しかし、その一つ一つに思い出がある。


 ここで怒られた。


 ここで笑った。


 ここで飯を食った。


 ここで怪我をした。


 ここで勝った。


 そして、ここで十両になった。


 花嵐は荷物をまとめながら、ふと自分の手を見た。


 大きな手だった。


 相撲取りの手。


 豆ができている。


 何度も土俵に手をついた手。


 鉄砲をした手。


 相手の身体を押した手。


 この手も、これからは違う使い方をするのだろうか。


 そんなことを考えた。


     *


 翌朝。


 花嵐は、最後に土俵へ向かった。


 誰もいない。


 朝の光が差し込んでいる。


 花嵐は土俵の前に立った。


 しばらく見つめる。


 そして、深く一礼した。


「ありがとうございました」


 声は小さかった。


 誰に言ったのか、自分でも分からない。


 土俵にか。


 部屋にか。


 親方にか。


 兄弟子たちにか。


 それとも、これまで自分を支えてくれた全ての人間にか。


 たぶん、その全部だった。


     *


 部屋を出る日。


 花嵐は何度も振り返った。


 特別なことはない。


 ただ、いつもの部屋がそこにある。


 それだけだった。


 それでも。


 これが最後だと思うと、少し違って見えた。


「じゃあな」


「頑張れよ!」


「プロレスでテレビ出ろよ!」


「また遊びに来いよ!」


 仲間たちの声が飛ぶ。


「おう!」


 花嵐は笑って手を上げた。


「みんなも頑張れよ!」


 それだけ言って、歩き出した。


     *


 その後。


 花嵐はラッシャー木村と再び会った。


「話はついたか」


「はい」


「親方には?」


「ちゃんと挨拶しました」


「そうか」


「部屋の仲間にも」


 木村は頷いた。


「それならいい。筋は通したな」


「はい」


 木村は少し笑った。


「じゃあ、次はリングだ」


 花嵐はその言葉を聞いた。


 リング。


 まだ一度も、自分が立ったことのない場所。


 土俵とは違う。


 丸い土俵ではなく、四角いリング。


 土俵の外へ押し出すのではなく、相手を倒す。


 投げる。


 関節を取る。


 打撃を使う。


 そして、自分も相手の技を受ける。


 未知の世界だった。


 だが。


 不思議と怖くはなかった。


「よろしくお願いします」


 花嵐は頭を下げた。


「こちらこそ」


 木村は短く返した。


「ただし、覚悟しておけよ」


「はい」


「プロレスラーになるってのは、相撲を辞めりゃ終わりじゃねえ」


「はい」


「むしろ、そこから始まる」


「……分かりました」


 花嵐は頷いた。


     *


 その数日後。


 花嵐は、初めてUWFの練習へ向かうことになる。


 まだ正式な意味でのレスラーではない。


 まだ何もできない。


 プロレスの技術もない。


 受け身も、ロープワークも、技の繋ぎ方も知らない。


 ただ。


 身体だけはある。


 相撲で鍛えた身体。


 百五十キロ近い身体。


 そして、土俵で培った感覚。


 それを、これからどう変えていくのか。


 花嵐自身にも分からなかった。


 ただ一つ。


 この日までに、彼は一つのことを学んでいた。


 人は、場所を離れても、人との縁まで捨てる必要はない。


 花籠部屋を離れた。


 相撲を辞めた。


 だが、輪島との関係も。


 兄弟子たちとの関係も。


 ラッシャー木村との縁も。


 消えたわけではない。


 それどころか。


 これから先、花嵐がどれだけ遠くへ行っても。


 リングの上で誰と戦っても。


 その人間関係は、彼の人生のどこかで必ず繋がってくることになる。


 そして。


 その最初の一本が、今。


 新しい場所へ向かって伸び始めていた。


 土俵を離れた花嵐は、まだ知らない。


 これから自分が出会う佐山聡という男によって。


 自分が「相撲出身の大男」から、「相撲を格闘技として組み直すレスラー」へ変わっていくことを。


 そして、ラッシャー木村から教わるプロレスの基礎が。


 後に彼を新日本の若手たちとも違和感なく戦えるレスラーへ育てていくことを。


 今はまだ。


 ただ、新しい道の入り口に立っただけだった。

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