第一章 十両への切符
第一章 十両への切符
その番付を、花嵐は何度見ても飽きなかった。
紙そのものは、何の変哲もない。
相撲部屋にいれば、番付は何度も見る。自分の名前がどこにあるのかを確認し、周囲の力士がどこまで上がったのかを確かめる。
番付が発表されれば、力士たちはまず自分の名前を探す。
そして――。
「……あった」
花嵐は、小さく呟いた。
自分の名前。
その横に並ぶ文字。
十両。
何度見ても、そこにある。
間違いではない。
夢でもない。
花嵐は、関取になった。
「上がったな」
隣から声がした。
「はい」
「これで関取だ」
「……はい」
返事は短かった。
嬉しくないわけではない。
むしろ、嬉しい。
だが、あまりにも長く目指してきたものを手にすると、かえって実感が湧かない。
大学相撲から角界へ入り、稽古場で何度も転がされた。
立ち合いで弾き飛ばされたこともある。
組んでから力負けしたこともある。
自分より小さな相手に足を取られたこともあった。
身体が大きい。
それだけで勝てる世界ではない。
むしろ、身体が大きいからこそ、それをどう使うかを覚えなければならなかった。
腰を落とす。
足を踏ん張る。
相手の中心を見る。
ぶつかる瞬間に身体を揃える。
自分の力を逃がさず、相手へ伝える。
そういう細かい積み重ねを何年も続けてきた。
その先にあったのが、十両だった。
相撲取りにとって、十両は大きな境目である。
幕下以下と関取では、生活そのものが変わる。
付き人がつく。
大銀杏を結う。
化粧廻しをつける。
土俵入りをする。
そして何より、自分自身が一人前の力士として扱われる。
花嵐は、その場所まで来た。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「頑張ったな」
「はい」
同じような言葉を何度もかけられた。
そのたびに花嵐は頭を下げた。
そして、番付を見た。
もう一度。
何度でも。
そこには確かに、自分の名前があった。
*
だが。
十両昇進の喜びに水を差すような話が、少しずつ聞こえてくるようになった。
「花籠部屋、これからどうなるんだろうな」
最初は、そんな一言だった。
花嵐は聞き流した。
部屋の経営について、若い力士が口を挟むものではない。
親方には親方の事情がある。
後援者には後援者の事情がある。
自分たちは土俵に上がって、相撲を取ればいい。
そう思っていた。
だが、噂というものは消えなかった。
むしろ、日が経つにつれて具体的になっていった。
親方のこと。
部屋のこと。
後援会のこと。
そして、花籠部屋そのものの将来。
誰かが断定的に話すわけではない。
だからこそ、不気味だった。
稽古場の雰囲気も、少しずつ変わっていった。
朝稽古そのものは変わらない。
四股。
鉄砲。
申し合い。
ぶつかり稽古。
いつもの風景だ。
しかし、力士たちの会話の端々に、別の話題が混じる。
「もし、な」
「まだ決まったわけじゃないだろ」
「分かってるよ」
「だったら、今は相撲だ」
そんな会話が増えていた。
花嵐は黙って聞いていた。
十両に上がったばかりの自分には、何もできない。
それよりも、まず自分の相撲だ。
関取になったからといって、急に強くなったわけではない。
幕下時代よりも相手は強い。
経験も違う。
技術も違う。
十両の土俵に上がって初めて、自分がまだまだ未熟なのだということを思い知らされた。
だから稽古をする。
朝から身体を動かす。
疲れていても土俵に上がる。
その繰り返しだった。
だが、ある日の稽古後。
花嵐は年上の力士に呼び止められた。
「花嵐」
「はい」
「ちょっといいか」
「はい」
相手は周囲を見てから、声を落とした。
「お前、十両になったばかりだから言いにくいんだがな」
「……はい」
「もしもの話だ」
その言葉だけで、花嵐は何を言われるのか分かった。
「もし部屋がなくなったら、お前、どうする?」
花嵐は黙った。
部屋がなくなる。
それは単なる引っ越しではない。
力士にとって、所属する部屋は生活そのものだ。
稽古場があり、親方がいて、兄弟子がいて、後輩がいる。
その場所がなくなる。
「……まだ、何も決まってないですよね」
「ああ」
「だったら、今考えても仕方ないでしょう」
「まあな」
相手は苦笑した。
「悪かった。変なこと言ったな」
「いえ」
そう答えたものの。
花嵐の頭には、その言葉が残った。
もし部屋がなくなったら。
その日の夜。
花嵐は布団の中で天井を見ていた。
眠れない。
関取になった。
これからだと思っていた。
幕内を目指す。
その先もある。
そう思っていた。
ところが、自分の相撲人生そのものを支えている場所が、揺らいでいる。
そのことが、どうしても気になった。
*
花嵐は、自分の身体を見た。
百五十キロ近い身体。
相撲では武器になる。
立ち合いで相手にぶつかる。
前へ出る。
押す。
組む。
投げる。
身体の大きさそのものが圧力になる。
だが、同時に、それだけでは勝てない。
大きな身体を動かすには、それだけの技術がいる。
自分の重心をどう置くか。
足をどう運ぶか。
相手の重心をどう崩すか。
どうすれば、自分の体重を無駄なく相手へ伝えられるか。
花嵐は、相撲を始めてからずっと考えてきた。
そして、ふと別のことを思った。
――この身体は、相撲以外ならどう使えるのだろう。
そんな考えが浮かんだこと自体に、花嵐は少し驚いた。
*
プロレスは、別に未知の世界ではなかった。
花嵐にとって、プロレスラーという存在は身近だった。
何しろ、日本のプロレスには昔から力士出身者がいる。
力道山がそうだった。
力道山以降も、大相撲からプロレスへ転向した力士は少なくない。
身体が大きく、組み合うことに慣れている。
相撲で培った足腰がある。
投げ技や押し、突きの感覚もある。
もちろん、そのままプロレスができるわけではない。
プロレスにはプロレスの技術がある。
受け身。
ロープワーク。
組み立て。
試合の間。
相手との呼吸。
そして、相手の技を受ける技術。
相撲とは違う。
だが、「全然違う世界」というほど遠いものでもなかった。
少なくとも、花嵐にはそう思えた。
テレビに映るプロレスラーを見ながら、花嵐はそんなことを考えていた。
「相撲からプロレスに行く人間も、結構いるよな」
誰かが言った。
「ああ」
花嵐も頷いた。
「力道山もそうだしな」
「うちの部屋出身の大ノ海さん(石川孝志)は当然として、親方の知り合いのラッシャー木村さんも元力士だろ」
「そうですね」
名前が出た瞬間、花嵐は少しだけ画面を見直した。
ラッシャー木村。
同じ相撲を経験し、プロレスへ進んだ男。
花嵐にとっては、単なるテレビの中のレスラーというより、少し違った存在だった。
相撲取りだった人間が、プロレスラーになれる。
それはもう、何十年も前から実証されている。
だからこそ。
花嵐にとって「プロレスへ行く」という発想は、荒唐無稽なものではなかった。
ただし。
それを自分がやるとなれば話は別だ。
テレビで見るのと、自分がリングに上がるのとでは、当然違う。
自分にできるのか。
相撲を辞めてまでやる価値があるのか。
それが分からなかった。
*
ある日のことだった。
テレビに映るプロレスを見ながら、花嵐は言った。
「やっぱり、身体は大きいな」
「お前が言うか」
笑われた。
「いや、そういう意味じゃなくて」
「分かってるよ」
「相撲から行った人間って、やっぱり組み合いは強いんですかね」
「どうだろうな」
しばらく考えてから、相手が答えた。
「相撲が強いからって、プロレスも強いとは限らないだろ」
「まあ、それはそうですね」
「逆もそうだろ」
「……ですよね」
花嵐は頷いた。
相撲とプロレス。
似ている部分がある。
だが、同じではない。
その違いを、花嵐は何となく理解していた。
むしろ興味があった。
相撲で覚えたことが、どこまで別の世界で通用するのか。
押し。
突き。
かち上げ。
四つ。
投げ。
相手の重心を崩す感覚。
そういうものが、プロレスではどう変わるのか。
その疑問は、少しずつ大きくなっていった。
*
そして、もう一つ。
花嵐には気になる人物がいた。
輪島大士。
自分の師でもある親方だった。
元横綱。
そして、相撲界の中でも特別な存在。
花嵐は、輪島の背中を見てきた。
土俵の上で勝つこと。
強い相撲を取ること。
そして、力士として生きること。
それを教えてくれた人間である。
その輪島の周囲にも、時折プロレスの話が出る。
もちろん、この時点で花嵐にはまだ具体的な話ではなかった。
ただ。
相撲を離れた力士がプロレスラーになる。
その道は、決して閉ざされていない。
それだけは知っていた。
*
春が進んでいく。
十両としての土俵。
稽古。
巡業。
そして、部屋の将来についての不安。
毎日は忙しい。
だからこそ、花嵐は余計なことを考えないようにしていた。
土俵に上がれば、目の前の相手だけを見る。
立ち合えば、前へ出る。
負ければ稽古する。
勝てば次へ進む。
それだけだ。
だが、部屋を取り巻く状況は、花嵐が考えないようにしても勝手に変化していった。
噂が現実味を帯びてくる。
部屋の将来について、力士たちの間でも具体的な話が出るようになる。
そしてある時。
花嵐は、自分自身に問いかけた。
――もし、本当に部屋がなくなったら。
その時、自分はどうする。
移籍するのか。
別の部屋で相撲を続けるのか。
それとも。
相撲そのものを辞めるのか。
最後の選択肢が頭に浮かんだ瞬間。
花嵐は、少し驚いた。
以前なら、考えもしなかった。
だが今は、違った。
十両になった。
夢だった。
それなのに、その夢を手に入れた直後だからこそ、別の未来を考える余地が生まれてしまった。
人間というのは、不思議なものだった。
手に入らないと思っていたものを手にすると、その先を考える。
そして時には。
手に入れたものを手放すことまで考えてしまう。
*
ある夜。
花嵐は電話の前に座っていた。
番号を見つめる。
少し迷う。
そして受話器を取った。
相手が出る。
「もしもし」
「……もしもし」
花嵐は一度息を吸った。
「お久しぶりです」
「花嵐か?」
「はい」
「どうした?」
声を聞いた瞬間。
花嵐は少し安心した。
相撲からプロレスへ行った先輩。
自分のことを相談できる人間。
ラッシャー木村。
「ちょっと、相談したいことがありまして」
「相談?」
「はい」
花嵐は、言葉を探した。
何から話せばいいのか。
十両になったこと。
部屋のこと。
これからのこと。
そして――。
「もし……」
花嵐は言った。
「もし、相撲を辞めることになったら」
一度、言葉を切る。
「プロレスって、できますかね」
電話の向こうが、一瞬静かになった。
花嵐は受話器を握ったまま待った。
その沈黙が、やけに長く感じられる。
だが、彼はまだ知らない。
この一本の電話が、自分の人生を大きく変えることを。
まだ、この時点では。
花嵐は相撲を辞めると決めたわけではない。
プロレスラーになると決めたわけでもない。
ただ、可能性を尋ねただけだった。
十両という切符を手に入れた男が。
その切符の先にあるはずだった未来とは別の道を。
初めて覗き込んだだけだった。
そして、その道の先には。
土俵とはまったく違う、もう一つのリングが待っていた。




