第4話
それから旧図書室まで連行されていった僕がなんとか数奇院に機嫌を直してもらったころには外は真っ暗になっていた。
蛍光灯の黄色がかった光が照らす廊下を足早に歩いていく。僕には大切な用事がひとつあった。
「あれ、泉やん? どうしたん、こんな夜更けに。」
偶然通りかかった梅小路が不思議そうに声をかけてくる。シャワーでも浴びたのだろうか、濡れた黒髪がしっとりと輝いていた。
「いや、別にたいしたことのない用事だよ。」
弱ったな、あんまり知られたくないことなんだけれど。内心焦りながら僕はそっと手に持つビニール袋を背後に隠した。
「ふ~ん、そうか。なんなのかは知らんけどがんばりぃな。」
「うん、雅さんこそ夜は背後に気をつけてね。」
あんまり興味がないようでよかった。そう胸を撫でおろしながらすれ違う瞬間、僕の右手からバッとビニール袋が奪いとられる。
油断しきっていた僕はあわてて手をのばすも時すでに遅く、梅小路は僕から十分に距離をとっていた。
「返してよ。」
「ふんふんふ~ん、いったい泉はなにを隠しとったんやろうな~?」
僕が軽く睨みつけるのもお構いなしに、楽しげに目を輝かせながら梅小路がビニール袋の中をあさっていく。ため息をついた僕は梅小路の思うがままにさせることにした。
「なんやこのタッパーは……。あれ、ただの煮っ転がしやないか。なんかヤバいもんが入っとる思たのに。」
中身を覗きこんだ梅小路はあてが外れたとばかりに取り出したタッパーを元に戻していく。僕はビニール袋をひったくるように受け取った。
「これでわかったでしょ? 別にたいしたことでもないんだ。」
僕のもつビニール袋に入っているのは、今日作ったばかりの料理である。もちろん、けっして危険なものではない。
僕の運んでいたものの正体を暴いたにもかかわらず、梅小路はまだ納得がいっていないかのように首をかしげている。余計なことを詮索されないうちにと、僕は先を急ごうとした。
が、ジトッとした目つきの梅小路にグッと襟もとを掴まれる。
「やっぱりなんか怪しいわ。うちもついていってええか?」
「ごめん、個人的なことだから。雅さんには関係ないことだよ?」
梅小路はブルブルと首を振る。
「泉は前も悪いことしとったからな。泉が人を毒牙にかけるのは友人として見過ごせんのや。」
まるで忘れさせはしないといったふうな梅小路の視線に僕は理解した。まだ梅小路は騙されたことを根に持っているのだ。
諦めた僕が力なく頷くのをみて、梅小路が嬉しげに飛び跳ねる。そんな梅小路に僕は釘を刺した。
「ただし、途中で見聞きしたことは絶対に口外しないように。ほかの人に迷惑をかけちゃうからね。」
僕はどんどんと迷宮のように入り組んだ校舎の奥へと進んでいった。
窓ガラスは例外なくすべて割れていて、壁の一部は突き破られて暗黒の森が覗いている。床板はあちこちが剥がれていて、一階の廊下が見え隠れしているところもあった。
無論、電灯もつかなくなってから久しいので、薄く差しこんでくる月明りだけが頼りである。
神子高校の生徒ですらめったに訪れないようなこの深奥は、修繕されることなくただ荒れ果てるにまかされていた。
その陰鬱な気配につられて、はじめは意気揚々と廊下を闊歩していた梅小路もだんだんと不安げな表情になっていく。
「あ、あのやな。ビビってるわけやないんやけど、参考までにどこまで行くつもりなん?」
震える声で尋ねてくる梅小路に、僕は意地悪げに応えた。
「まだまだ先までだね。怖くなったんだったらひき返そうか? 今ならもとの廊下まで送ってあげるけれど。」
恐怖で体が震えている梅小路はそれでもまだ意志は固いらしく、顔を青ざめさせながらも首を振った。
「バ、バカなことを言うんやない! 諦めたりするもんか、うちはついていくで。」
次の瞬間、ピカリと眩い光が目の前の廃教室から放たれる。ギャッと狸のような短い悲鳴をあげた梅小路は僕に飛びついてきた。
僕よりも身長のある梅小路に凭れかかられた僕は努めて頭にあたる柔らかいものを無視しながら引き離そうとする。
が、こちらに近づいてくる人影に気がついた梅小路はそれどころではないようだった。逆光でよく見えないその影が、じわりじわりとにじりよってくる。
「ひっ、な、なにもんやぁっ! これ以上近づいてくるんなら容赦せんでぇっ!」
へっぴり腰の雅梅小路はまるでホラー映画の登場人物のように情けない誰何の叫びをあげた。その度に首に回された手に力が加わり、僕はあわや窒息死しかかる。
「おや、兄貴。あんたもう転校生に手をつけたんで? 先生にバレたらこりゃひと騒ぎになりますよ?」
からかうような悪戯げな声とともに、僕にむけられていた懐中電灯が下げられる。露わになったその人影の正体は、神子高校の生徒だった。
目を丸くした梅小路の腕を僕は必死にポンポンと叩く。ようやく我に返った梅小路は顔を真っ赤にして飛びすさった。
「あっ、ごめんや。」
「げほっ、げほっ!」
激しく咳きこみながら、僕は膝に手をつく。すぐ目の前までやってきたその人影、梅原はニヤニヤとした笑みのまま僕の手からビニール袋をひったくった。
「兄貴とのお熱い抱擁を邪魔してすんませんね、梅小路さん。」
梅小路の顔がまるでサクランボのように真っ赤になるのと、僕のパンチが梅原の腹部に放たれるのとではほとんど同時だった。
廃教室には床に座りこんだ数人の生徒が身を寄せあうようにして僕たちを待っていた。そのひとりひとりに僕と梅原とで料理の入ったタッパーを配っていく。
全員に食事が行き渡ると、示しあわせるでもなく生徒たちは口をつけ始めた。それを眺めながら、僕は教壇に腰かける梅小路の横に座る。
不思議そうな梅小路の視線が僕の肩に突き刺さった。ポツリと梅小路が疑問を呟く。
「泉、この人たちはいったい……?」
「最低限生きていく分のお金すら送られなくなった人たちだよ。」
ここ、神子高校では、普通の生徒のほとんどは親など保護者からの金銭的な仕送りに依存している。この高校の異常な経済システムは、一ヶ月に一度先生から手渡されるその金によって支えられているのだ。
しかし、誰しもがその恩恵にあずかれるとは限らない。
つまりは、生きていくために必要なだけのお金が送られない人もいるのだ。特に神子高校は全国から問題児が集められてくるだけあって、両親から見捨てられた生徒も多い。
そんな人の辿る末路は決まっている。
高騰する高校内の物価についていけず、かといって何かしらのすべでお金を稼ぐこともできない生徒はただ飢えていくだけだ。
神子高校でもっとも悲惨な暗部が、そこには広がっていた。
「泉、あんたは……。」
「まあ、手助けになるのかはわからないけれど儲けさせてもらってるからね。」
毎日朝昼晩、僕はそういった生徒をこの廃教室に集めて無料で料理を配っている。"銀行屋"の僕がそんな手助けをするのは偽善の中でもとびきり皮肉な行いだけれど、やらないよりましだ。
「それに、なかにはお金が一切送られなくなった人もいる。」
そういった人は、そもそもこの異常な物価が解消されたとしてもこの高校で生きていくことは難しいだろう。
梅小路が義憤にかられたように声を荒げた。
「法律はどうなんや。ネグレクトなんてもんやないやろ、それは!」
「まあ、そこは汚い大人の力ってことで。この高校の生徒の親には政治家も金持ちもいるからどうにでもなるんじゃない?」
現に、教育委員会かどこかが神子高校の惨状を問題にしたことは今までで一度たりともない。ここは、まさしく日本の高校の底辺なのだ。
「それで、くれぐれもここのことは秘密にしておいてね。公になるととても厄介な事情があるから。」
僕はもう一度梅小路に釘を刺した。
「それってどういうことや? べつにこれはいいことやん。」
「"転売屋"が殴りこみに来るからね。知られるとマズいんだ。」
買占めによって価格の釣りあげをする"転売屋"にとって、食料を無料で配っている僕の活動は目の上のたんこぶだ。最悪の場合、見せしめとして暴力を振るわれてもおかしくない。
「そんときにゃ、兄貴だけは絶対に守りますよ。」
いつの間にか、梅原が僕の隣りに立っていた。
「梅原、そういうのはいいって。けっきょく僕がしてるのは偽善なんだから。」
「そういうことじゃありません。兄貴にはここ一年ちょっとで返しても返しきれない恩ができた。」
気がつくと、廃教室の中にいた生徒がじっと熱に浮かされたような視線を僕に向けている。こんなことは初めてだ。僕はどこか気まずさを感じた。
「俺らはどうしようもねえワルだが、兄貴はそんな俺らにも情けかけてくれたんだ。もしなにかあったら本気で命捧げますわ。」
そう語る梅原の目は、しばらくの間忘れることができそうになかった。