尻軽女の逃避
私の心臓は絵麻さんが連れて行ってしまったのだと思う。
代わりに氷でできた心臓を残されたから、今こんなにも体が冷え切っている。
一部だけでも一緒に消えられるなら、絵麻さんは寂しくないだろうか。
この世界に残ってしまった無価値な私には幸せなど似合わない。
ただ思い出の中でだけ生きていきたい。
絵麻さんが隣に居る時間、確かに私は幸せだったもの。
幸せになって欲しいと言い遺したのはそういうことでしょう?
本当は生きていたくなんてない。
初めてできた心を預けられる友達が永遠に失われてしまった世界にいたくない。
だけど私が死んだら、私だけが知っている絵麻さんの記憶は誰にも知られず消えてしまうのだと思ったら、恐ろしい。
これ以上絵麻さんを消すわけにはいかない。
どれくらい時間が経ったのだろう。
ふと人肌の温かさを感じる。
抱きしめられて頭を撫でられている?
きっと絵麻さんだ!
絵麻さんが戻ってきてくれた!
私を夢の世界から引き戻した人は、あからさまに落胆の表情を浮かべていたであろう私と目が合うと申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね。鹿波さんが望む人じゃなくて」
「……違う、悪いのは、明人君じゃない……悪いのは、悪いのは」
……悪いのは、私だ。
私なんかが恋をしたら誰かを不幸にするって知ってたでしょう?
それなのに、どうして絵麻さんに恋なんてしたの?
絵麻さんを不幸にしたかったの?
気付きたくなかった。
絵麻さんが居なくなって、気付かされてしまった。
私がずっと絵麻さんに恋をしていたなんて。
きっとそのせいで絵麻さんは居なくなってしまった。
ごめんね。
許せないよね。
自分を貫き通せない弱い人間でごめんなさい。
一緒に消えたいなどと烏滸がましいと後悔していると、突如猛烈な痛みが私の頭を襲った。
痛い、痛い、痛い……頭が割れてしまう……
きっとこの痛みは私への罰だ。
そのまま死ぬまで苦しめと、私にはまった枷だ。
明人君が私に呼びかけている。
腕の中で苦しみだしたら心配したのだろう。
もがいて抜け出してひとりで苦しまなきゃ。
明人君は私を解放するとそのままソファーに横たえた。
私を温めていた体温が遠のいて再び痺れるような寒さを感じる。
痛みと寒さに目をつぶって、やり過ごすために頭を抱えて蹲った。
痛い……死にたい……悲しい……
「鹿波さん、薬持ってきたよ。飲める?」
薬?
なんの?
私がピンと来ずに呆けていたせいなのか、明人君は錠剤を私の口に押し込み、口移しで水を飲ませてきた。
そんな強引なことをする人ではないので驚いて、拒否する暇もなく飲み込んでしまう。
やがて割れるような頭の痛みは、知っている感覚へ変わっていった。
この意識の朦朧とした感じ……そうか私の元の体質が復活したのか。
恋愛をしたら症状が激化するかもしれないってお医者様に言われてたことを思い出した。
「薬の場所、よく知ってたね」
「俺だって鹿波さんのことは高梨さんの次くらいによく見てたと思うよ」
「そっか」
抑制薬を飲んだけれど痛みが治っただけで、元々よく苛まれていた症状は治る気配がない。
激化した症状には完全には効いてくれないのだろう。
「鹿波さんが大切な人を強く思うときに具合が悪くなる体質って教えてくれてなかったら、わからなかったと思うけどね」
明人君は私が絵麻さんのことを友達以上に愛していたと気付いたらしい。
それなのにどうして優しくしてくれるのだろう。
ブランケットをかけてくれて、私が寒くないように手を握ってくれた。
「今日は鹿波さんが落ち着くまでそばに居てもいい? まだ具合が悪そうだし、なにか欲しいものがあったら取ってくるから言ってね」
「……あのね、言ってなかったことがあるの」
「それは聞いたほうがいい? 言いたくないと思ってたことなら無理に言うことはないよ」
私の心の弱さを見抜くように返された。
誰でもいいから許されたい。
誰でもいいから罰されたい。
「私の体質ね……薬だけじゃなくて、人への暴力か性行為でも症状が緩和するの。でも、私暴力を振るうのができなくて……だから薬が処方されるまで、ずっと明人君を利用してたんだ」
「そんなの気にしなくていいよ。どんな形でも鹿波さんを助けられていたんだから嬉しい」
「……そんなこと言われたら甘えちゃうじゃない」
「俺は高梨さんから、鹿波さんを甘やかしてって頼まれたんだよ。だからいくらでも甘えて。高梨さんにはなれないけれどね」
ねえ絵麻さん。どうして居なくなった後も私を大事にしてくれるの?
私が甘える先まで用意していくなんて。
消えてしまった絵麻さんのために私は泣いてもいいのだろうか。
泣きじゃくって甘えても許してくれる?
「もし鹿波さんに好きな人ができたら別れようって言ってたのは覚えてる?」
間に遮るもののない温かい腕の中でそんな問いをされた。
明人君にあやしてもらったり鎮めてもらってすっきりした頭で記憶を探る。
そういえば付き合い始めの頃そんな話をしていた気がする。
「これから鹿波さんとも唯花とも一度別れて、友達として鹿波さんのそばにいるのはダメかな?」
「唯花ちゃんとも?」
「……やっぱりいつまで経っても唯花は幼馴染としか思えなくて、付き合い続けたいと思えないんだ」
少し前の私なら、それでも付き合い続けて欲しいと言ったと思う。
だけど恋を知った私は、もうそんなこと言えない。
自分の心を偽って付き合い続けるのは無理だ。
「わかった、別れましょう。でも、それなのにこれからも甘えていいの?」
「鹿波さんに必要なら、俺のことはいくらでも使って。前みたいに利用するだけでもいい」
「絵麻さんの代用品にしてしまっても?」
「嫌になったらちゃんと言うから」
私のせいで、明人君は救いのない恋をしている。
でも私も絵麻さんの気持ちが私に無くても、頼られたら嬉しくて頑張ってしまうだろう。
初めて知ったけれど、恋心というものは厄介なものだね。
「あの、もし明人君が私を抱きたいと思ったときは、私に構わず抱きに来ていいよ。それくらいなら私でも返せると思う」
「そんなこと言われたら、冬休みはずっとここに住まなきゃ」
私の心臓はまだ凍りついて、血を送り出すには温かさが足りないままだから、それもいいかもしれないと思ってしまった。
絵麻さんが居ない、価値を失ったこの世界で、絵麻さんを覚えていることくらいしか価値の無い私を、どうにか生かそう。
情緒不安定だった若い頃のテンションを思い出そうと頑張ったのに、体重の増加とともに太くなった神経では繊細な心情が書けない。




