Moanin'
目が覚める。
まぶたを開けると見慣れた天井が見えた。アイボリーの無地。閉め切ったシャッターからわずかに日の光がもれている。
上体を起こし、うでを突っ張らせ、頭を前にたらして2秒かたまる。低血圧。「朝が来た」以外に認識できることがない。頭をたらしていると、ゆっくりゆっくり首から血が上ってくる。なんだっけ。この間テレビでやってた、カイバ?ヘントウタイ?が起動してくる気がする。5歳のころからの習慣だ。脳の中に何がつまってるかなんて知らなくても、どうすれば自分の身体が起きてくるのか、彼は、5歳のころから知っていた。
2秒の儀式が終わったら、ベッドのわきに足をおろす。
5歩だけ直進。
「おはよう、ヨシ子」
きり吹きで、ヨシ子のへやを湿らす。観葉植物、枝流木、紫外線ライト、水入れ、へやの中の有象無象がぼやけてまばゆい。葉の上、枝の表面、ライトのおもて、小さなしずくたちが張りついて、水の王国。身体をかがめ、少し、ながめる。
湿気でどんなにへやを濡らしても、ヨシ子はすぐには起きてこない。しずかにしずかに目を閉じて、へやの最奥に深く腰を下ろしている。
水の王国のうつくしさに満足して、オレは身体を立てる。洗顔は10分、スキンケアは6分、肩まわり、腰、ひざを念入りにストレッチ。
ローテーブルの上のスマホがふるえる。8時。今日も時間ジャストに家を出ることができる。彼、津元祥平はスマホをジーンズ左側のポケットにしまい、玄関の鏡で自身のひとみを3秒見つめ、扉を開けた。
最寄り駅から徒歩15分。上層階はオフィス、下層階は大手チェーンの居酒屋が入っている雑居ビルの群のなかに、レンガ造りの喫茶店が、ポツンとある。赤ちゃけたレンガたちは、建築法に抵触していそうなボロさ。重たいレースのカーテンがかかり、中が見えにくいショウィンドウの右横に、地下に続く階段。
「からすの小屋」はその階段をおりた場所にあった。
ライブハウスの店名は、圧倒的に英語名が多い。たいていは、ライブハウスのオーナーが愛するアーティスト名、曲名、曲の中にでてくるワンフレーズ、などなどをもじってつけられる。
ところが、この「からすの小屋」のオーナーは
「ぼくが愛してるのは『音楽』であって、『音楽やってる誰かとか、何か』じゃないから」
という、音楽博愛主義だった。このライブハウスの購入時、「ドアも、壁も、トイレの便器以外ぜんぶ真っ黒だね。からすみたいだ。じゃあ、『からすの小屋』でいいんじゃない」と店の内観から名づけたのだった。
取っ手まで黒にそまったドアを開けると、正面にシンプルなバーカウンター、右奥にはステージ、手前には日によっては5、6のテーブルセットが並ぶ観客席がある。開店中ではないため、照明は、ざっと室内を見わたせる程度に抑えられている。ステージだけ、グレーに見えるほど黒のグラデーションが薄まっており、小さなライトのみがともる今の環境でも、周囲からつよく浮かびあがってみえる。
光のつぶが集約されるところ。
祥平は、1秒だけステージを見つめると、誰も入っていないバーカウンターに向かった。3段の棚に、整列している洋酒のビン。店内に入った瞬間には、バーの背面のかべはすべてビンでうまっているように見えたが、近くまで寄ると、左端のビンのいくつかがライトの光を反射していない。
3Dアート。
洋酒が並んだ棚がまるで続いているように錯覚するが、そこにあるのは、練習用スタジオへとつづく隠しトビラである。オーナーの遊びごころからできたのだが、意外にも、とある人気バンドを招いたときに、役立った時があった。そのバンドはメジャーデビュー直前で、熱狂的な女性ファンが多く、特に情熱が暴走した一部のファンの『追っかけ』が過熱し、ライブ直前のスタジオ練習の障がいになるほどだった。しかし、カウンターにバーテンダーが入り、ステージだけにライトが集中すると、関係者以外は隠しトビラの存在に気づくことはなくなる。ファンの『侵入』におびえることなく、練習に集中できたメンバーたちは、『からすの小屋』で最高のパフォーマンスを行なったのち、無事メジャーデビューをはたしたのだった。
隠しトビラを押し、祥平はスタジオに入った。
向こう側から、まぶしさが溢れてくる。
ステージ、
かがやき、
メジャーデビュー、
一瞬ヨシ子のみどりが見えて、
そう、俺がいるべきところ。




